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2012年11月

2012年11月30日 (金)

近代科学と知の体系、再考

未熟ながら、私が考える、現実の知と科学について書いてみたいと思います。

何度か書きましたが、私は、近代の認識フレームの中で「科学的」であることを重要だとは考えていません。現実を突破するために有用な知の体系こそが重要と考えています(有用かどうかは、実際に現実において試されます。もちろんそれまでに十分な検討をした上で現実にあたる必要がありますが)。

現在(近代以来)のパラダイムの上で「科学的である」ということは、大きな偏りを含んでいると思っています。誤解されると困るのでお断りしておきますが、近代科学の成果を全面的に否定するわけではありません。ある局面では、非常に有用で役に立つのですが、重要な部分を切り捨てた、一面的で不完全な認識体系だと考えているわけです。もちろん、完全な認識体系などあるはずがなく、現実を突破するのに“より有用な認識体系”、あるいは想像の中にしかない「客観的世界」に“より近い認識体系”があるに過ぎないのですが。

近代以来の科学は、「イデオロギーを排して客観的に」を標榜しつつ、実は偏った近代思想の影響下にどっぷりと浸かって存在しています(近代思想の問題性については、実現論に詳しいので省略します)。要するに、近代という時代を背景とした偏った考え方の上で構築された体系が現在の科学の認識体系です。

ところが私たちは、「科学的に証明された」ということに対して、ある種の絶対性を感じてしまうようです(科学を過信しているとでも言いましょうか)。近代科学の手法である程度明らかにできるのは、現象のごく一面に過ぎません。その切り取られた一部のみで成り立つことを一般法則としてしまうことによって判断を誤ることは、往々にしてあり得ることです。「科学的」=「正しい」という図式を、無意識に盲信しているというのは問題でしょう。確証バイアスや選択的思考が現在の科学にも少なからず蔓延っており、たまたまそれが学者の間で共認されているから問題視されないだけである、ということを再認識すべきだと思います。

しかし、そのパラダイム(思考フレーム、証明の方法論や基準そのもの)を絶対視する一部の人々は、自分たちが最も科学的、すなわち客観的であるという思い込みに基づき、他者を「科学的でない」「トンデモ」と批判するわけです(他のbbsで経験したことですが、どうもこれを行う人は揶揄や嘲笑を込めて見下しながらも、自分の方が上だという自我充足と、正義をなしているという高揚感をともなうのが特徴のようです)。このあたりは、トマス・クーンの「科学革命の構造」にも書いていますね。

近代科学は、利便性や自然を改造するという一面的な意味で有効でした。しかしそれが浅はかだったということは、環境問題をはじめとする種々の問題で露呈しています。私は、近代思想の亡霊から自由になり、その総括の上に新たな知の体系をつくっていくということが、困難ではありますが、今後不可欠になっていくと思います。

蘆原健吾

2012年11月28日 (水)

近代思想=理念的思考の危険性

近代思想の問題はその「絶対観念」性にある。それは極めて固定性の高い(硬直性の高い)「理念」だからである。
 言葉を変えれば理念とは「こうあるべき」という頭の中の理想をさす観念である。この観念の問題性は2点ほどあろう。

 一つは現実を見る場合「かく(例えば人間は自由な存在で)あるべきなのに現実はこうなっていない」と言う角度からしか現実を見られなくさせる点である。つまり固定的な価値観でしか現実を裁断できなくさせる点である。(自然科学上の諸認識との対比を試みられたい) 

 第二にそのような価値論は固定度が高まるにつれ、一切の批判を許さなくなる点にある。 とりわけ問題となるのは、他者からの批判はもとより自らの現実認識さえ捻じ曲げてしまう点にある。
 
 人間は何も価値論だけで生きているわけではない、生々しい現実認識や、状況判断や体験的認識や、感覚機能がキャッチした諸認識を元にして生きている。それらは同時に生きた現在的法則性の発見の宝庫ともなるわけだが、これらの認識が全て価値意識のもとに逆規定されていく。つまり現実を正しく認識できなくさせる点であろう。

 観念とは現実の問題を突破する可能性を探るためにある。あるいはそのために必要な法則性(必然性)の発見のためにある。あるいはそれに基づいたより深い新たな可能性の発掘のためにある。と私は思う。
 その観点から見れば理念に基づく思考はまさしく観念の倒錯といえよう。

北村浩司

2012年11月26日 (月)

「相対論、等価原理、ビッグバンは全部ジョークにすぎない」

以下紹介します。

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リンク

みなさん、こんにちは。

このところ、ロシアのステファン・マリノフ(Stefan Marinov)博士
というあまり西側諸国では知られていない物理学者の論文を勉強していた。このロシア人博士の旧ソ連時代に行った実験(もちろん、西側にはまったく伝わっていなかったようである)は、実に興味深い。

簡単に言えば、マリノフ博士が行った実験とは、地球の絶対速度や太陽の絶対速度を測定するという物理実験である。相対性理論全盛の西洋社会では、絶対速度というものをどのようにして測定するのかまったく分からなかったはずである。しかし、マリノフ博士は独自に開発した実験道具を使って、どうやら我々の地球の移動速度を測ることに成功したというのである。私もこの2、3日前までそんなことをしている人が存在したとはまったく知らなかった。

