« 2013年2月 | トップページ | 2013年4月 »

2013年3月

2013年3月31日 (日)

答えは『実現思考のガイドライン=構造認識』

パラダイム転換とは、可能性実現に向かって、『回り道をしない思考で、可能性に生きる』ということではないかと思う。これは、人間として(というより生物として)もともと備わった至極あたりまえの能力のはずだ。しかし、このまっとうな能力の発現も、支配観念に代表される『倒錯観念』と、これらを用いた『倒錯思考』により蓋をされてしまう。

そもそも、私権圧力に太刀打ちできないが故、あきらめて、現実をねじまげて解釈し、幻想充足するという倒錯思考や、それにより出来上がった倒錯観念に現実突破力がないのはあたりまえである。これらは、いわば『あきらめの観念』である。それでも、幻想でも充足が必要だった時代には大切なものだったのろうが。

現に、倒錯思考は可能性を閉ざす。しかし、それにどっぷりつかっている人は、主観として、360度考えているつもりでいる。限定された観念の中だからそう感じるのである。しかし、可能性しか見ていない人は、主観的にはそうは思えないだろう。なぜならば、まだ顕在化(観念化)していない可能性について、捉え、焦点をあわせているだけだからである。

ただ、焦点を絞る前に、潜在思念のなかであらゆる可能性を探索しているという意味において、結果的に360度の可能性を模索しているのだろう。しかし、これらの人はもっと鮮明に状況を捉え、切り開いてゆきたい(実現したい)と思っている。また、そういうふうに生きることができれば幸せだと思っている。

そのためには、実現性のある『答え』が必要である。『答え』とは、彼らがもっと鮮明に状況を捉えるための『実現思考のガイドライン=構造認識』であろう。これにより、彼らは自ら世界を切り開くという幸せをつかむことができる。この答えにより実現派の変革(実現)期待に応えることができる。

答を得た実現派は、すでに持っていた可能性実現に向けたエネルギーを、余すところなく表出し、真の変革気運を作り出すのだと思う、まっとうな生物である人間として。
 

本田真吾

2013年3月29日 (金)

従来の思想運動とも社会運動とも無縁な新しい認識の地平へ

私も森本亜希子さんの言う>新しい「運動」のスタイル<(19601)と、まったく同じ捉え方をしています。

 一般的に『答え』というと便利な「マニュアル」だったり安直な「ハウツウ」をイメージしがちですが、マニュアル人間やハウツウ人間ほど(仕事で)役に立たないというのは、多くの人が日常痛感していることです。しかし現代人は、このマニュアル思考やハウツウ思考に余りにも慣れ過ぎてしまって、人類を人類たらしめた精霊信仰~構造思考を一部の専門家の専売特許のように錯覚してしまったようです。

 『答え』は構造認識であるというのも、揺るぎない骨格と、状況に応じて組替え可能なフレキシビリティーの両面を合わせ持つ認識だからで、それはマニュアルやハウツウなどの硬直した思考方法とは対極にあります。

 この新しい構造認識の連鎖を広げるという「運動」は、ゲバ棒はもちろん、デモやお上への陳情とも無縁であり、誰もに普遍的な潜在思念を日常生活の実践課題に繋げて現実化するという点で、教条的な宗教の布教活動とも似て非なるものです。

 普通の人たちの普通の生活に立脚した変革運動・・例えば育児や教育や消費という場面に限っても『実現論』にある共認原理という認識を理解すれば、様々に試行錯誤が可能になる・・しかもそれはほんの少しだけ思考のボタンをかけ直すだけで時代や世界への理解が広がる・・。こんなところにも、この運動の新しさと可能性が強く感じられます。

土山惣一郎

2013年3月27日 (水)

潜在思念は潜在思念でとらえよ

阪本さんの会議室が難しくなったことへのわかりやすい解説があったのですが、結論として傍観者のスタンスを改めよとの視点が提示されました。それはその通りだと思うのですが、スタンスを改めよというだけでなくもう少し噛み砕いて議論した方がいいと思います。(精神論にならない為にも)

>その変化とは何かと言うことを考えると、この会議室のテーマの一つである、「パラダイム転換とは何か?」ということに深く関わっているのではないだろうか?

