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2012年12月

2012年12月30日 (日)

要素還元的科学信仰からの脱却 1・・「科学と医学」

近代科学や近代医学が専門化集団の自己完結世界の中でゆがめられてしまっている点の問題を共有できて嬉しいです。

>医学的あるいは科学的根拠が大事。根拠のないことはすべてえせ、嘘偽り。
「いまのところは根拠はないけれど、患者の治癒例がある」という「グレーゾーン」の事例はたくさんあると思うのですが、医師はそれに「手を貸」してはいけないらしい。4977

>科学的とは人間に対しての要素主義的な立場から機械論的なアプローチをとること…。体全体を考えるというと、近代医学に対しての漢方医学。これは、有機的な身体全体を総合的に考慮していく、ということですが、 4970

という点についてもう少し深めてみたいと思います。先に投稿したホメオパシー医学は全体性の医学であり、それに対応するのがアロパシー医学(近代科学を母体にした要素還元的な近代医学)と呼ばれています。この二つの医学の対比から全体的認識法と要素還元的認識法の違いと可能性について考察したいと思います。もし、2つの医療についての詳細が知りたければ『人はなぜ治るのか』.アンドルーワイル著.日本教分社.を参照してください。

ホメオパシー医学とアロパシー医学は、治癒率ではかなり好成績を上げている前者を、科学的根拠が不十分であるため正当な医学とは認めないと後者が否定するという構図で対立しています。とはいっても、ヤミ医療とまで烙印を押されている訳ではなく支持者(治癒した患者)はたくさんいます。

ホメオパシー医学の特徴は過去の治癒統計を重視する(事実を重視する)ことにあると思います。具体的方法としては、ある病状にたいして何々病としてカテゴリー分けを行い、その病種に対して共通の薬を処方するという近代医学の方法とは異なり、症状を何時間もかけて徹底的にヒヤリングし(生活パターンや嗜好まで近代医学の感覚では、およそ病状と関係ないようなものまで)、健康な人が服用するとまったく同じ症状が出る薬物(毒物)を過去統計から抽出します。

そしてそれを、極端に希釈して服用させます。近代医学でいう病種が異なっても同じ薬になることがあるわけで病種という概念は重要視していません。その結果、患者は一時的に病状悪化しますが、希釈された薬物に対して刺激された自然治癒力はもとの症状そのものも取り去り、近代医学のように体内に高濃度の薬物を充満させることなく治癒していくのです。

この療法は、生命原理を良く捉えた優れた医療だと思います。しかしながら、どういうメカニズムで治るかということに関しては『自然治癒力』を刺激して、それを活性化させるという手法であるため、その根拠を問うことが生命機構そのものを問うことになり、現在の科学認識では手におえない状況にあります。

本田真吾

2012年12月28日 (金)

不完全な適応態

変化に対して「不完全さ」ということについて、

>この限定されたものでしかない科学で自然を理解できるという思い上がり、またそれを全面的に良いものとして受け入れてきたことが、現在の環境問題などが、科学では思いもよらない現象として現れているのではないかと思います。

対象を「不変」のものとしてとらえるというのは、「固定」的な原理を発掘するということになるでしょうか。「「固定」的な原理を追求するという傾向は、近代の自然科学にとどまらず、社会科学においても言えるのではないかと思います。かの、マルクスさえ「生産力」が各時代を貫通する固定的原理であるとしましたが、この歴史観は、歴史的事実とは大きくかけ離れてしまうことになります。少なくとも、現代社会の抱える問題に何の解答も可能性も導きだせません。

また、生きとし生けるものは、全て外部世界に対する適応態として存在しています。生物は本能をはじめの無数の要素で構成されていますが、それらのすべては、外部世界に適応しようとして統合されています。しかし同時に、外部世界の変化に対して、常に「不完全さ」を孕んでいます。

生物は「不完全」であるがゆえに、その時々の可能性に収束するのだと言えるのではないでしょうか。そして、新たな可能性へ収束し、新たな可能性を実現することによって進化してゆく、歴史を積み重ねてゆくのだと思われます。そして、人類はその先端機能たる観念にその可能性をゆだねているのだと思われます。

近代科学もまた、その時代の人々が収束した可能性であり、科学技術が実現した生産力の向上が更なる可能性収束を促したのであろうと思われます。問題は、現在の深刻な環境破壊や肉体破壊を前にして、近代科学の認識の「不完全」さや「誤り」をいかに乗り越えていくのかにあるのではないでしょうか。

現在は、不完全ゆえに収束すべき可能性の中身とは何かが、因果関係の完全さ以上に、求められている時代なのかもしれません。

石野潤

2012年12月26日 (水)

