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2013年2月

2013年2月27日 (水)

既成観念の全面否定は事実史観によって裏付けられる

>今大切なのは手近なイメージではなく、過去を踏まえた上で長期的にこの先どうすればよいかという方向性です。

今に生きる人たちが、現在の支配観念に毒され続けていることは、多くの方が指摘されている通りだと思います。

そして痛切に感じるのは、ほとんどの人が、人類のこれまでの歩みを通観した歴史観を持ちえていないという状況です。

たとえば、直近の100年を俯瞰してみても経済至上主義の伸張、私権社会の衰退、経済的破局の危機・・・と既成観念は常に塗り替えられ変化していることに気がつきます。

また、人類文明7000年を視野におけば、現在なお残存する近代思想はたかだか2~300年の流行のようなもので、それを剥ぎ取ったところに人間社会の根幹をなすものがあるかもしれない。と感じるのはきわめて自然であるように思います。

歴史(学)もまた、証拠と説明、知的に満足できる解釈、といった支配観念にとりこまれ細分化・専門化の道をたどってきた学問のひとつです。

人類社会の統合原理を歴史事実の中から見出し、人類にとって未解決の問題を解明する、という本来の役割をはたすための「事実史観」が求められる所以もここにあるのだと思います。

るいネット史論板の意味と重要性もこういうところにあったのだな、とあらためて思った次第です。

阿部和雄 

2013年2月25日 (月)

「全的否定」について

>今どき、体制側だって「変わらなきゃ」と叫ぶ世。それでも、続ける大多数の「変わらない」人たち。(18795

これは、18719にもあるように、何となく捨象・否定・変革期待しているだけでは、無意識の内に既に染脳された既成観念の支配を脱することができない、そうした状態ではないかと思います。

既成の構造認識や価値観念が既に力を失ってきていることは論を待たないと思いますが、「全的否定」について、いくつかの投稿を読むうち、あらためて気づかされたことは、

・体制側のいう「改革」は、それを言ったら受けるからというポーズにすぎないこと。経済問題ひとつとっても、景気回復か構造改革かなどといった議論に終始しているが、誰も本当のこと(既に全てが破綻しているという事実)を言わない。

・旧態依然とした運動の多くは、一部の事柄に熱中し、現代社会を問題視しているが、これもあるいは、否定をバネにして、自分は問題意識を持って活動しているのだという自己満足(自己保身やエゴ)に捕われている可能性が高いということ。

・大衆の「変革期待」も、かなりの部分は、既成観念に支配されているということ。悪いのは政治家・官僚・企業・マスメディア・・・(要するに自分達以外の何者か)と単純に批判するのは簡単だが、そうした社会への否定的なポーズと幻想観念は、常にセットになっており、これだけでは思考停止、現状維持と変わらない。
小泉フィーバーも、考えようによっては、思考停止の裏返しといえないか?(うわついた革命風潮?)

・このような「民主主義」や「市民」を創りだしたのは、自我と直結した近代思想に他ならないこと。

意外と単純な発想の転換かもしれません。

岩井裕介

2013年2月23日 (土)

現代人は不感症

>「答え」に飛び付くよりも前に、感応観念に磨きをかける、つまり潜在思念に耳を澄ます必要があるのですね。(18667
>本源充足の可能性が開かれたことによって、本能⇒共認の全ての感応回路=潜在思念は、代償物にすぎない感応観念を捨象して、充足基調の実践模索に収束してゆく。(18572

潜在思念に耳を澄ます」のと、「感応観念に磨きをかける」のは正反対の構造じゃないですか?感応観念に磨きをかけるっていうのが、私には、セックスのときの演技に磨きをかけるようなものに見える。

>雑念を追いやり、感覚を研ぎ澄ませば、周囲と響き合い和音を成す、深い音色(潜在思念)が聞こえてきます。その低音を大切にしながら、ふさわしいメロディー(「答え」を紡ぎ出す観念体系)を探したら良いのですね。(18667

