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2013年1月

2013年1月30日 (水)

コンテクストという状況共認が一体感を生む

日本人は、観念ではなく実態の人とのつながりの中で共認充足をえることができるので、他者との関係や状況の共認が発達してます。それを補う観念として敬語なども発達したのではないかと思います。

これにより、少ない言葉で、相手との一体感が図れ、以心伝心などの日本文化の特徴が形成されたのではないかと考えています。ただし、この機能により充足度が高かった分、観念上の論理整合性の発達が遅れたのではないかと考えています。

これが、西洋人は日本人にくらべ論理的である、と言われる理由ではないかと考えています。しかし、ここで言われる西洋人の論理性については懐疑的です。その論理性が高かく、真っ当に世界を捉えていたとすれば、現在の西洋中心の文明がこのような行き詰まりを見ることはなかったでしょう。

なぜかというと、西洋人の論理能力という場合はテキスト(観念)を統合する能力をさしていると思います。これは人類にとってかけがえのない能力で、経験したことのない問題を解決するときなどの、確度の高い予測には不可欠でが、この能力が真っ当に機能するかどうかは、前提となる事象が正確に捉えられているかどうかにかかっています。

しかし、正確な対象把握はまず共認回路によって行なわれ、そのに観念上で対象化されるので、観念(テクスト)に極度に依存していると現実を捉えられません。たとえると、思い込みによる対象把握(倒錯観念)に陥りやすいということです。つまり、言葉以前のものを含む状況認識力が本来の論理性を規定すると考えています。

日本人はコンテクスト(状況共認)の依存度が高いので、あとはそれに続く観念上の論理性を高めることで、正確で現実を突破できる能力を身につける可能性が高いと考えています。しかし、論理性を求める前提として、状況共認といわれる潜在思念の共認が必要になることは、言うまでもありません。

本田真吾

2013年1月28日 (月)

「価値共認」と「事実共認」の問題

事実をめぐる議論は、科学哲学(あるいはパラダイム論)において(そして実現論を考える上でも)重要なテーマですね、近藤さん、三宅さん。特に実現論では、現在そして本源社会において、事実統合・事実認識こそが最大の認識方法であると述べていますから。

>「事実」と「価値判断」をどう結びつけて考えていけるか、といったあたりが注意点かな、などと感じています。<(15973、近藤さん)

事実と価値判断の関連問題を、全て個人の知覚や価値観に帰した事が多くの近代の(科学)哲学の陥った誤謬です。事実も価値判断も共認の産物(共認されなければないものと同じ)であるという視点が極めて重要です。またそう(共認)であるがゆえに、集団や社会パラダイムという視点を抜きにしてはこの問題は語れないと思います。

この科学論の会議室でも「事実」をめぐる議論は何回か行ってきました。もしまだ目を通していらっしゃらなければ最低以下のmsg番号だけでも読んでいただければと思います。重要な点は取り出しましたが、長くなりますので一部だけにしました。できれば全て目を通してください。

もちろん、「価値判断」「客観的事実」について、私は扱うテーマとして賛成ですが、それも踏まえて次の段階の議論をやりたいです。「事実共認と価値共認」に直結する「認識」とは、人類においてどのようになされるのか、どうあるべきか、という認識論を(とても難しいが)私は扱いたいのですが…。

2238「事実追及のスタンス」
>「これは定説である」とか、「これは事実である」と思わせぶりに言うだけで、定説の中身なり事実の中身を展開しようとしないケースがしばしば見受けられます。本来それが本当に事実なのかどうかは、説の中身の提示はもちろんのこと、その実験なり数値計算なりの仮定条件が正しいかどうかに関わってきます。<

2577「 科学と社会の複式構造」 
>専門家集団と社会共同体の複式構造は、強い相関を持ち一つのパラダイムへ収斂します。<

2278「専門家集団と事実」
>事実ですら、観察者の認識や考え方、さらにはそれに影響を与える背景としての社会的な思想によって左右される危険性があります。だから、徹底的に固定観念やイデオロギーを排除する必要があるのは言うまでもありません。<
>事実は専門家固有の理論(定説)によって作られる危険性すらあります。<
>万人が知っている限りの知識に照らし合わせて整合しているという総合的な論理整合性こそが、専門分化された科学の独り善がりの独走を制御するものであると考えられます。<