不安発の古代宗教と感謝・同化の精霊信仰

「存在不安」は、私権時代の全ての宗教・全ての局面に存在すると私は考えています。キリスト教においても、仏教においても、人々が求めるのは「救済」です。神の御座に祈るのは、魂の救済であり心の安楽であるのは洋の東西を問わず変わりません。これこそ、私権社会の宗教が「存在不安」を抱えている証ではないでしょうか。

その背景にあるのは、自我を基盤に宿した私権社会故の 過剰競争・自我摩擦・搾取等の不条理からの逃避、そして「死」への恐怖と言えるのではないでしょうか。

対照的に、 ケチュア等、ネイティブ・カルチャーに見られる、精霊信仰の発展した「純粋形態としての宗教」において捧げられる祈りは「感謝」と「同一化」です。 いくつか、彼らの言葉を紹介します。

われわれにとって、宗教とは生活様式であり、知であり、理解力である。 自然の力と共に生き、自然と調和して神聖な互恵の関係を結ぶことである。 われわれインディアンは自然の力のすべてを神として崇める。自然の力を恐れているからではない。自然の力を超自然的な存在として見ているからでもない。われわれが自然の力の法則の正しさをよく知り、よく理解してきたからである。われわれは自然の力、その法則に敬意を払い、自然の力がわれわれの生活に恩恵を与えてくれることを深く認識している。 (北米 ケチュア族)

我々の言葉で、「生きる」ことは「呼吸」と同じです。宇宙の全ては呼吸しています。ですから、命を授かった時点から地球のサイクルに入り、宇宙の全てと呼吸を共有しているのです。生命を授かったことに責任を持ち、自らを啓蒙しながら自分の道を歩まねばなりません。それこそが地球を通過している本来の意味なのです。私たちの伝説の中では、命が絶たれたあと、我々は宇宙全体の命を支えている全宇宙的なパワーの一部となるのです。 一個の生が個人的体験を超えて、全宇宙的に広がっていくのです。それは一つの「希望」です。「死」に恐れを感じる必要はないのです。

人間は鳥のように静かに飛び去っていくことができる。地球を通りすぎるだけなのに、なにか記念碑を残してゆくような人は、 それだけ自分に自信がないのです。

なにかを成すために人間は存在していると西欧の人は考えるが、なにも成さないためにいてもいいじゃないか。 人間は宇宙の一部であり、その宇宙そのものが素晴らしい記念碑であり、創造物なのですから。 (以上、南米 クレナック族)

朝起きたら、太陽の光と、おまえの命と、おまえの力とに、感謝することだ。 どうして感謝するのか、その理由がわからないとしたら、それは、おまえ自身の中に、罪がとぐろを巻いている証拠だ。 (北米 ジョーニー族)

このような、彼らの言葉の中に、「存在不安」の影は微塵も感じられません。自らと、全ては同一であることを知り、そこに存在することに、ただただ感謝を捧げるのみ。

現世からの救済を願う、存在不安を抱えた私権社会宗教(キリスト教等)と、万物と同化し、その存在に感謝を捧げるネイティブ・カルチャーの精霊信仰では 雲泥の差があります。 我々は、彼らから多くのことを学ばなければならないと感じます。

西谷文宏

2012年12月24日 (月)

キリスト教洗脳にスコラ学が果たした役割

>キリスト教とギリシャ哲学が融合することで、初めて支配するものとして自然を扱えるようになり、その動機付けをキリスト教がおこなったとも言えるかも知れません。

この部分、概ね同様の考えを持っています。

ギリシャ哲学(アリストテレスが集大成したと概ね言える)のキリスト教への統合に貢献したのは、トマス・アクイナス(1225-74)と言われています。

彼は、神による被造物である「自然」の研究を奨励し、「被造物たる自然の認識を通じて人間も創造者の意識に至る。そうした自然の秩序を認識できる“理性”を人間は神から与えられている」という立場をとりました。この考え方により、アリストテレス自然学をキリスト教思想の中に調和的に融合したわけです(こうしてスコラ学が生まれた)。

私から見ると、こじつけ以外の何者でもないのですが、とにかく、神の創造した世界を「信仰」ではなく「理性」で明らかにしていくということの正統性を認めたことが、次の時代の科学革命(ニュートン、コペルニクス、ガリレイなど)につながる流れを生んだわけです(詳しくは4208をご参照下さい)。