「雑念を追いやり」こそが現実の課題なのに、そこは深く追求せず(触れず)、「感覚を研ぎ澄ませば…云々」という感応観念を唱えて、もし変われれば…っていう空想(バーチャル)に耽っていてもなんにも変わらない。
演技に磨きをかければかけるほど、不感症になってゆくんですよ~。

とりあえず「感じるふり」を止めないと。「ふり」じゃどうしようもないって、いいかげん気付かないと。頭でセックスしてると、ますます不感症になってゆくばかりだって自覚しなきゃ。

要するに、現実を見る=実践思考=支配観念の全否定っていうのは、倒錯観念では『全く(一切)通用しない』とはっきり意識(自覚)するということであって、それは状況判断でもあり、一種の構造認識なんだと思います。

西知子

2013年2月21日 (木)

もう一度はじめから

>現実の可能性を直観しているが故に特権知識階級への道を選ばず、現実を(否定も捨象もせず)直視し続けることができた者にしか、(既成観念の全的否定は)出来ないことである。 (18719 四方さん)

前からこの掲示板に何度か出ている「全的否定」ですが、私は具体的にそれはどうすればできるのか掴めないでいました。何をどうすれば否定になるのか分からなかったのです。

でも上の文を読んで、全的否定は「現実を直視しつづけることができ」れば可能な事なのだと気づけました。でもそれって、よく考えるまでも無く至極当然のことですよね。私たちは空想の世界に生きているわけではないから。

観念って、もともと現実からエッセンスを抽出して組み立てられた抽象的なものですから、いわば数学の定理みたいなものでしょうか。すでに証明された性質を定理(=観念)にしておいて、他の現実にも当てはめられるよう応用可能な形態にしておいた、というようなかんじでしょう。

でもいつの間にか、物事の最初に現実ではなくて観念がくるようになってしまった。公式ではこうなってるから、現実もこうなるはず、と。みんな観念に基づいて現実を考えようとする。もともと全く逆だったことなのに。

でも現実はどんどん流れて変わっていって、以前作られた観念は子どもの頃の服のように窮屈になったりほころびてきてしまったりしている。なのにみんな勿体無がってめんどくさがって、現実を古い観念に押し込めようとしている。だからおかしなところが出てくる。それが現在の状況でしょうね。

はじめに公式があったわけではない。あったのは、この世界と私たち、それらが一緒に生きているということだけ。

そしてまた、自分たちの現実に合った言葉(=観念)を見つけていけばいいだけのこと。

お百姓さん 

2013年2月19日 (火)

構造認識と潜在思念は必然的に一体となる

前夜の意識状況1.2を読んで、今まで旧観念に引きずられるのがいやで、観念を軽視し潜在思念側に極端に偏った考えをしていたが、実はそれは問題捨象であったということが解った。否定とは対象化して新たに構造化すること、捨象とは感覚的に受け入れたくないことをそれでいいと正当化することかと思った。

支配観念群は、私権にまつわる薄汚い現実を正当に見せるという、共通の価値から生み出されていると思う。ここから抜け出すには、支配観念群を作り出している価値を否定し、脱却した思考が必要になる。

そのためには、価値判断を排除した事実の構造的認識(これが真の科学的認識か?)が必要になるようにも思うが、一番根源的なところでは、無意識のうちにも何らかの価値判断がないと統合できないとも思う。統合とは価値に基づき要素を序列構造化することと考えているから。

それは、人間の本性からくるものだと思うが、はっきり言葉にならない。だから今現在、意識的に価値判断を排除するという思考は、人間の本性に反した頭の先っぽの支配観念から脱却するために必要なのだが、それは決して価値判断全般を停止してしまうのではないと思った。

だから、この思考をつづけていくと、支配観念から開放され発見される諸事実は、自ずと潜在思念が有する本源価値に基づき統合されていくのだと思った。価値判断なしの無色の観念ではなく、潜在的かつ本源的な価値の影響を受けた観念という意味で。