当初のこの着眼点はそうだと思いますが、だから結論として傍観者のスタンスを云々では間がつながっていないように思います。

私はこういうことではないかと思っています。
パラダイム転換の議論を論じる時すでに認識を転換していなければ入れないのではないでしょうか。そしてそれは阪本さんがいうように従来型の問題意識~構造化、原因究明、変化の新たな認識の答という頭の使い方(いわば学校教育的な、言い換えれば近代哲学の原点)では対応できない内容になっているのでしょう。

現代の頭の構造を直線的な問と解という2元的な使い方とすれば対極として始原人類が自然という対象を精霊という概念で捉えた思考は少なくとも2元的な発想を超越しているといえるでしょう。
漠としたものを前方位的に球体のごとく受け止めるそんな頭の使い方になっているのではないでしょうか。

その鍵を握るのが潜在思念の部分だと思います。潜在思念(直感や対象から語りかけてくるメッセージに対する深い理解・・・に近い部分)をどれだけ自ら発掘し、磨きをかけるかによって頭は少しでも柔らかくなり、議論の本質に肉薄していけるのではないでしょうか。
例えは悪いですが”女が子宮で物を考える”等はまさに潜在思念の領域だと思います。

考えるのではなく感じるのです。思考するのではなく認識するのです。

パラダイム転換は一朝一夕ではできないでしょうが、今までの思考方法を脱却し日夜潜在思念で考えつづけることで開けてくるのではないかとも思います。
そもそも潜在思念そのものがピンとこないという場合はその前にもうひとつ何かの解説が必要になりますが、それでは2元的な思考方法のパラドックスに入り込んでしまうので、潜在思念の概念それ自体を潜在思念でとらえよというしかありません。

田野健

2013年3月25日 (月)

不全発の『変革の必要』から、実現発の『認識の必要』への大転換

不全捨象→充足基調の循環〔図解〕
リンク

1.実現発の『認識の必要』は、充足基調・可能性収束の大潮流に応えることが出来る。

2.『可能性を感じさせる、深い=新しい認識』こそ、実現派を主対象とする「運動」に相応しい目的である。
それに対して、不全発の「変革の必要」では、否定意識に閉ざされた思想派しか集まらず、全く可能性が感じられない。しかも、否定意識や不可能視に囚われているので、『新しい認識』が与えられても半信半疑のままで終始し、必要な行動に至らない。

3.『認識の必要』なら、そのまま(一段階で)『実現論』や『まつりネット』に直結する。
それに対して、「変革の必要」は、まず「根底からの社会変革の必要」、次に「その為には、新理論が必要」という二段階の言葉(論理)が必要になる。しかも、その二つの論理共が、(上記の如く、社会派・思想派にさえor社会派・思想派だからこそ)スンナリとは受け容れられない。

4.『新しい認識』が広まってゆけば、自ずと社会はあるべき根底からの変革の方向に向かってゆく。つまり新しい認識こそが、真の変革気運を作ってゆく。

四方勢至

2013年3月23日 (土)

必要意識⇒課題意識には、不全発と可能性発の二通りある!

変革期待は、変革の必要を意識していなければ生じない。しかし、不全捨象・課題捨象(つまり変革の必要意識を捨象)した以上、変革期待は生じない筈である。
脳回路上の意識には、最新・現在・蓄積の時間差がある。つまり、新しい意識(情報)は次々と処理されて蓄積されてゆく。(注:この蓄積回路は、本能を含む過去からの塗り重ね回路であると同時に、現在形において作動している現在回路でもある。)

1絶えず、新たにor現在形で、社会不全(危機・閉塞)が意識される。
2しかし、「答えがない」という状況判断によって、不全は捨象され封印される。=不全が処理される。
2’と同時に、潜在思念の奥に封印された社会不全が蓄積されてゆく。
3不全・課題を捨象した事によって、全回路が充足収束して、意識(=時代)の充足基調を形成する。
1’しかし、絶えず新たな不全(危機・閉塞)現象が生起し、意識される。

この1’→2・2’→3→1’の循環においては、絶えず新しいパターンの危機・閉塞が話題になる(古いパターンは処理済みで、あまり話題にならない)。従って絶えず新たに社会不全が意識されており、その限りで変革期待は生じる。