実は、キリスト教がアリストテレスの自然観を取り入れていった背景には、もう一つの理由があったようです。

当時、キリスト教の布教は壁にぶつかっていました。ヨーロッパ世界はまだまだ土着の民族の共同体が残存しており、キリスト教は完全には浸透していませんでした。

スコラ学は、キリスト教の布教=土着信仰の排除に格好の口実を提供したのです。つまり「理性」を重視することにより、キリスト教にとって非合理的なもの(土着の呪術や慣習など)を異端視し弾圧・排除するための論理的基盤を提供したわけです。キリスト教から見た“邪教”を一掃するため根拠としての「理性」重視です。

このあたりについては、2720“「魔女狩り」とは、統合階級の偏見の産物である”に詳しいので、再度ご参照ください。

>いかに無害に見えるものであれ、キリスト教の儀礼以外の魔術のすべて、お守りを身につけること、星占いをすること、そしてまた、呪文や護符によって病気を治すこと ── つまり民衆が伝えてきた豊かな生活文化の多くが、邪教の、したがって悪魔的な非行として、否定された(2720より)

キリスト教世界は、彼らの共同体を破壊し改宗を押し進めるために、地域共同体の中心的な存在である長老(いわゆる「賢女」)に、“魔女”のレッテルを貼り、共認を誘導し、リンチにかけて次々に排除していきました。その異端視の理論的(世界観的)根拠を与えたのが、キリスト教と結びついたギリシャ自然学を背景とした「理性」(この自然観に合わないもの全てに「悪魔のしわざ」というレッテルを貼る)なるものだったわけです。これは、一面からのアプローチであり、それ以外の要素も当然絡んでいるでしょうけれど。


私には、このことが単なる昔話のようには思えないのです。

現在の科学は、キリスト教のパラダイムの影響下にあります。「非科学的」という言葉は今もなお、本源的・土着的なものに「野蛮」というレッテルを貼り、干渉する根拠になっています(究極の到達点は、先進国の、市場化による搾取)。「非科学的だ」「トンデモだ」と指摘する側の人間(学者や統合階級に多い)は、自らが正義と信じ優越感を覚える傾向にありますが、「科学的であること」を優先する固定観念は、本源的なものの破壊に間接的に荷担していることになるのです。

「科学的=正しい」、と短絡的に信じるのは大変危険なことだとあらためて思います。ここまでの石野さん、吉国さん、竹村さん、本田さん等みなさんの投稿を見ると、「科学」といえどもその背景には、自己正当化のための観念、その根本には「自我」があるようだという気がしてきます。その意味で、私権時代特有の(異常な?)観念体系である気がします。この中身を鮮明にしていく上でも、このボードで「科学とは何か」という問題を根本に戻って議論することは、大変重要だと思います。

蘆原健吾

2012年12月22日 (土)

個人主義と市場拡大に関して

個人主義の物質的基盤は市場社会にあり、更に市場社会の奥には、私益追求の欲求及びそれを巡る闘いが存在するという構造が存在することになる。
 
 ではそれを踏まえて、現在的な問題はどこにあるかについて触れる。
 もちろん現在も私益追求の欲求は消滅してはいない。しかし最早それが現代人の最大の活力源足り得るか?という観点では、その絶対性が相当に衰弱している様に思われる。
 つまり市場拡大の原動力となった、私益拡大に明日への夢をかける=可能性収束するという大衆的意識が衰弱したと見ることができる。
 そして、同時に私益を物象化した存在である、金(かね)の持つ絶対的な力(価値)が徐々に衰弱しつつあると見ることができる。
 私は「人権思想」は、権力等の力の存在に対して人々の生存権を守るために登場し浸透した観念と見ている。

 市場社会においては日常的な力とは、金であり資本であった。だとすれば現在は個人主義を拡大した二つの物質的条件が夫々衰弱したことを意味する。
 このことは我々に大きな可能性の基盤を開いてくれたと思う。
 だとすれば、現在この可能性基盤に相応しい観念が必要とされていると思う。
 つまり現実そのものを解析する観念、あるいは個人主義も含めた過去の思想の検証が本格的に必要となっている様に思う。

 とりわけ現在は、生産活動の中にも過去の企業と出自の違うNPOによる事業や、仲間的色彩を濃厚に持つ若者のベンチャー事業など明らかに新しい企業集団が登場しつつある。つまりそのような自律的な集団の新しい可能性をより促進するために、個人と集団を敵対的なものと見るのではなく個と集団がイコールの地平で結ばれる、そんな認識スタンスが求められていると思う。
 あるいは万人の社会参加を可能にする、そんな意識上のかつ物質的な条件作りが求められていると思う。

北村浩司

2012年12月20日 (木)

科学的世界認識と日常のずれ

> 「しかし我々は、・・・専門家の議論の決着を手をこまぬいて待っている必要はまったくない。専門家の間での学問的議論とは別に、我々にはこの学問の成果を、もっと実践的に応用し、検証する手段があるはずである。」