結局、観念による新しい構造認識と潜在思念の関係は、支配観念から自在になることで得られる諸事実を、潜在思念が有する本源価値をもとに統合していくという、一連の思考過程の問題のように思えた。

だから、支配観念さえ振り払えれば、諸事実が構造化され認識されていく方向性は、潜在思念が捉えた方向性と必然的に一致するように思った。

本田真吾

2013年2月17日 (日)

構造認識の現況3 既成観念の全的否定

5.’70年から始まった私権の衰弱によって、’90年頃からようやく人々の潜在思念が、否定や自我から離脱して、本源充足の可能性へと収束してゆく。

そこで、潜在思念が感じる可能性と、否定の裏返しにすぎない既成観念に対する不信をバネにして、既成観念(=自分の観念世界の全て)を全的に否定し、否定から実現へと思考ベクトルを明確に逆転できれば、思考は実現基盤を求めて必然的に潜在思念そのものを対象化=構造化して新しい『構造観念』を作り出すことが出来る。それは、真の探求者なら’70年からでも可能なことであった。
しかし、その様な知識人は殆どいない。なぜなら、既成観念の全的否定とは知識人にとって自殺行為に等しく、全ての既成観念を否定して大学に留まれる訳がないし、一般企業にさえ居るのは困難だろう。
それは、潜在思念実現回路が発達しており、現実の可能性を直観しているが故に特権知識階級への道を選ばず、現実を(否定も捨象もせず)直視し続けることができた者にしか、出来ないことである。

他方、普通の人々は全般的に観念を捨象して、潜在思念による充足可能性の実践模索に収束した。その結果、不全→課題も流産して、観念への期待圧力が極めて薄い状況が現出して終った。
しかし、不全(危機・閉塞)を完全に捨象し切ることは出来ず、もう一方では潜在思念の社会収束(つながり・やりがい志向や変革期待や社会探索・事実吸収)が強まってきている。
但し、自分で考えるのは無理で、もっぱら答えが与えられる事を求めている状況にある。

注:前者(探求者)と後者(普通の人)の違いは、既成観念を全的に明確に否定したか、全般的に何となく捨象したかの違いにすぎない。しかし、何となく捨象しているだけでは、無意識の内に既に染脳された既成観念に支配され続けることになる。従って、既成観念から脱却する為には、明確に否定し切ることが、決定的に重要になる。
 

四方勢至

2013年2月15日 (金)

諦感の形成と脱出の受け皿。

「変革可能性を感じる条件?」と、なぜ「社会問題について醒めているのか?」の解答は、かなり近いところにあるのではないかと思いました。

現代社会の問題現象を一体、私達は頭の中ではどう処理しているのか?
例えば環境破壊の問題に気がついたとしても、既存の思考パターンを使って考えて、でも解らない。
調べても、本当に問題なのか?もよくわからない。
そして「ひとりひとりが気をつけていくしかない!」というような、御定まりの言葉で落着してしまう事がとても多い。
この言葉はかなり共認されているので半分位は「それで良いんだ。」と思え、しかし半分はどこかへ流れていってしまう。そしてこの繰り返しが諦感を形成していまう。

古い思考パターンは、問題を受け止める事ができずに、結果として問題意識を流産させ続けているように見えます。

ここ(るいネット)は、諦感からの脱出を摸索している場と言っていいと思います。そんな場を形成するには既成の認識の全否定が必要で、全く新しい思考パターンを使って、問題のひとつひとつを「そういう事だったのか!」と解るまで解明する事を大切にすべきだと思います。たとえ、解けない問題を一旦棚上げしたとしても、決して古い思考パターンでお茶を濁してはてはならない。(プロでなければ誤魔化す必要もないですから)

古い観念からの脱却をもとめる人達なら、「問題に正面から取り組む(誤魔化さない)(お茶を濁さない)(諦めない)場」には大いに可能性を感じるのではないでしょうか?