マリノフ博士は1973年に初めて地球の絶対速度を決定した。その後何度も追試。その論文はこれ。
リンク

地球の絶対速度は、

  V = 362 ± 40 km/s

太陽の絶対速度は

  V = 303 ± 20 km/s

だったというのである。

一方、ハッブル望遠鏡によるアメリカの研究者の遠くの銀河の絶対速度は、200,000 km/s だという。

現在の宇宙論の考え方は、宇宙の中心にある星ほど絶対速度は小さく、宇宙の果てにあるものほど絶対速度は大きいというものである。地球は天の川銀河の周辺部にいるから、かなり速度は速いはずである。

ところが、実測値は、かなり小さかった。

このことから、マリノフ博士は、レッドシフト(赤方変位)は間違っている。相対性理論、一般相対性理論、ビッグバン理論はナンセンス以外の何ももでもなかったというのである。

実に面白い。

当初はマリノフ博士のこの結果は「笑い者」になったようである。あるいは、キチガイ沙汰と見られて全く無視されたようである。しかし、ソ連崩壊してロシアになってのごく最近になり、西側諸国の中の研究者もマリノフ博士の行ったさまざまな実験を追試するものが現れ始めた。

その結果、徐々にマリノフ博士の支持者が増えて来つつあるのである。

マリノフ博士は、有名なマイケルソン–モーレーの実験に相当する実験を現代の科学技術で行った。マイケルソン–モーレーの時代には、光は行って帰って来るために、途中で定在波を作っている。一方、マリノフ博士は、ワンウェイ実験(行きのみ)の片道切符の光の実験を行ったのだという。だから、光は定在波を作れない。もちろん、往復の定在波実験も行ったようである。

すると、光が往復の定在波の場合には、マイケルソン–モーレーの実験のように、方向に依存しない。しかしながら、片道切符の光の場合には、方向に依存するという実験結果を世界で初めて得たというのである。この結果は長らく知られて来なかったという。

それゆえ、アインシュタインの特殊相対性理論は根底から覆されたということになるという結論を導き出したのである。たまたま昔の人は行って帰ってくる光の測定しかできなかったために、誤った結論を導いたというわけである。

絶対速度は存在し、意味がある。同様に、アインシュタインの等価原理も実験してみるとまったくそのようにはならなかったというのである。

いやー、実に面白い。最近読んだ論文の中ではその革新性と地道に実験するという物理学者的アプローチの両面から見ても非常に興味深い研究であった。

なかなか日本にはこういうタイプの研究者は出て来ないようですナ。特に旧帝大や国立大などはだめだね。

きっちょむ

2012年11月24日 (土)

「声の文化と文字の文化」 ~どんな発明にもまして、書くことは、人間の意識をつくりかえてしまった~

人類は、長い期間、共同体体制で言葉しか持っていなかった。しかし古代帝国が生れるや否や文字が登場した。これは、帝国を維持する為に記憶できる文字(税金徴収や正当性を主張する)が必要であったからである。この「声(言葉)と文字」の差異を分かりやすく解説したサイトがありましたので紹介します。
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灰色の脳細胞(リンク
ウォルター・J. オング『声の文化と文字の文化』
(前略)
さて、知とは記憶と想起である。そして伝達もしくは交換されることに、その意義がある。その点を注視することにより、声と文字の文化の差異が見出される。

声の文化は、文字の存在しないそれである。したがって知は声により伝達されるしかない。声は運動であり、ひとたび聞き逃せば取り返すことは不可能である。したがって伝達されるべき重要な知は、幾たびも繰り返され、その内容は話し手と聞き手の双方が共有する知を基礎としなければならない。つまり声の文化において知は共同的である。これは声の文化において、知が精神の外に一度に与えられるものとしては存在しないことに由来する。

逆に文字の文化では、知をストックしそれを可逆的に受け取ることができる。文字は、発信者と受信者が同一の場所、時間にいあわせる必要をなくし共同的な知を解体する。声の文化における発信者は、共同体が培い伝達してきた知を、他者にもたらす語り部であった。したがってそこではまず記憶とその再現に重点がおかれ、記憶を容易にするための冗長な反復、類型的な登場人物、生活に密着した具体的な情報が際立つ。たとえば叙事詩と呼ばれるものは声の文化の産物である。当然「作者」という観念は存在しない。あるのは「知」のみである。

文字としての知は、物質として完結し諸個人が自由にひとりで対峙するものとしてあらわれる。共同体における人間関係とは乖離し、声の文化の諸特徴であった、冗長、類型的、具体的といった性格は失われてゆく。記憶と再現を重視しないこと、つまりテクストを自由に可逆的に往来することが可能な「読者」は、分析的な思考を獲得してゆく。過去からの伝達、忠実な知の継承といったことは重要でなくなり、新規な何ものかを「発見」することに価値が見出されるようになる。そのために「作者」「読者」双方に抽象的かつ分析的、そして共同体から無関係な「知」が尊ばれ、ここに諸学は発生することとなる。

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ウォルター・J. オング『声の文化と文字の文化』に関心がある方には、(リンク)をお勧めします。

岸良造 

2012年11月22日 (木)

専門分化による高度化・効率化には大きな限界がある

> 運動を成功させるには、理論が必要になるし、広宣活動も必要になるし、情報収集も必要になるが、理論を追求するにも、広宣活動を展開するにも、情報を収集するにも、膨大な余力(時間)が必要になる。そして、もちろん、それらの活動は、何れも専任した方が集中できて高度化してゆくので、専任化した方が有利になる。
「専門分化した方が高度化する」というのは本当だろうか?