参考本として、「新しい科学論」(村上陽一郎:講談社)を紹介します。近藤さんが疑問の事実(価値判断を持ったセンスデータ)についての記述もあります。私はクーンよりも村上陽一郎の文章の方が分かりやすいし納得しやすいのですが、しかし村上も共認という軸上での捉え方は、まだ十分できていないと思います

吉国幹雄

2013年1月26日 (土)

「事実」と「価値判断」

「基礎事実の積上げから規範に至るには、なにが必要か?」という、漠然とした疑問に対し、まずは「ピンとくる」イメージを集めることから始めていくのが一つの方法かと思います。この点でいうと、仙元さんがご紹介くださった、

>中村氏の「価値観」も河合氏の「自分を入り込ませたリアリティー」いずれも言葉は違いますが共通するものを感じます。(15733)


という感覚は非常に共感できます。なかでも、「リアリティー」という単語にとても重要な引力を感じました。
また、

>ある事象を、観点を変えて見ることで、違った事象に見えることはよくあることです。固定的な枠組に捕らわれない観点で、基礎的な事実を捉える必要を感じます。(15319)

という点につきましても、「そもそもそのような柔軟な事実の捉え方が、何故必要とされるのか?」という考え方をすると、結局「リアリティー」という点に収斂していくのではないか、と感じています。ただ、現在「リアリティー」といっている感覚の中身については曖昧なままです。感覚的には、「我々が生きていくことに如何に寄与するか?」といった価値判断基準を持ち出してくるべきなのかな、などと感じています。

ところで、今日この「るいネット」で紹介されている「厳選○サイト」のなかで、大変面白いサイトを見つけました。「生命を考える」というサイトなのですが、その中の一節で、次のようなものがありました。

 科学的認識は価値判断を大きく左右する。
 科学的認識に真実性が求められる基本的理由の一つがここにあるし、
 科学の社会的価値の一つもここにある。

「基礎事実」とは、いわば価値判断を除いた、漂白された事実そのものであるし、一方で「規範」とは、価値判断基準そのものであるように思います。人間が生きていくためには、どうしたって価値判断を行っていく必要があるのに、科学が提供する「客観的事実」だけでは、それは得られない。ところが、「事実」は「価値判断」を大きく左右する。
「事実」と「価値判断」をどう結びつけて考えていけるか、といったあたりが注意点かな、などと感じています。

もし機会がありましたら、「生命を考える」を是非ご覧になってみてください。

三宅秀和

2013年1月24日 (木)

相対主義的科学観

「相対主義的科学観」が再び話題となっていますが、問題なのは「事実についての主張が正しいか誤っているかは、個人や社会集団や文化的文脈などに依存して決まる。」というタイプの認識的相対主義ではないでしょうか。

私は、「認識的相対主義」において「社会集団に依存して決まる。」という部分は、万人の関係の中に委ねる方向に通じるものを感じており、簡単に否定できないと思ってます。
しかし、現実は一部の学者や科学者集団の認識に依存しているのが実状であり、その立場の違いによって多くの真理が存在するという方針を取っている点など個人主義や専門を武器にしたドグマ性に通じるところもあり問題はたくさんあると思ってます。

さらに驚いたことに、この思想は我が国において

>…自然の事物・現象の性質や規則性、真理などの特性に対する考え方の転換である。自然の特性は、人間と無関係に自然の中に存在するのではなく、人間がそれを見通しとして発想し、観察、実験などにより検討し承認したものである。つまり、自然の特性は人間の創造の産物であるという考え方である。(文部省「小学校学習指導要領解説:理科編」)<

という「形成主義教育」まで発展しているようです。

このような相対主義は、誰にとっても同じものである唯一の真理(客観的で絶対的で可知的な唯一の真理)の追及を放棄するものではないでしょうか。

高田敦

2013年1月22日 (火)

性充足は何処へ行った?