田村正道

2013年2月13日 (水)

構造認識の現況2 特権知識階級の商売道具と化した「構造認識」

4.そして’70年、貧困の消滅によって否定派の「構造認識」も肯定派(自我派)の「構造認識」も共に生命力を断たれて終う。一言で云えば、考究する原動力となっていた否定意識や自我などの潜在思念が衰弱し、本当に追及したいことが無くなって終った(つまり、思考停止状態に陥った)のである。

にも拘らず、私権の衰弱によって社会的な身分序列の頂点に君臨することになった大学の体制化とそれによる肯定派の増大によって、徒らに対象の細分化が進行し、ますます基本構造の見直しが捨象されて、誤った「基本認識」を生き永らえさせる事になった。

しかし大衆的には、生命力を失った近代観念はあっけなく見捨てられ、’70年以降、思想に対する無関心が一気に蔓延してゆく。そして’90年、社会主義の破綻とバブルの崩壊によって、遂に誤ったor無力な「構造認識」に対する不信が顕在化し、拒絶視されるに至った。
今や、「構造認識」は統合階級(学者や官僚やマスコミ)の商売道具として残存しているに過ぎない。もちろん心ある大衆は、そんなモノを全く信じておらず、彼らの言説を耳目にする度に吐き気を催すほど、ほとほとウンザリしている。
これが、答えを出せない状況の実態である。

知識人が答えを出せない理由は、未だに否定or自我に基づいて思考しているが故に、既成の誤った「構造認識」や「価値観念」から脱却できないからである。
新しい『基本構造』は、否定意識や自我意識に(もちろん感応観念にも)囚われない新しい潜在思念によってのみ考究される。
それは、充足基調⇒本源収束、および社会不全⇒社会収束の潜在思念である。
 

四方勢至

2013年2月11日 (月)

思想の死とマスメディア

70年安保闘争を最後に、世の中から社会変革を目的とした運動が消滅した。そして思想はもはや輝きを失ったままである。思想も運動も再生する気配はない。それどころか、現代、何か物を考えれば宗教であるかのような異端視をされ、何か運動を考えれば危険な集団とレッテルを貼られる様相を呈するに至っている。

考えれば、この市場社会が環境破壊や精神破壊を進行させ、市場自身も崩壊寸前なのにである。閉塞感だけが蓄積され、危機感が上昇しているにも関わらず、どこからも新しい思想も運動も立ち上がってこない。奇妙な現象であると同時に、だからこそまっしぐらに破局へと進んでいるように思える状況である。

70年に至るまでその前衛は、新左翼も含めて党派という集団であった。大衆から半歩先にある前衛性とは、搾取された大衆が主体となる社会の実現を目的としていたのだろうし、それを望む大衆の支持が活力源であったのだろう。吉本隆明が「わが転向」のなかで、その動機を「今の苦しい労働者大衆の生活が少しでも良くなればいいな」と回想しているのもその意味で素直な思いである。

しかし、70年貧困の消滅は、大衆が市場社会の中に生存基盤を確保したことを意味する。そして、資本主義を批判する声は影をひそめてしまった。当時の資本主義批判もまた市場を前提にした思想でしかなかったのでは?という疑いが強く残る。これ以降、資本主義という言葉は自由主義と言い換えられようになる。資本主義というとき、そこには一定の社会構造論があった。しかし、自由主義とは単にスローガン=標語でしかない。そして、その「自由」という無内容で耳障りのいい標語を、誰も否定はしない。

生産という過程を除けば、大衆はすでに当初の目的を実現したとも言える。残念ながらそれは、労働の解放によってではなく、市場における消費者主権としてである。そして、それまでの社会に対して批判的だった知識人は、すべからく大学やマスメディアという共認支配の体制の中に納まってしまった。

もはや、彼らが自由主義や市場社会を否定することは決してない。彼らの意見は、それらを肯定した上での政治批判や企業批判に終始している。そこを切開しない限り、新しい可能性はないのにもかかわらずである。