しかし、その社会不全も、数日~数週間で「答えがない」という状況判断によって、捨象・封印されてゆく。従って、社会不全⇒変革の必要意識は流産し続ける。流産した社会不全⇒課題意識は封印されたまま潜在思念の奥に蓄積されるが、答えがないままに、やがてそれも風化してゆく。
注:ここに至れば、例え今、答えを示されても、容易には信じられず、半信半疑となり、従って行動力が出ない(行動に至らない)。

この循環を通じて、唯一、充足基調⇒本源収束の回路だけが強化されてゆく。

ところが実現派(特に本源派の女)は、即座に不全処理をして終うので、(社会不全そのものは潜在思念に封印されて蓄積されるとしても)、変革の必要意識が一旦は生じたのか否かさえ疑問で、まして明確な課題意識などはそもそも生じていないので、潜在思念にも何も蓄積されていない。

しかし、実現派にも(本源派の女と云えども)、実現=可能性収束の必要は在る。その限りで無意識の必要意識は在る。
そして、実現=可能性収束する為には、何よりも深い=新たな状況認識が必要(かつ有効)である。

つまり、実現派には不全発の課題意識はないが、可能性発の必要意識はある。
従って、『(社会)変革の必要』から、『(構造)認識の必要』へと、目的・路線を大転換すれば良い。これが、運動論の最終解答である。

四方勢至

2013年3月21日 (木)

「社会」との断絶

>「社会を捉えようとしたとき、そこには必ず自分が存在している。」という構造<(19255

これは、私権社会においては、私権の強制圧力そのものが、「社会」として認識されるすべてであったから、ということだろうか。そうだとすれば、自己に閉塞するという問題以前に、現在は「社会」としてリアリティを持って認識する事柄が何もない状態といえないだろうか。これが「答えがない」という状況ではないかと思う。

客観的に「社会」を分析してみせる評論家は、自分と社会との距離を冷静に保っているように見えるが、実際多くの場合は、ニヒリズムやシニシズムという否定回路に捕われている点で、「社会」を対象化しているとはいえないのだろう。自省というのも、またニヒリズムの亜種のようなものではないか。現実否定、矮小化、不可能視が背後に横たわっている。

構造的問題として捉えるならば、自省の是非ではなく、「社会」と決定的に断絶している、という認識からはじめざるを得ないのではないだろうか。
同類圧力時代における「社会」とは、一体どのようなものなのか、という答えを紡ぎだしていくことは容易ではないのだろうが、虚心坦懐に事柄そのものの語る声を聞く、という「対象化する」普遍態度に立つことは、支配観念から脱却できれば、誰にでも可能なことであろうと思う。

岩井裕介

2013年3月19日 (火)

心情的否定が主調となる不思議

>まず心情的否定があり、観念がそれを補強する

端的に問題点を指摘された言葉だと感じました。

評論家と呼ばれている人たちの言説などに触れると、この言葉がよく理解できます。随分長い文章を書いているのだけれども、結局のところその対象をもっともらしい理屈で否定しているに過ぎない、という印象を感じるものが多かったように思います。それであれば、それこそ端的に一言「気に食わない」と言ってもらえたほうが、こちらも長い文章を読む手間が省けて助かる、というものです。心情的否定に基づく観念が、いかに無駄なものかを知る一場面でもあります。

一方で、対象に正対して使われる本来の観念回路から生み出される言葉は、非常に素朴な形をとるように思います。
例えば、お年寄がふとした拍子につぶやく何気ない一言などはその例にあたらないでしょうか。ありふれた言葉なんだけれども、実に学ぶところの多い一言に出会うことがあるものです。

現実に適用可能か否か、という観点からすれば、後者のほうがよほど注目されて然るべきなのですが、現実には前者の声が大きく、それが正しい論じ方であると無意識に刷り込まれ、同じ轍を踏まされることになる。

身近な友人を見ても、三世代家族で育った人間のほうが落ち着きというか、視野が広い印象を受けます。高度成長期、人はホワイトキューブの郊外団地に何の幻想を見たのだろうかと、不思議に思います。
 

三宅秀和 

2013年3月17日 (日)