昨年初め放送された、NHKのETV 2000 揺れる男と女( NHK「性についての実態調査(1999年末実施)」より)という番組、ご覧になった方もいらっしゃると思いますが、その中で、「自分にとってのセックスの意味」という項目で、男女の性意識の違いを示していました。

           男性%  女性%  
愛情表現       78    70
ふれあい       45    48
やすらぎ       25    18
子供を作るための行為 35    35
快楽         44    14
ストレス解消     18     7
義務          4    14
征服欲を満たすもの   5    0.9
不快・苦痛      0.4    4
           (複数回答)

この数値を、ああそうかと見過ごしてしまえば何ということもないのですが、待てよ、と思うと、色々なことが見えてきます。
その中で前提条件の提示での問題点を取り上げてみます。
アンケートを行う場合、設問・回答項目自体に適切な概念の設定がなされている必要があります。そうでないと、設問・回答項目の内容によっては、アンケートの結果を誘導してしまう危険性があるのです。

この例でみると、性行為の目的には、最も基本的で重要な概念であるはずの<充足>という項目がないことが分かります。この項目がないということは、性行為には既に<充足>という現象、概念がなくなってしまっているのかという問題に行き当たります。この項目を設定すると、<快楽>という項目の選択を躊躇し、<愛情>を選んだ女性の数字が大きく変動するはずです。また、<やすらぎ>という項目は<充足>が果たされた結果として発生するもの、即ち、<充足>の内項目であること、<ふれあい>などというあいまいな表現も<充足>に集約できることが分かります。

この調査は、初の科学的大規模調査と銘打っているのですが、企画・制作者自身に、セックスとは何かというはっきりした概念がないこと、科学的大規模調査といえば、誰でも簡単に受け入れてしまうという危険性をはらんでいることを示唆しています。スタート時点で、すでに科学的姿勢を失っているというしかありません。

ここで言いたいことは、現在の性行為、そこには、充足の概念も現象も存在しないという事実に注目しなければならないということです。
性的トラブルの目に見えない原因には、性的快感の不足、欠如による<性充足>の欠如があると考えられます。性行為における<充足>の欠如が、多くの性問題の根底に潜んでいることを意識すると、これまで見えなかったことが、色々見えてくるはずです。何故、<性充足>が欠如してしまったか、それを考えることが、今必要なのではないかと思いす。

(この番組に対する質問書をNHKあて提出しましたが、当然回答はありません。質問書の内容は、ホームページ<Sexual Sensate Design>に掲出してあります。)

高樋昇

2013年1月20日 (日)

相対主義、還元主義に陥らないために

蘆原さん、脳の中の幽霊シリーズは、大変面白かったですね。

その後、『心』と『知覚』、『事実』と『理論』の相互関係への展開も良く分かりました。

科学的認識には、『事実と見るもの』と『それを事実と仮定して構築される理論』とがセットになっていて、決して純粋客観認識がないと。そして、この『事実』と『理論』のセットは、複数存在し得る。或いは、歴史的経緯として、専門科学者集団の共通認識(パラダイム)によって、制約されるという見方があるということですね。

課題はこうなりますね。「事実ではないか」と指向する、事実に向けて探索する『集団』側の『心』が衰弱すれば、認識(科学)は堕落する一方であると。現時点では、まさに、専門家集団の『心』が衰弱していると。

『心』の話題が出ていますので、厳選○サイトにあります『クオリア・マニュフェスト』の茂木健一郎さんから、引用をさせて頂きます。

このサイトは、神経細胞ニューロン発火をあくまで基盤にしながらも、象徴的認識(認識の統合=心)が成立することを、『クオリア』(質感)という中心概念でもって把握しようとしています。お勧めです。

氏の著書『脳とクオリア』(なぜ脳に心が生まれるか)の第二章で以下の指摘があります。

「マッハの原理=ある物体の質量は、その物体のまわりのすべての物体との関係で決まる。他に何もない空間の中では、ある物体の質量には何の意味もない。」(マッハは理論物理学者)