マスメディアは、人々の共認内容を自由や個人(自分)という標語一色に塗りこめていくとともに、直接原因たる市場社会の構造から人々の目をそらしつづける。市場社会が生み出す危機感や閉塞感に対する何の答えにもなっていない言葉だけが、日々垂れ流されているのである。

マスメディアによる「いつでも充足」には、大衆の社会欠乏も反映されているだろうし、一定の共認充足も存在しよう。しかし、それはますます閉塞感を深めるだけの観念群に染め上げられていく過程そのものでもある。この循環から抜け出す道はあるのだろうか。

旧来の思想や運動には自前のメディアが存在した。インターネットは、新しい思想や運動の自前のメディアとなれるのであろうか。新しいメディアとして人々を引き付けることが可能なのだろうか。在野の人々による協働作業としての社会変革以外に、この閉塞状況を克服する道がないことだけは確かなのだが。

石野潤

2013年2月 9日 (土)

構造認識の現況1 否定意識や自我観念から脱却できない近代人=現代人

1.古代・中世の社会は、基本的に集団(統合)原理に基づく身分序列の社会である。従って、規範観念や価値観念で社会を捉えることが出来た。
しかし、市場社会は、集団を超えた交換(統合)原理に基づく社会であり、もはや感応観念で社会を捉えることが出来なくなった。(例えば、自由・平等・博愛etcの価値観念で社会を考究しても、ユートピアにしかならない。)
そこで、感応観念に対する不信or無効の潜在思念を下敷きにして、超越思考(客観主義)や事実追求(経験主義・実証主義)を重視する気運が強まり、感応観念から構造観念への移行が推進された。

2.しかし、彼らは貧困と抑圧の圧倒的な現実を前にして、強い否定意識⇒と潜在思念に近い感応観念(例えば、自由・平等・民主)を持って社会を「客観的に」対象化した「社会構造」を提示する事になる。当然、その構造認識は極めて一面的で、その上、人類社会の原基構造を成す原始人類⇒猿社会に関する基礎認識が極めて貧弱であり、とうてい社会を統合できる様な代物ではない。
他方、現実に自我と性の可能性が開かれたにも拘らず、(何らかの個人的欠陥→)非充足の故に深く自我と性に拘り、人間(意識)を「客観的に」対象化した自我派も、結局、自我と性を根幹とした偏った「意識構造」しか提示できない。
要するに、近代思想家たちは、夫々の否定意識や自我観念に囚われた、極めて一面的な「構造認識」しか生み出せなかった。つまり、社会や人間についての構造認識は、未だ入り口にも達しない、根本的な誤りを刻印されたものでしかなかったのである。

3.ところが、社会に対する否定意識や自我・性に対する拘泥は、この時代(とりわけ知識人)に共通する潜在思念である。従って、この偏った(誤った)「構造観念」が(主に知識人に)共認され、権威化されてゆく。更に、大学の権威主義が、それに拍車をかけてゆく。
しかし、否定や自我に囚われた潜在思念が(20世紀を通じて)基本的に変わらない限り、それらに基づいて作られた「構造認識」が基本的に変わらないのは、当然である。(その後、肯定派の「構造認識」が増えてゆくが、肯定意識に基づいている点でも、自我観念に基づいている点でも、偏った一面的な「構造認識」でしかないのは、同じである。)
 

四方勢至 

2013年2月 7日 (木)

構造認識はパラダイム転換を必要とする

構造認識を追求する原動力、あるいは構造認識が必要とされる動機は何なのでしょうか?精霊信仰と科学法則を手掛りに考えてみたいと思います。

木に登れないカタワのサルであった人類は、過酷な現実対象=自然を凝視し続け、万物の背後に精霊を見ました。同類を対象とする共認機能を自然に対して作動させ、自然を同類として共認を試みたわけです。ここで注目すべきは、「自然=過酷な外敵」から「自然=同類」というパラダイム転換が起こっていることです。