日常性に根ざした科学としての方向性でしょうか。共感を出来る考え方ですね。

ところで、この会議室では中村桂子氏が良く話題になりますね。私も女史の本を読んで共感を覚える1人です。中村桂子氏がその著書「自己創出する生命」で生命誌をはじめるきっかけとして、科学に対する問題指摘を述べられているので引用します。

「科学的世界認識と日常のずれ、物質と生命及び物と知覚の乖離、部分と全体の問題。これまでの科学が普遍の記述に終り、それが現実社会の多様性とどのようにつながっているかはおざなりにされていたことをさしている。このような科学だけに依拠していても自然や生命は見えてこない指摘なのである。」

実現論と比較して考えてみると、実現論が現実社会での不全感や問題点を出発点にしているのに対し、科学はある専門家の興味・問題意識などから出発するという相違点があげられます。

科学の専門分野である専門家が実験・観察などにより仮説を検証し、それが専門家の集まりである学会という場所でその正しさが検証される。そこで認められ始めてその仮説は科学的事実として認められる。高度に専門的に分化された科学においては、その評価は専門家にしか出来ないものです。専門の研究者は、専門の研究者たちに評価してもらうように研究成果を発表し、専門家の内で作り出された知識を使って、さらに自分の研究を進める。これは、科学の自己完結性と言われるところでしょうか。

また、科学においては科学的事実については価値判断は行われず、それは社会に委ねられる、とう姿勢も社会からの距離を遠くしているように感じます。このような構造においては、専門家でない私たちにとって、科学的世界認識科学と日常とのずれを感じるのは、必然的のような気がします。

このような問題点に対して、中村桂子氏は今後の科学のあり方として次のように述べています。

「普遍・統一を求めてきた長い旅が生命を離れての理性に依拠したものだったとすれば、それを多様性と結びつけ、日常性を持たせる方向への試みは、再び基本を生命に戻す作業と言えるだろう。」

現実の問題に対し向き合うためには、このような日常性に根ざした科学が必要とされているのでしょう。

斎藤幸雄

2012年12月18日 (火)

懐疑と実証

現在、「科学」はそれだけで肯定的に捉えられています。「非科学的」という形容が意味するものと比較するとより明瞭である。この肯定性は何によって支持されているのでしょうか。

例えば、ニュートン力学は、物質の世界を質点に還元し、その振る舞いを運動法則で決定づけることで、生起する現象を網羅的に把握できます。高い精度で応用を可能にする「確実性」や「有効性」でしょうか。文化や時代を超えた「汎用性」を持つという意味での「普遍性」でしょうか。

少なくとも、この「有効性」や「汎用性」が、他の知識に対して特権的優位性を示している。これが、科学というだけでだれもが肯定的に捉える理由でしょう。

一方、市場社会の中で科学技術の成果は、環境破壊や肉体破壊を生み出しているが、これらは利用方法の問題、応用の誤りとして捉えられている。しかし、「有用性」「汎用性」において特権的評価を得ながら、「有用性」「汎用性」の問題点を自らから切り離すことは自己矛盾である。

果たして、科学とは価値とは無縁の中立な知識体系なのでしょうか。それ自身が強く価値観と連動しているのではないでしょうか。「客観性」「普遍性」という属性も、科学自身が持つ性質ではなく、「科学がそうした性格である」と、主張をしたがる傾向を持つだけなのかもしれません。「実証主義」や「懐疑主義」とは、科学自身の「客観性」や「普遍性」を示すのではなく、その方法が客観的であり、その結果が普遍的であることを主張のためのもののように思えます。

本田さんの言うように、このような事態の直接的な原因は、19世紀の「科学の制度化」以降、特に国家から身分を保証されるに至ったことに求められそうです。肯定的な中身が「有効性」や「汎用性」による評価としての優位性から、特権的身分へと変化したことによって、具体的な評価共認から切り離されて、(特に、マイナスの評価は応用の問題、産業の問題に一面化して、)成立することが可能になったからです。

トーマス・クーンがパラダイム論で指摘したのも、研究を方向づけているのは、社会が抱える問題ではなく、科学者集団の内部共認であり、内部規範にそった研究の様式とその評価という、特権階級の構造ではないでしょうか。

問題は、なぜ特権階級化したのかという点と、そのような特権に正当性を与えるために必要な「実証主義」「懐疑主義」とはどのような認識構造なのかという点です。鈴木さんのいうように、懐疑主義はデカルトの「理性論」からの、実証主義はベーコンの「経験論」からの流れのようにも思えますが。

石野潤

2012年12月16日 (日)