「認識におけるマッハの原理=認識において、ニューロンの発火が果たす役割は、そのニューロンと同じ瞬間に発火している他のすべてのニューロンとの関係によって、またそれによってのみ決定される。」

この視点は、生物・生命は、全ての遺伝子・蛋白質を含む全ての細胞質との相互関係の中で生きているという視点にも通じています。

ですから、探索する『心』が活力を生み出す方向は、科学という課題を、『科学者集団』に委ねるのではなく、万人の関係の中に委ねる方向でしかないようですね。

村田貞雄

2013年1月18日 (金)

「眼は、それが探し求めているもの以外は見ることができない。」

『脳のなかの幽霊』に触発され、今、実現論参考文献にも紹介してある『近代科学を超えて』村上陽一郎著を読み直しているところです。


その第一章の最後に、次の言葉が出てきます。

犯罪者の科学捜査法を教えるフランスの学校の教室には、次のような言葉が貼ってある。

>「眼は、それが探し求めているもの以外は見ることができない。
   探し求めているものは、もともと心の中にあったものでしかない」
    (『近代科学を超えて』村上陽一郎著P32より抜粋)


意味深な言葉だと思います。

科学論の視点に立ち返ってみると、「事実」は純粋客観的なものではあり得ず、何を「事実」とするのか、何を「根拠」として認めるのか、というところに、人間である限りいくばくかの恣意性(社会的思想背景、先入観・偏見・思い込みなど)が混入することから逃れることはできないということですね(これは、これまでも繰り返し当会議室で議論されてきた論点で、そういう限界性を包摂し超えるためのある種の解答も提示されていますが…)。

村上氏はこう書いています。

>科学理論が、「事実」と照合されなければならないことは、改めて認めるまでもない。けれども、もしその「事実」の方が、照合されるべき理論に、少なくとも一部依拠しているのであるとすれば、われわれは、「事実」を科学理論の真偽を定める判断基準として採用することには、ある留保条件を必要とするであろう。さもなければ、自分で自分を評価するという一種のインチキを認めなければならなくなる。(『近代科学を超えて』村上陽一郎著P31より抜粋)

このあたりは、先日のmt-DNAの件を調べている際にも、つくづく思ったことです。権威ある学者の一見「客観的」「科学的」な言説でも、気をつけて見ないといけないとあらためて感じました。

蘆原健吾

2013年1月16日 (水)

運動信仰を捨てて、共認革命を

にも拘らず、社会に関心を持つ人の多くが、未だに社会変革と云えば身体を張って行動することだという行動信仰(古いパラダイム)に囚われ続けている。しかし、(云うまでもないことだが)社会を変える為に必要なのは人々の意識を変えてゆくことであり、従って旧思想に代る新理論を構築することが何よりも急がれるのであって、旧思想に依拠したままチンケな運動をいくら続けても社会は全く変わらない。
とりわけ心すべきは、今も何らかの社会活動をしている人々である。彼らの多くは、自分たちの行動が社会の役に立っていると信じている。だが、旧思想に依拠した体制の補完運動は、いつまでも体制を維持させ、社会をますます閉塞させているだけなのである。むしろ、社会変革の志を抱く貴重な人材をことごとく体制補完運動に収束させ、一切の変革の芽を摘み取ってゆく既成運動こそ、社会変革の最大のガンになっていると云うべきだろう。

疾うに武力支配の時代は去り、今や(貧困の消滅によって)私権そのものが衰弱してゆく時代である。そこでは、武力でも資本力でもなく、文字通り人々の共認力が全てである。従って、人々の意識を変えることさえ出来れば、社会は変わる。逆に、旧思想(恋愛・自由・個人・人権という支配観念)に支配された人々の意識が変わらない限り、社会は(基本的には)変わらない。人々の意識を支配観念から解放する共認革命だけが、閉塞状態に陥ったこの社会を根本から変えてゆける。今、必要なのは共認革命である。

岡田淳三郎

2013年1月14日 (月)