「変わらなきゃ」より「変えなきゃ」かもしれない

相手を変えるにはまず自分から。
そう思っていた。今もそう思っている。正しいと思う。
でも「変わらなきゃ」ってお題目をいくら唱えたって、なかなか実現しそうもない。
自分が変わらなきゃ相手も変わらない。いつまでも前進しない。

なぜか。「まず自分が変わらなきゃ」と考えると、「現実を対象化するのでなくひたすら内部意識を模索して観念化する倒錯思考の回路」(19265:橋本正雄さん)に入ってしまって、結局は「悩み思考」になってしまうからかなと思う。出口はない。

だったら、ちょっと発想の転換。
いま問題となっているその対象を「変えなきゃ」と思ってみる。
相手が人間なら、都合のいい要求や表層の批判の言葉なんかじゃ、とても変えようがない。
課題が旧観念と本源収束の狭間で起こるズレによるものなら、旧観念の欺瞞性や、本源収束の可能性などをつかんでおかないと、話にならない。

自分だって「変われない」のに、対象を「変える」なんて、どうしたらいいか。ほんとにむずかしい。

でも、「変わらなきゃ」って自分のこと考えてるより、相手のことや対象(課題)のこと考えてる方が、まだ思考回路の使い方としてはまともなのかも、と思えてきた。
きっとその「変えなきゃ」の思考→実践過程で、自分もすでに「変わっている」のだろう。

訓練してみる価値はありそう。答えはすぐには出ないとしても。
 

藤岡聖子

2013年3月15日 (金)

現代意識潮流と戦略ターゲット

現代意識潮流と実践的突破口〔図解〕
リンク

全てのネックは、「答えを出せない」という一点にある。しかし、我々は既成観念を全的に否定した事によって(かつ思考を可能ならしめる現実基盤=共同体を形成し得た事によって)、奇跡的にその答え=実現構造論をほぼ構築する事が出来た。後は、その共認形成の為の運動論が残っているだけである。

基本的には、答えがないから不全(危機)を捨象し、思考を捨象しているのだから、基本的な答えを与えてもらえば、課題収束⇒思考収束する筈である。(従って、いずれ多くの人々の手で実現論を改良してゆく事も可能になる。)
しかし、大多数は支配観念を明確に全否定しておらず、その結果、観念回路の大部分が支配観念に染脳されて終っており、その観念が思考を支配して本源収束の出口にフタをしたり、異端視共認を形成したりしている。

∴支配観念を全否定することが最初の関門=突破口となり、支配観念からの脱却度と実現回路の発達度が、戦略ターゲットの選択基準となる。

A.まず、既成観念を全否定していない中途半端な社会派・理論派は、無用である。むしろ彼らこそ社会を混迷させ閉塞させている元凶であり、例え新理論が与えられても(何であれ)批判するしか能のない旧人種である。支配観念を明確に全否定できれば彼らも変われるが、そうでない限り可能性はない。

B.同様に、既成観念を全否定していない運動派も、無用である。むしろ、既成観念に立脚した彼らの運動は体制の補完物にすぎず、社会をますます閉塞させてゆくと共に、変革のエネルギーを掴み取ってゆくガンである。そもそも答えもないのに主張し運動していること自体、偽者の証とも云える。社会を変えるには、新しい構造観念が必要な事を認め、既成観念を全否定しない限り、全く可能性はない。

C.多数派(欠損型)は、規範観念に収束しており、支配観念にも支配されている。しかし、観念捨象の下地があり、本源規範に移行してゆく流れの中にあるので、まず支配観念を全否定させることが肝要で、それが出来れば規範観念も薄まり、潜在思念による実践思考(⇒実現回路)の可能性が増大する。

D.我々の主対象は、否定意識や近代観念から脱却して、潜在思念で実践思考する実現回路の発達したタイプである。(云わば、本源志向の実現派という辺り)
⇒ただ、課題捨象⇒充足基調の現在、「難しそう」な答え=実現論を読んでもらう事が唯一の難関となる。
⇒まずは潜在思念に訴えて、何かしら新しい可能性を感じさせる言葉が、突破口である。
注:まず言葉。言葉に誘われて場へ。(はじめに言葉がなければ、場に可能性があっても、その場に誘導できない)。
また、潜在思念が(深い所で)感じる可能性は、場や仕組みそのものではなく、それを生み出した状況認識をはじめとする構造観念である。