近代科学者が科学技術を進展させた背景は、市場拡大競争がもたらす生産性の上昇への期待圧力と戦争圧力でした。但し直接的には、中世の「自然は神や精霊が住まう聖なる所」というパラダイムから「自然は人間が加工しうる単なるモノである」というパラダイムへの転換が働いているようです。ニュートンやケプラーたちも「神は自然界を造ったがそこに神はいない。が、自然は神が造った美しい法則に従って動いているはずだ」という確信に基づいて探求を続けたそうです。

動機の違いはありますが、共通しているのは現実の必要性に迫られて、現実を観察し、その背後にある力=構造法則を発見するということです。但し、現実の必要性だけでは足りないようです。精霊信仰以前の人類も適応する必要性は存在していたし、近代科学登場以前の中世も豊かさ追求の必要性は存在していました。何らかのパラダイム転換の自覚化・顕在化が必要であることを上記の事例は暗示しています。

ということは、社会や人類についての構造認識も、何らかのパラダイム転換の自覚化・顕在化が必要であるということです。おそらくそれは、個人を原点において社会と対立する図式で捉えるパラダイムから、社会と集団と成員を調和的・統合的に捉えるパラダイムへの転換だと思います。このパラダイム転換の自覚化の実現基盤はどこにあるのか?それが次の課題になるのではないでしょうか?

冨田彰男

2013年2月 5日 (火)

枠の中での思考は、枠を越えない

>「パラダイム」という概念の提唱者T・クーン自身はその著書『科学革命の構造』で「あるパラダイムの中にいるとき、そのほかのパラダイムは想像することさえ難しい」と言っています。思考のフレーム、世界観そのものですから、その時代の人々はほぼ共有しているわけで、それゆえそう考えるのが当たり前なので、それ以外の考え方なんて想像すらできない。 無自覚に、思考に前提を置いてしまっているがゆえに、出される結論は通り一ぺんのものとなる。

蘆原さん

ここのところは、僕もそう思うのです。時に、言葉を発しられないあるいは、文章化できない状態になることがしばしば・・・
どこかで、思考のフィルターがそれに犯されている可能性があるという不安が先立ち・・・悪しき固定観念と言われるものに・・・

己の発している言葉や考えている思考は、今までの人間の創り上げてきたパラダイムの中で形成された価値観や言語や文法にそった形式での思考形態になっていて、それ以上の「何か?」を伝えたいが為の意識をその方法論でしか、相手に伝えられないもどかしさを感じることがあります。

吉国さんが言われている死生観の意識の変革も、もしかしたら、現在のパラダイムの中では、発想できないものなのかもしれない。捉え方を間違えれば、「死ぬことでみなのためになる」という発想は、既パラダイムの中では、あたかも戦時中の過去への回帰とも取られるかもしれないが、それは、まったく違う発想であることは、実現論上、今までの議論の上では、いうまでもない。

確かに1970年以降、大きく人の価値観が変遷しているのは、事実だと感じます。社会共認の中身も大きく変わってきているのを、実感としてとらえにくいのは、「そうかもしれないな」くらいの「それでもいろいろな考え方がある」という既パラダイムでの、事実がみえなくていい、あるいは見ようとしないことを良しとする価値観から発想そのものだと思います。

今までの言葉や思考を疑ってみることは、新パラダイムへの発想につながる重要ことだと思います。

近藤文人

2013年2月 3日 (日)

外部情報の再現と思考

>「手ニューロン」や「顔ニューロン」。いわゆる「おばあちゃん細胞」説、おばあちゃんをおばあちゃんと認識できるのは、そういう認識細胞があるからだという説ですね。残念ながら、現在ではこの説に対して疑問がもたれているようです。(17249斎藤さん)