実証主義を超えて

まず、科学的(近代科学という範疇で)であることは、観察や実験に基づく自然科学の方法により対象を記述すること(=実証主義)であるということですが、実証主義自体の妥当性が議論されることなく、無批判に(近代)科学は実証主義的方法によっており、よってそれが正しい(問題解決には最良のと言う意味で)方法であると言うことにはつながりません。

そこで、実証主義の諸学における現在的位置付けを見てみると、現代の自然科学および社会科学の一部では、実証主義的方法はすでに確固とした地位をしめ、それを全面的に否定することは科学の自己否定につながることから、現在の(実証主義的)科学者には受け入れがたい状況にあります。

他方、哲学においては、『実証主義的』という形容詞が『自然科学的方法を哲学的議論の中に無批判に持ち込む非反省的態度。』という侮蔑的意味あいをもち、実証主義を全面的に肯定することは哲学の自己否定につながるため、これもまた哲学者には受け入れられない状況にあります。

社会を対象化する上で有効と思われる、科学と哲学の2大ジャンルにおいて方法論が相容れない状況である以上、科学・技術と社会と関連する諸問題を包括的に考えていこうとしても、それぞれの研究は方法に適した対象に分離したままで、全体として問題をとらえて解決することなど望めそうにありません。

また、近代科学の世界に限っても、実証主義自体の限界性から、基礎を実証主義と同じく感覚的経験(観察と実験)に求めながらも、概念および知識をすべて論理的に再構成する『論理実証主義』(意味の検証理論をその中心におき、論理的・哲学的思考により対象を捉えようとするもの)の展開、観察の理論負荷性の問題から論理実証主義の基盤崩壊、その後のパラダイム論への移行など、実証偏重を懐疑する変遷をたどっているように思います。

そして今、(現在の)哲学も科学も全体的問題に対しては無力だとすると、既存の方法論からはなれて自在に、科学・技術と社会と関連する諸問題を包括的について考えることと(新しい方法論は諸問題に対する解答が出たとき同時に確立するように考えています)と、科学者(哲学者)の存在構造自体の見直し(市場の期待から独立した位置から、対象をみることが出来ることが条件になると思っていますが)とが必要になってくると思います。

本田真吾

2012年12月14日 (金)

科学の役割

>>その意味において、「実現論」(一つの仮説としても良いですが)を「トンデモ」と言う前に矛盾がないかの検証を(みんなで)行うことの方が有意義だと思います。

 賛成ですが、「矛盾がないか」だけでは不十分であると思います。(中略)他にどのような違った説明の仕方が可能だろうか?という視点も交えた方がよいと思います。<

ご指摘はその通りだと思います。しかし、あえて言わせていただければ、単に「違った説明」ではなく、「より事実と整合した説明」と言い換えられるべきでしょう。「唯物的世界観」と「実現論」との違いはそこにあると思います。

我々は物質文明を通して科学と技術の恩恵を感じていますが、その一方で現実的な諸問題に対して答えてくれない科学に対しては、不信感を抱いてます。

科学が、「事実と判断の違い」に逡巡している間に、現実の諸問題をどうするか、という差し迫った命題は店晒しにされている、という批判は的外れなものとは言えないでしょう。

科学が、真にヒトのためにあるのなら、社会構造まで含めた現実の諸問題を正確に分析し、それらの構造を諸相において解明するのみならず、処方箋を提示できるものでなければなりません。

本田さんの投稿を読んでいて思ったのですが、現代の科学が社会を対象化していないのは、ある意味では当然と言えます。アリストテレスの時代には統合されていた学問が、近代以降専門化されていき、簡単に言うと「自然科学」と「社会科学」になった。社会科学は自然科学の方法論を使おうとしたが、自然科学(の厳密性)から見たら、「あれは科学とは言えない」ということになり、正統派自然科学はますます社会を対象とすることを避けるようになる。生物学においては、「優生学」や「社会ダーウィニズム」と呼ばれた歴史が止めを刺します。科学は一政治勢力に利用されることを恐れ、かつまた、象牙の塔を死守するために、社会に対して物申すことをタブーとしたのではないでしょうか。

吉国さんが言われている「社会を対象化する」とは、限定的な自然を対象とし、ヒトや社会について考えることを止めてしまった自然科学と、今のところ社会に対して何ら有効な回答を提示できていない社会科学とを、もう一度統合していく試み、という意味ではないか、という気がしています。

鈴木隆史

2012年12月12日 (水)

実証主義科学のパラダイム

実証主義科学のパラダイム

「実現論が科学か否か」いう議論については、もはやパラダイム論でいうところの「通訳不可能性」そのものではないか、という気もしてくるのですが…。^^;