四方勢至

2013年3月13日 (水)

現実を否定、ひたすら内部意識に向かう倒錯観念

四方勢至さんは、現代人はなぜ新しい観念を作り出せないか?という問題を構造化しようと考え、まず現代人の思考次元三段階を押さえています。
そこでは、現代人の思考を対象にしていますが、決して自分だけの内面を対象としているのではないことが良く分ります。

しかし、四方勢至さんの思考次元2:否定意識の倒錯思考の中にあるように、現実を捨象した幻想観念が実現される訳もなく・・ということを、あたかも自分の意識構造に二重写しにしてしまい、挙句内省するというように対象を矮小化してしまう傾向を少なからず持っていました。

これは、追求すべき対象があるのに、自分に引き付けて考えねばと思えば思うほど、対象よりも自己の内部意識の模索に向かう構造を現していると捉えられそうです。

現代人の意識構造、つまり「現実を対象化するのでなくひたすら内部意識を模索して観念化する倒錯思考の回路」を如実に現しているのだと考えられます。

橋本正雄

2013年3月11日 (月)

自省していて社会は捉えられるか

>超越存在たる社会の構造に起因する危機や課題は、超越思考(構造認識)によってしか、把握することも解決することも出来ない。
>殆どゼロから一つずつ構造観念を紡ぎ出して、それらを統合する必要がある事。

確かに始源人類は、自然の具象の背後に精霊を対象化した。しかしそこには、「職人」の例と同じように捉えるべき対象が己とは関係なく存在しているという特徴がある。

対して「社会」はどうか。実は「社会」というものが、これを捉えようとする我々からは完全に切り離せない、対象化しきれないものかもしれないという疑念が、現在の私の頭の中に渦巻いている。

その様に考えるようになった発端は、昨今のこの会議室での議論である。そもそもこの会議室は、「社会変革」を中心且つ最大の課題としている。とはいうものの、これを課題化出来る人間は現在では極めて稀であるのも事実であり、正直に言って、「社会」どころか、「何故人々は参加しないのか」「考えられないのか」といった、どちらかと言えば「捉える側の問題」に終始してしまっている。

確かに我々自身の観念の構造がどうなっているのかということが、社会そのものの有り様を規定する(と言うより同一の問題である)。しかしその際、社会の問題であることを忘れ、自身の怠惰だけを問題にしてしまうのであれば、後は単に心構えというような話にしかなっていかないであろう。問題は「社会」であり、「自分」ではない。その単純な意味合いにおいて自省には何の意味もない。

この問題は、やはりある意味で、構造的に捉えられるべきであろう。感応観念・既成観念との指摘はその通りである。しかしそう言われて短絡的に自省に向かわせる構造そのものが、現在の「社会」には存在しいているのではないのかと思う。

つまり、「社会を捉えようとしたとき、そこには必ず自分が存在している。」という構造である。

そして恐らくこのことが、我々自身の、そして現代社会の最大の幻想性なのであろうと思う。自省が自らの怠惰を明らかにすることであるならば、一方でそうした社会の当事者として半ば社会というものを認めてしまうことにもなりかねない。社会だけが悪いのではなく、自分も悪いのだと。

始源人類や職人がそうであるように、対象に向かうということは、自らの思考を越えてその有り様を捉えようとすることなのであろうし、そうした努めこそが、新たな認識を生むのだと思うが、このことが決して精神論や自己の認識(の妥当性)の問題ではなく、あくまでも現代社会の構造的な問題として捉えるべきものであろうと感じている。

斎藤裕一

2013年3月 9日 (土)

人類の宿命課題

「現実」とは本質的に否定したり捨象したりできる対象ではなく、既に周りにあるもので、受け入れ(働きかけられ)、そして働きかける対象としてある。現実の「自然」の背後に精霊を見、祈ったり、法則を発見しそれを利用したり、現実の「集団」で育まれ役割を全うするというように。
 しかし、現実を否定し倒錯観念に陥った時点から、人類は滅亡(自滅)の坂道を転げ落ちている。現実を否定しておきながら現実に生きていくことは、生命原理的に矛盾しているから明白だと思う。
 現実否定の直接的契機は、同類闘争に起因する社会不全にあり、ここに肉薄していかない限り精神破壊も自然破壊も全てが止められない。全くの未明領域であるが、人類の宿命ともいえる課題であり、同時に最大可能性課題だと思います。人類と社会の探究に拍車をかけたい。