錯誤の根は、古い武力闘争のパラダイムにある

この私権社会(→その延長の市場社会)は、そもそも掠奪闘争⇒武力支配によって形成された。従って、私権時代の革命=体制転換は、常に武力闘争を必要としてきた。実際、私権時代(とりわけ古代・中世・近世)において、体制転換=革命の歴史は武力闘争=戦争の歴史であり、武力に拠らない革命など存在しない。(注:武力は体制転換の必要条件であって、充分条件ではない。従って、単に王朝or政権の交代に過ぎない「革命」が、歴史には無数に刻まれている。)

それは、近代においても同じである。その後進性=非近代性ゆえに近代思想に立脚し切れず、相対弱者であるという厳しい所与の状況から武力革命の路線をとるしかなかった諸国においてのみ、革命は(その善悪はともかくとして)実現された。しかし、先進国=近代国家で武力革命が実現した国は、どこにも無い。

ところで、戦争であれ革命であれ、武力闘争とは文字通り命をかけた闘いであり、窮極の実践活動であるとも云える。その残影か、社会運動と云えば示威行動(デモや集会)というイメージが残されているが、それなどはもともとの武力闘争における行軍や行進を真似たものであろう。とにもかくにも世間の目を引く為には、「決起」するしかなかった時代のスタイルである。

しかし、逸早く市場拡大の道を歩み、国富(国力)を市場拡大に依存するに至った先進国では、既に戦前(前世紀初頭)の段階で、戦争であれ革命であれ、弱者側(独・日や労働者・農民)の武力闘争による勝利の可能性は、とっくに無くなっていた。それは、武力によって統合された武力社会から、人々の共認によって統合される共認社会に既に移行していたからであり、かつその最強の課題共認が豊かさ追求=市場拡大だったからである。
そして’70年、貧困の消滅をもって、先進国の社会運動は終焉した。

岡田淳三郎

2013年1月12日 (土)

社会運動団体の可能性

>云うまでもなく環境破壊・肉体破壊の原因は、市場拡大にある。にも拘らず、市場拡大を推進してきた旧思想に代る新理論を構築できず、当の旧思想に依拠したままなので市場の補完運動に堕し(それではごく一部の人しか参加しないので)、環境運動のNW化さえ出来ないでいる。

なるほど、そういうことだったのですね。

そうは言っても、「社会問題意識の高い人々」の中には、近代資本主義社会からの「パラダイム・シフト」を謳っている人は多いと思います。

だから、近現代文明の本質的な諸限界を乗り越えようと、ポストモダニズムのような考え方も出てきて、あれほどもてはやされたのではないでしょうか。

でも、やっぱり駄目だったのは旧思想から根本的なところで変換できていなかった。

現在の社会派の活動が、「旧思想に依拠したままの運動」となっているのは確かですが、同時に、新しく変わる(パラダイム変換ができるための)思想をずっと求め続けているのではないでしょうか。

だから、新しく可能性のある思想(『実現論』のように、根本的に違うもの)が現れれば、すぐにそれに収束してゆくことが出来ると思います。ですから、「今や夫々に体制の部分部分の穴埋め補修の役割を担うことによってかろうじて存続しているだけ」とは言っても、大きな運動に盛り上がってゆく可能性の近くにいるように思うのです。

田中道世

2013年1月10日 (木)

チンケな運動(要求運動の終焉)

社会的な問題意識の高い人々の中には、環境その他のサークルで活動している人も多い。しかし、どのサークルも参加者は少なく、ネットワーク化も進んでいない。従って、それらの活動が大きな運動に盛り上がってゆく感じがしない。何より、それらの活動の集積が社会を変えていくとは思えない。だから、普通の人は参加する気になれない。

この悪循環の根は、古い運動(論)のパラダイムにある。
´70年、貧困が消滅した途端に、思想は輝きを失い、無思想・無関心が蔓延していった。思想の終焉である。そして、思想の終焉と共に、運動は閉塞していった(ex.´70年以降の社・共の凋落は、誰の目にも明らか)。
その原因が、豊かさ追求(貧困からの脱出)と、それを正当化した近代思想(自由・個人・人権)と、それに導かれた要求運動というパラダイム全体の終焉であることは明らかである。ところが、今なお多くの運動が、とっくに輝きを失った近代思想に依拠し続けている。それでは、誰も(ごく一部の人しか)「運動」に参加してこないのも当然だろう。