「おばあちゃん細胞」とは、確かに考えにくいのですが、感覚器と神経細胞の集団との一対一対応は知覚系の基本構造ではないかと思います。

マウスのヒゲは機能的には感覚器で、その根元の神経繊維の集まりは延髄の三叉神経知覚核の神経細胞集団に連絡し、視床においても、大脳皮質においても同じような細胞集団を作る。そして、この細胞集団相互の位置関係は末梢のヒゲの位置関係と全く同じになっている。

これは、ヒゲの位置関係と同じ分布図が脳内に形成されていることを意味する。この一対一対応する細胞集団は生後に外部刺激によって形成されるので、これ以前にヒゲがなくなれば細胞集団は脳内に形成されない。形成後にヒゲがなくなれば、幻肢のような事例も生じよう。

外部情報を同じ構造で脳内に内部情報化すること、これが脳の発生理由を暗示しているように思える。外部刺激に対して行動パターンが決まっていれば反射である。外部刺激を脳内に再現する必要があるとすれば、これは他の内部情報との突合せの必要に他ならない。

生命維持の欠乏情報との突合せは本能との整合性を求めることであろうし、視覚その他の外部刺激との突合せは外部情報の総合性を求めることであろうし、記憶との突合せは判断(反応)の正当性を検証することかもしれない。

これを思考と呼ぶなら、脳の形成とは思考の必要から発生しているといっても差し支えない。蛇足ながら、近代科学の言う「客観性」とは、外部刺激を脳内に再現した部分だけを指しているかのように思える。本能との整合性を捨象し、要素還元的に分解し、価値判断を保留した姿を思考と呼んでいいものだろうか。

石野潤

2013年2月 1日 (金)

健康志向の本質

現代人は健康に大変関心を高めています。一生懸命に長生きをしようとしているのはなぜなのでしょうか?少し視点を変えて,とりあえずここでは,清水博氏と河合隼雄氏の対話を参考にして考えてみたいと思います。

私たちが外界というか,環境を見るときに,まず自己中心的な座標系で見ています。目に入ってくる,いろいろな情報も自分を原点にした情報です。そのような情報を統合して自分を取り巻く世界のマップを作っています。自己中心的な座標で見たいろいろな情報を統合し,客観化する必要があるわけです。それによって,その中に自分を位置付けることができます。マップを形成していく過程,すなわち世界というものが統合的に作られていくうちに,自己というものも捉えられていきます。たくさんの情報を関係付けて,世界を作ると同時に,自己を作っていく過程といったらよいでしょうか。したがって自己というものは世界の裏返しになるものであって,その人の世界観はその人の意識の状態を反映しています。

ところが自然科学は,最初に自己と世界を切り離し,切り離された情報というのは,自分の座標から見たものでもないし,それをいくら合わせて世界マップを作っても自己と世界の間は乖離しています。いま,自己と世界の関係の複雑性をもう一度取り込むことが求められています。また,人間は取り入れた情報を固形化してしまう傾向をもっています。一旦固形化すると,マップそのものが固形化してしまう。そうすれば,自分の中の規定不能性がなくなってくる。これを回避するには,複雑な外界から情報を取り入れて,固形化させないようにしていくしかありません。現代科学の行き詰まりもここに原因があるように思われます。

マップが固形化しているというのは,死んでいる状態と同じです。マップが死んだあとも肉体は長く生きられる。現代人が健康に一生懸命になるのは,そういうところから来ているのかもしれません。身体の健康を科学的に管理することが今すごく流行しているが,これは先ほどの裏返しの話のように思います。つまり,固形化したマップを柔軟化するのは大変な仕事だから,そちらのほうは不問にして,せめて科学的によりよく生きることを考えようとしているのではないないでしょうか。

身体はある程度対象化できるから,ある程度は科学的にコントロールできます。しかし,生命の複雑性は驚くほどの多様性を秘めています。したがって現状は身体的なコントロールも科学ではままならない状況であります。まして精神的な健康までを科学でコントロールすることは到底不可能なことでしょう。

仙元清嗣

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