岡本誠

2013年3月 7日 (木)

まず心情的否定があり、観念がそれを補強する

>この思考回路の主軸を成しているのは、現実を捨象した否定回路・感応回路であり、現実を対象化するのではなくひたすら内部意識を模索して観念化する倒錯思考の回路である。

四方勢至さんの19060「否定意識の倒錯思考」、難しかったのですが、考えてみました。

「うまくいかない現実」を無意識に心情的に否定し、あとから観念であれこれと屁理屈をつけてそれを補強するという認識様式ですね。

心情的に否定した現実は、まともに対象化されるはずがありません。

結果、己が勝手に創り出した+幻想:ユートピアと照合し、それにそぐわぬ現実をさらに否定することになります。

こういう思考が、「社会を批判する自分はインテリで正しく、順応している大衆はアホだ」、というスタンスにつながるのでしょう(このような風潮はいまだに強いと思います)。自分では極めて論理的なつもりで、実は認識の基盤そのものが倒錯しているというわけですね。

これでは単なる自我幻想・イデオロギーの押しつけであって、人々の意識(≒社会構造)に応える認識が生み出せるはずがありません。そのような思考パラダイムに囚われた思想や運動に、人々が魅力を感じなくなったのは当然だと思います。

蘆原健吾

2013年3月 5日 (火)

思考次元3 本能⇒共認⇒観念の超越思考(構造認識)

超越存在たる社会の構造に起因する危機や課題は、超越思考(構造認識)によってしか、把握することも解決することも出来ない。この構造思考の母胎を成すのは、実践思考の実現回路である。
事実、構造思考の求める答えとは、内部意識(欠乏や危機や課題)と状況認識をイコールで結ぶことのできる実現回路を開くことであり、その実現回路が内部意識と外部認識の相方を強化・変容させることも含めて、思考の基本構造は実践思考と同じである。
しかし、実践思考が主要に潜在思念を使う(内部意識も外部認識も)のに対して、簡単に実践できない⇒答えが見出せないが故に必要になる構造思考では、潜在思念の紡ぎ出す構造観念(主体や状況を構造化した観念)を使う。この普遍妥当する構造観念という位相は、社会(超越存在)を対象とする限り、必然的に求められる認識位相である。

しかし、この構造思考には、現代=過渡期に固有のいくつかの厄介な条件が加わる。
A.否定意識や感応観念から脱却できている事。⇒思考の動因は、充足基調⇒本源収束と社会不全⇒社会収束のみであること。
B.既成の底の浅い、かつ誤った観念は使いものにならず、殆どゼロから一つずつ構造観念を紡ぎ出して、それらを統合する必要がある事。しかも、危機が深刻なほど、より深く広い構造観念が求められること。
C.従って、無限大の時間と修練が必要なこと。⇒それは、考える事を専業とするプロにしか一般には出来ない!
しかし、A・Bから、プロの知識人には、新しい実現観念を(断片的な構造観念さえ)作り出せる資質がない。
☆このA・B・Cこそ、答えを出せない(従って、人類が全面閉塞に陥った)窮極の理由である。

D.もちろん、普通の人も少しは考えてみる。しかし、考えても→出来ない・難しい・苦しい・碌な事がないetc否定意識のオンパレードとなり、それが「考えたくない」「理論は敬遠」という拒絶に近い意識を生み出す。
E.他方で、潜在思念の社会収束が深く進行中で、変革期待は強い。そして、潜在思念の一部は、テレビやネットでの事実収集や社会探索として顕現=自分で考えるのは無理だが、答えを与えてくれるのを願っている。

四方勢至 

2013年3月 3日 (日)