もともとこの社会(市場社会)は、近代思想(恋愛・自由・個人・人権etc)に導かれて成長してきた。その同じ思想に立脚して、体制を転換させることなど出来る訳がない。にも拘らず、(新しい思想を構築しようとはしないで)「運動」を存続させようとすれば、身近で具体的な運動目標を結集軸にするしかなく、(もともとが体制と同じ思想に立脚しているので)身近な運動目標に埋没すればするほど体制に絡め取られて、体制の補完物になってゆく。

つまり、各運動団体は、今や夫々に体制の部分部分の穴埋め補修の役割を担うことによってかろうじて存続しているだけなので、自分たちの運動を統合するネットワークさえ形成できないのである。これでは、全国民的な運動NWに発展してゆける訳がない。
注:この点は、新しい運動である筈の、環境運動も同じである。
云うまでもなく環境破壊・肉体破壊の原因は、市場拡大にある。にも拘らず、市場拡大を推進してきた旧思想に代る新理論を構築できず、当の旧思想に依拠したままなので市場の補完運動に堕し(それではごく一部の人しか参加しないので)、環境運動のNW化さえ出来ないでいる。

岡田淳三郎

2013年1月 8日 (火)

学説・定説=仮説

三内丸山遺跡の調査によって、それまでの縄文観は一変したわけですが、さらに刻々と情報が追加され、学説は塗り替えられつつあります。この状況について佐藤洋一郎氏がいいことを言っています。

「定説というのは10年もてばいいのだ。逆に言えば10年以上もつ定説というのは周りの研究者の努力が足りないからだ。常に定説は覆されて、仮説が提唱されて、それを検証する。検証されれば定説になる。絶対的真理などない。その繰り返し。それを金字塔のように提示してしまうところに問題がある。」

第一人者でありながら、物証をみとめず自説にこだわり続け、最後にはだれからも相手にされなくなった例もあるようで、これなどまさに自尊心、名誉などに執着して対象性を見失った、悪しき「プロ」の姿でしょう。

一冊縄文関係の本を読んだだけで、学者の言っていることだからと、つい鵜呑みにしてしまいがちな私としても、もっと柔軟な姿勢で臨まなければ、と再反省させられました。

三ヶ本万州夫

2013年1月 5日 (土)

現実を対象化する思考=事実認識

☆しかし、社会を統合する為には、統合観念が不可欠である。それは、誰もが認める事のできる事実認識の体系でなければならない。とりわけ歴史認識(人類と社会の原基構造の解明)と脱出方向の提示が最も重要な思考課題となる。
●現実を対象化する思考は、倒錯観念とは別に、脈々と続いてきた。近代科学もその一つで、そこでは使われる概念自体が、外界を対象としているので(内面を対象化しただけの)倒錯観念とは異なっている。
しかし、自然科学さえ、倒錯観念の支配から完全には脱却できず(exデカルトの「方法序説」)、未分明な根本ドグマに基づいて命題や定理が作られ、現実そのものからかけ離れた条件下での実験が行われてきた。従って、科学法則の多くは、現実そのものを対象化した事実認識とは(厳密には)云えない。
●まして、社会「科学」に至っては、(観察や統計という自然科学の手法を真似ただけで)本質は欺瞞観念そのものである。

☆従って、今求められているのは、支配観念から脱却して現実を対象化する、健全な思考回路を取り戻すことである。
●一方では、私権追求から脱却した本源回路発の潜在思念と状況認識によって、可能性収束=行動すること。=非観念過程。
●他方では、支配観念から脱却した本源回路発の潜在思念と事実追求によって、人類の原基構造を解明すること。=統合理論。

岡田淳三郎 

2013年1月 3日 (木)

私権時代の歪んだ思考(主張・説得・議論)