「 実現論への提案」
>科学というのは、実際の実験・観察データを元にしてしか語れない、語ってはいけないものであり、非常に厳密なものです。その根本は懐疑主義であり、疑って疑って、それでも疑って、最後にどう考えても疑い切れぬ残ったものを、科学的事実とみなします。<

という実証主義的な考え方と、「 我思うが故に我あり 」で言われているデカルトの、
>「全てを疑った上で最後に残るのは”思惟する存在である自己”である」<

には共通の認識構造がありそうです。「実験・観察データ」を疑っている主体(観察者自身)が、とことん客観的であろうとして「思惟する自己」となれば、原理的には容易に「観念の転倒」が起きる可能性を指摘することができると思われます。

実証の限界性や欠陥が明らかになってきている以上、そして社会という実験不可能なものを対象として「科学的」に考察しなければならない現在、実証主義を超える認識論の構築が喫緊の課題ではないでしょうか?

求められるべきは、還元的に分析された事象が真か否かということではなく、現実に対して有用な理論足りえているかどうかでしょう。

鈴木隆史

2012年12月10日 (月)

近代科学について

『近代科学と知の体系、再考』の問題意識について少し考えてみました。

>現在(近代以来)のパラダイムの上で「科学的である」ということは、大きな偏りを含んでいると思っています。誤解されると困るのでお断りしておきますが、近代科学の成果を全面的に否定するわけではありません。重要な部分を切り捨てた、一面的で不完全な認識体系だと考えているわけです。

>ところが私たちは、「科学的に証明された」ということに対して、ある種の絶対性を感じてしまうようです(科学を過信しているとでも言いましょうか)。近代科学の手法である程度明らかにできるのは、現象のごく一面に過ぎません。その切り取られた一部のみで成り立つことを一般法則としてしまうことによって判断を誤ることは、往々にしてあり得ることです。「科学的」=「正しい」という図式を、無意識に盲信しているというのは問題でしょう。

前段で、近代科学は『重要な部分を切り捨てている。』『一面的で不完全である。』という2つの問題提起がなされ、後段で、そのような状況下では『近代科学的方法』を盲信するのは危険である、のように取れます。そこで、近代科学の特性と成立過程はどうだったのか、それ以前の科学(的認識)はどうであったのかが解れば問題点がもう少し鮮明になりそうです。

まず、今日の自然科学的知識に相当するものはギリシャ時代から存在し、その確実性や根拠の究明は哲学の重要な任務の一つでした。つまり、哲学は科学哲学的問題意識を含んで成立していたと言うことになります。このことは、哲学が人間や社会を対象としているため、大きくは哲学に包含される当時の科学的認識も人間や社会を対象にしていた、と言うことだと思います。

次に、『科学者』という言葉は1840年代にw.ヒューエルよって造語されましたが、科学が今日見られるような『個別諸科学』に専門分化し、さらに科学研究が専門的職業として成立するするのは、19世紀半ばの『科学の制度化』以降です。この頃、科学と哲学は明確に分離されることになり、科学研究活動を対象とする哲学的考察という新しいジャンルの『科学哲学』が誕生しました。これは、近代科学はそれ単独で社会を対象化することが出来ず、哲学の力をかりて社会に中での位置を確認するしかなかったという風にも考えられそうです。

それから、本格的な科学の制度化は20世紀になってからです。技術革新が市場経済の制覇力の大きな柱になるにつれて、国家は科学を国家的事業として取り込むようになります。このとき科学はほぼ全面的に体制化され(=科学者は国家から身分保障を受けるようになり)、近代科学の制度的基盤が確立しました。

本田真吾

2012年12月 8日 (土)

客観世界と「科学」

「科学」を巡るやり取りは、形而上学的な色彩を帯びながら、パラダイム論まで拡大しそうな雰囲気ですね。

ところで、私の素朴な疑問、飯野さんに確認してみたいのは、科学についての広辞苑の定義を飯野さん自身はどう受け取っているのですか。

なぜその事にこだわるかといいますと、広辞苑の定義が余りにも表層的過ぎるからです。しいて言えば、素人の辞書編集者の手になる整理だという事です。それをたたき台に提案するのですか。

問題点を挙げます。

科学を「体系的であり、経験的に実証可能な知識」としていますが、この整理の仕方は概ね18世紀の物資学(力学と化学当りが中心)時代の見方です。人間にとって可視的な次元を対象にしていたので、「経験的に実証可能」と記述されます。しかし、飯野さんもご存知のように、19世紀の中頃から、人間の即物的な経験では扱えれない物質次元を対象とし出します。つまり、経験的実証ではなく、しいて言えば「理論と工学的な装置」(というシステム)を介してしか、実証過程さえ扱えれなくなっています。
湯川さんの「中間子」は、先に理論的な考察があり、その後遅れて、工学的な装置の考案の元で、論理的な実証が行われています。そして、実在するものとして「素粒子」の体系の中に位置付けられました。