思考次元2 否定意識の倒錯思考

現実に可能性が閉ざされ(or答えを発見できず)現実に対する強い否定回路が形成されている(従って、実現回路が貧弱である)場合、否定意識は捨揚回路(-捨象+収束の回路)に収束して、何らかの+幻想を生み出し、そこに先端収束する。しかし不鮮明な潜在幻想では意識を統合できないので+幻想は観念化されて感応観念(価値観念や規範観念)を作り出し、この感応観念の下に全意識を統合しようとする。
その際に考えるのは、どの言葉・物語が感応回路に響く(充足する)か、そして人々に共認されるかであり、その限りで状況認識や実現回路も貧しいながら作動している。しかし、この思考回路の主軸を成しているのは、現実を捨象した否定回路・感応回路であり、現実を対象化するのではなく、ひたすら内部意識を模索して観念化する倒錯思考の回路である。

しかし、現実の実現回路から見れば、倒錯思考とは思考停止と同じである(正確には内面のみの片肺思考である)。まして、普通の人は既成の感応観念を選択的に理解・吸収して、そこに収束しているだけなので、殆ど思考停止しているのと変わらなくなる。

又、現実を捨象した幻想観念が実現される訳もなく、全意識を統合し切れる訳がない。その限りで絶えず悩みが生じることにもなるが、悩み思考は倒錯思考の副産物であって、思考しても停止しても現実は何も変わらない。

その上、いったん否定回路⇒感応観念に収束して終うと、そこから脱け出せなくなる。従って、例え頭で感応観念を否定して構造認識に向かったとしても、否定意識とプラス幻想という思考の動力源が同じなので、偏り誤った(=現実からズレた)、従って実現の役に立たない構造認識しか生み出せない。

概ねこれが、現代知識人の思考様式である。
 

四方勢至

2013年3月 1日 (金)

思考次元1 潜在思念の実践思考

人々が観念思考を敬遠する様になったのは、知識人によって与えられた構造観念が無効or誤りであることを、人々が(’70年以降)嗅ぎ取ってきたからである。他方、本源充足の可能性が開かれた事によって、代償物にすぎない感応観念は無用の物となって捨て去られた。
しかし、既成観念が生命力を失い、無用の物となれば、ただ捨てれば良いのであって、それらは観念思考を敬遠する理由にはならない。
とりわけ、構造観念は現代の危機を突破する上で不可欠なのであって、既成の構造観念が無効or誤りなら、新しい構造観念を考え出せば良い。

いったい、現代人はなぜ新しい観念を作り出せないのか?
ここで、現代人の思考次元を三段階で押さえておこう。

思考次元1 潜在思念の実践思考

これは、原始人以来の(動物にも備わっている)本源的な思考様式で、主に、感応(本能⇒共認)回路をもって現実を対象化し、答え=可能性を模索する。
生命体の認識機能には、食欲や性欲etcの欠乏を感じる内識機能と、それを充たす為の視聴覚をはじめとする外識機能がある。答えとは、課題の実現経路であり、実現経路とはこの内部意識と外部認識がイコールで結ばれた回路である。
答えを発見すると同時に全主体(=感応回路)はそこ(=実現経路)に可能性収束するが、それはある開かれた(=答えを見出した)欠乏意識とある開かれた対象認識がイコールで結ばれて共に強化される過程=その実現経路が強化される過程=その様な主体(実現回路)が強化・形成される過程である。
従って、欠乏意識(内的認識機能)と状況認識(外的認識機能)を結ぶ実現回路こそ主体の中核(先端主体)であり、この実現回路こそ思考の先端中枢である。

注:人類の場合、当然、観念回路も使われているが、健全な実践思考では、主に状況認識を整序する為に観念が使われている。つまり、潜在思念(その先端の実現回路)によって整序された実践的な構造観念である。
逆に感応観念は、(次の2で明らかにするが)欠乏意識・課題意識をも状況認識をも共に歪曲し、極めて不健全な思考回路を形成する。

注:近代思想が言う所の主観・客観という概念は、内部意識と外部認識を未分化に混合させた概念であり(主観も外識を使うし、客観も内識を含む)、全く意味を成していない。

四方勢至

« 2013年2月 | トップページ | 2013年4月 »

ランキング

  • にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ お勧めサイトランキングへ
2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

カウンター

最近のトラックバック

無料ブログはココログ