●まず、対象化すべき=追求すべき現実世界は、私権(闘争と身分)社会であり、私権の追求が現実の唯一の追求課題となる。

●他方で、失われた本源充足を頭の中だけで取り戻し代償充足を得る為に、頭の中の本源価値を対象化した倒錯観念が作られ、人々は倒錯観念に強く収束すると共に、その倒錯観念がどんどん精練され、観念回路を覆い尽くしてゆく。
私権追求に収束した現実の存在と、頭の中の倒錯観念に収束した非現実の意識とは、完全に分裂し断絶している。にも拘らず、倒錯観念で覆い尽くされた意識は、自分は(観念信仰の下に)統合されていると言い張る。しかし、しょせん倒錯観念は、失われた本源価値の代償充足でしかなく、その虚しさは消し様もないし、その現実との断絶は隠し様もない。

●ところが、この倒錯観念が人々を強く収束させた支配観念となった以上、現実の私権闘争や身分確保の為には、この倒錯観念を巧みに操って己の私益を正当化した方が有利である(私権時代初期の神権政治が、既にそれを象徴している)。かくして、主張や説得や議論が(統合階級を中心に)不可欠になる。
●つまり、私権闘争と倒錯観念が、現実や行動を捨象した観念思考を生み、更に主張や説得や議論を作り出したのである。
●近代が、私権闘争をより自由に解放した時代であり、従ってますます観念思考や自己主張や議論をはびこらせていった時代であったことは、云うまでもない。(但し、本源価値に立脚していた倒錯観念は、自我性闘争に立脚した欺瞞観念に換骨奪胎されて終う。)
私権時代(特に近代)の主張や議論とは、欺瞞共認を形成する(事によって私権闘争で優位に立つ)為の様式にすぎない!

●そして’70年、貧困が消滅して私権が衰弱し始めるや否や、欺瞞観念(恋愛、自由、個人、民主)は一気に輝きを失い、私権の衰弱が誰の目にも明らかになった’90年以降、もはや「一流」作家の言葉さえ、虚しいだけである。ましてや、会議室での素人の(観念思考の産物たる)言葉など、見向きもされないのは当然である。
注:自我闘争で優位に立つ為⇒欺瞞共認を形成する為の自由な議論の象徴(行き着いた必然)が、2ちゃんねるである。

岡田淳三郎

2013年1月 1日 (火)

要素還元的科学信仰からの脱却 2・・「科学と医学」

ここで、近代医学側の攻撃要旨をまとめてみると、根拠に基づく医療(Evidence-Based Medicine;EBM)以外はえせ医療であり、ホメオパシー医学は治癒のメカニズムが解らないのでえせ医学である。また、その行為の結果治癒してるかどうかすら疑わしい、というところでしょう。日本でも丸山ワクチンが医師会の手によって同様の攻撃を受けました。癌にかかった身内に何とか投与したいと思うと、治験薬であるため、きわめて複雑なルートでしか入手できない状況にあるのとおなじです。

その中でも、特に攻撃の的になっているのは、化学的濃度計算によると、希釈倍数がアボガドロ数を超え水溶液中に1分子も薬物が入っていない場合がある点です。近代医学の主張の濃度問題は、近代科学で解明された範囲において正しく、高校生の化学の知識で理解できます。要素還元的な手法で発見できる限界でしょう。しかし、自然ましてや生命はそのような認識で理解できる部分をはるかに越えており、根拠を科学的といったとたんに現在の要素還元的手法で解っている範囲に限定されます。現に最近の研究で『水の記憶』というものがあり、従来の知識は解明しきれない現実効果をもっているということも注目されています。

問題は、その対象への認識レベルの自覚があまりに低いということでしょう。自然や生命は人間の認識をはるかに超えており、そのほんの一部が解明されているだけであると言う認識に立てば、ホメオパシー医学のたくさんの治癒例(事実)から未だ解明されていない全体性を読みとることは可能です。そして、その可能性のみに注目し、未だ解明されていない全体性を読みとることも可能になってくるでしょう。このような認識法に至ることが困難なのは、近代科学だけの問題ではなく、現代人に共通の弱点だと思います。超越性を失った観念思考と言う意味で。

『本源の科学』とは、事実をもとに、その可能性のみに注目し、未だ解明されていない全体性を読みとる認識方法による科学なのかもしれません。

本田真吾

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