つまり、理論(論理整合性)と実証と体系化は、円環のような関係にあって、実証がスタート地点ではないのです。

体系と実証の関係についても、簡単にコメントして置きます。これは、化学の例がいいでしょう。メンデレーエフが考察した「周期律表」はご存知ですね。この「周期律表」自身は、直接的には「実証」できるものではないですね。何が凄いかというと、それまでに物質としての個別関係(化合の整数比関係)が解明されていた中で、個々の関係から、物質に隠れた法則、秩序を周期の概念で体系化したことです。
これが、当時の化学者に納得されたのは、周期律表に空席が存在し、その空席に対応する元素を捜して見ると確かに予測された「属性」をもった元素が発見されたからです。これを称して「実証的」というべきでしょう。
つまり、「体系化」と「実証」は、まるで次元の異なる認識活動であると言うことです。あるいは,理論が認識あるいは実証を領導するというべきでしょう。理論と「仮説」は違いますからね。

実は、ここまでは、まだ時間(吉国さんの不可逆的な時間の矢)が入っていません。生命、生物の対象は、物質(それも多次元)と時間とそして「客観的世界とは?」という、さらに複雑な階層に入ると考えています。

楽しみですね。

村田貞雄

2012年12月 6日 (木)

なぜイデオロギー化するのか

>「全員が前向きに考えている」状態はイデオロギー的ではないといいきれるのでしょうか。

まず、「イデオロギー」とは何なのでしょうか。
マルクスやエンゲルスのいう、社会的存在に規定されて主観や願望や非合理的な確信に依存した「虚偽意識」でしょうか。

問題は、なぜこのような「虚偽意識」が必要とされたのか、成立したのかという点になるのではないかと思います。私には、集団共認の必然ではなく、私権時代固有の観念構造なのではないかと考えられるのですが。

実現論第2章にあるように、私権の共認は、強制圧力を伴って、財を占有した少数の支配階級と、財を奪われた生産階級が固定された身分社会を形成します。そして、深層の権力の共認は否応無しの認めたくない共認であり、そうであるが故に自己正当化できる様に幻想観念化された表層共認が必要となります。イデオロギーはこのような構造の上に成立しているのではないでしょうか。

だから、マルクスはイデオロギーを「歴史を動かす真の力としての物質的生産関係を見落とすことによって、この生産関係を貫く階級支配を覆い隠すばかりか、かえってその強化に奉仕する。」と考えました。

イデオロギーという名の共認は、共認充足なしには生きられない人類が、私権の絶対共認を受け入れざるをえない状態を前提に成立しています。そしてそれは、階級的な対立構造の上に統合共認を形成する必要から生じているともいえます。

だから、レーニンは「ブルジョアのイデオロギーに対抗するためにマルクス主義をプロレタリアートのイデオロギー」と考えました。

イデオロギーが敵を虚偽として否定し、自分の立場や行動を正当化し、その背後にある意図や目的を隠蔽する傾向は、市場社会における「個人主義」にもよくあてはまります。常に「全体主義」を偏った観念形態の敵と措定し、その延長線上にことごとく「集団」には懐疑的な態度を示します。「個人の自由」や「個人が原点」と思索し始めたとたん、個人に対峙する集団にイデオロギー性を感じるのではないでしょうか。

「個人主義」を主張する本人は、「自分は特定のイデオロギーにとらわれてはいない。」と考えている場合が多いようですが、「集団共認はイデオロギー化する傾向がある」という考え自体が、現代の最もイデオロギー的態度のように思えます。そのような「個人主義」のイデオロギーに思考が邪魔されてはいませんでしょうか。

>私は共認を全否定しているわけでは決してありませんが、それがイデオロギーから常に自由でありえるとも考えておりません。

私は、逆ではないかと考えます。イデオロギーも、共認から自由なのではなく、それどころか人類に普遍的な「共認」の私権社会固有の一形態と考えられます。私権社会固有の狂った構造を外してもなお、「共認」に問題や限界があるとお考えでしたら、事例や根拠を示していただきたいと思いますが、いかがでしょうか。

石野潤

2012年12月 4日 (火)

完全な認識体系ということ

>現在(近代以来)のパラダイムの上で「科学的である」ということは、大きな偏りを含んでいると思っています。誤解されると困るのでお断りしておきますが、近代科学の成果を全面的に否定するわけではありません。重要な部分を切り捨てた、一面的で不完全な認識体系だと考えているわけです。もちろん、完全な認識体系などあるはずがなく、現実を突破するのに“より有用な認識体系”、あるいは想像の中にしかない「客観的世界」に“より近い認識体系”があるに過ぎないのですが。<

通常考えられている「科学的である」ということについて、警鐘を鳴らされていますね。つまり、現実を対象化する必要性は当然のこととして、それが限られた範囲の現実を(例えば実験室での「現実」など)対象化しているということ、さらにその(科学的)方法が客観的に捉えられたとしても、あくまでもそれは観察者にとって有用な認識に留まってしまう、それゆえに近代以降の「科学的」とは不完全な認識体系である、ということでいいでしょうか。それゆえに、「科学的である」ことは不完全な認識に留まり従って、次のような意見になるわけです。

>私は、近代の認識フレームの中で「科学的」であることを重要だとは考えていません。現実を突破するために有用な知の体系こそが重要と考えています。<

私は、近代以来の「科学的である」ことの問題性・限界性については基本的には同意いたしますが、ただ、私は「完全な認識体系などない」という点について、少し確認しておきたいと思います。例えば、(古典的あるい論理)実証主義も、最終的には完全な認識体系(一般法則)を目指していると思います。これが、皮肉にも検証主義によって完全な理論体系の無意味さが引き出されてしまっているわけですが、私は現実に立脚する限り、その現実に対する完全な認識体系(理論)を構築する姿勢こそが科学的であると考えます。当然現実が変われば、認識の修正が行われていくものです。その意味では「固定的絶対的な認識体系などない」と言うのが正確な表現ではないかと思います。完全な認識を目指している(構造化し統合していく)がゆえに、それは留まることがないということでしょう。

このことは、生物の認識機能がそうであるからです。不完全な認識では適応できないわけで、しかし可変性を持たなければ外圧状況の変動に適応できないからです。これを動発的認識とでも呼んでもよいですが、人類のレベルで考えた場合、完全性を求める=先端可能性へ収束していく、それゆえに固定的絶対的ではない、というのが本来の認識機能の使われ方だと思います。

吉国幹雄

2012年12月 2日 (日)

科学と事実認識

以下は、私がある文献の中で出会い、非常に感銘を受けた言葉です

「そもそも科学とは何か?
 それは自然のモデルである
 実際の地形に対する地図にあたる
 
 もちろん自然は変わる
 
 地形が変わると地図を書き換えなければいけないように、
 自然が変わるなら、科学も変わらなければいけない

 だから「科学は真理の発見である」というより
 「科学は絶え間ない真理の更新」と捉えたほうが良い。」
 
事の真偽はわかりませんが、アルキメデスの言葉のようです

「科学と事実の認識」に関して私は、ほぼこの言葉に同意しています
ですから、
>大切なのは「科学的事実」としていたものが間違っていた場合、
 その「科学的事実」に固執することなく
 柔軟な論理の組み替えを行うことではないのでしょうか。



私は、科学とは「世界を認識(理解)する方法である」と考えています
例えば、
アインシュタインの相対性理論は、1919年の皆既日食によって「確認」され、同時にニュートン力学は否定されました

しかし、相対性理論が「確認」されるまでは、
ニュートン力学が最も世界を正しく理解できる方法だったのであり
それゆえに否定された後も、
科学的理論(世界を認識する方法)であることを止めません

それは同時に、相対性理論の「反証」が確認されれば、
それに変わって、より正しく世界を認識するための理論を構築する必要があることを意味します

このようにして、科学とはより世界を正しく認識するために絶えず更新されていくべきでありその行為こそが、科学的であるのだと思います

翻って言うならば、
特定の実験や観察によって「実証」されたので、それを「定説」であると固定することには意味がなく,むしろ、そのような行為こそが、「事実の認識を誤らせる」恐れがあるのではないでしょうか
(∵ 証明と反証は常に非対称です。詳しくはホパーの論文を参照してください)

そういう意味で、私は「定説」を決め込み、「反証」を見過ごす・否定する学会には、なにかしら問題点があると考えています

>その意味において、「実現論」(一つの仮説としても良いですが)を
 「トンデモ」と言う前に矛盾がないかの検証を
 (みんなで)行うことの方が有意義だと思います。

その通りだと思います
実現論とは、いくつかの仮説の集合体であり、事実認識論であると考えますその「仮説」を特定のドグマによって「トンデモ」と決め込むのは意味がなく具体的にそれぞれの事象を検証していく必要があると思います

その上で事実認識に関する誤りがあれば、修正していくべきであり
その役割をこの「るいネット」が担っていると思います
そういう意味で、「実現論」とは永遠に更新されていく
「未完成」な論理なのかもしれませんね

西谷文宏

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