この問題を考える上では、まず集団の分化には2種類あることを押えておかなければならない。一つは、集団の統合のためのタテの『統合分化』、もう一つは、高度化・効率化のためのヨコの『専門分化』であり、この2つは分けて考えなければならない。

この視点で人類史を見てみると、集団分化はまずタテの統合分化、次にヨコの専門分化の順で起こってきたことがわかる。集団を統合する上で、統合者は不可欠であり、従って、タテの統合分化は極限時代から存在する。それが始原人類集団を統合していたシャーマンであり、シャーマンの役割を継承したのが古代の僧侶・宗教家である。次の時代の古代国家の王や官僚も、タテの統合分化上の存在である。なお、王や官僚は私権闘争により獲得された身分でもあるため、この統合分化には集団統合の必要性だけではなく「誰にも渡さない」という権力維持の動因が働いている。

高度化のためのヨコの専門分化は、ルネサンス期の職人や芸術家から本格的に始まった。これは、より質の高いものを求める宮廷需要発である。確かに、農民のつくった茶碗よりプロがつくった茶碗の方がモノが良いのは明らかで、専門分化によって部分的な高度化・効率化が実現されるのは事実である。この宮廷発の高度化・効率化需要を足がかりにして市場が形成され、それを引き継いだ近代市場社会になると、一気に専門分化が進んでゆく。

では、こうして近代以降、専門分化が進んだ結果、どうなったか?
近代科学は、本来、無限の構成要素が連関している自然という対象をわずか数個の断片要素に分解し、研究の前提条件を限定することで専門分化した。断片化された科学知識を応用した技術は目先の生産効率を上昇させたが、近代科学はその帰結として、後戻りできないほどの地球破壊を引き起こしてしまった。
また、際限ない専門分化の結果、現在の学問の停滞に見られるように、今や学問はほとんど無価値なものに成り下がり、科学はまるで進化を停止して終ったかのような惨状を呈している。

おそらく、専門分化には、分化による高度化はほぼ100年程度で飽和してしまう、という追求の限界と、これ以上分化してもむしろ効率が低下する、という細分化の限界がある。従って、専門分化により部分的な高度化・効率化が実現されるのは事実であるが、だからと云って、「トコトン専門分化を進めれば良い」と考えるのは大きな間違いであり、専門分化には大きな限界があることを知らねばならない。

とりわけ、本来「分化」と一体のものとして追求されるべき「統合」を捨象した近代の専門分化は、単なる限界を孕んでいただけではなく、致命的な欠陥を孕んでいたと見るべきだろう。

田中素

2012年11月20日 (火)

「科学」は「中立である」はずはない

「科学」は「中立である」わけではない。あるはずがない。
科学は、「客観的」というよりは「絶対性」の追求だから。
ということを端的に分かりやすく説明されている記事があったので紹介します。

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中立性と科学者 ~・あなたは原発派なの?脱原発派なの? 社会的存在としての人間・~現状把握研究所リンク


みなさん、「客観的」という言葉は、
「絶対的」とは意味が
全く違うということをご存じでしたか?

「客観」の対語は「主観」であるから、
「主観」は自分の立場から見た考えであるなら、
「客観」は相手の立場に立ったらと推し量った上での考え、
なのである。

「客観的」とは、おそらく相手が思っているであろう見方なのである。

だから、科学は客観性に忠実というよりは、
「絶対性」の追求なのである。

絶対の性質を帯びているように思われるものは存在するが、
絶対そのものは人間には知るよしもない。

だから、科学者は多かれ少なかれ「絶対」を騙らざるを得ない面があり、
それを「客観的」という言葉にすり替えてしまったのだ。

「絶対」と「科学」の間にある溝に、
科学者の人生観・社会間・政治的信条が潜り込んでいるのだ。

裁判もそうである。
だから、
裁判も真理の探究というよりは、
社会的なけじめでしかあり得ない。

事実の追求は基本だが、事実とは社会的なものだ。

社会で運用されている法律を司っているのは神ではない。

人間なのだ。

起訴・弁護・判決は、
神の行為ではなく、
人間の行為である。

人間同士が約束した決まりの
確認作業である。


冤罪とは真理を誤ったともいえるが、
社会の現れといった言い方の方がなじむ。



新聞やテレビももちろん同様である。

ジャーナリズムとは、

中立を騙って
いわゆる「客観的で中立的」な報道をすることではなく、
己の良心には従うが、
結果として偏向が生じる姿勢を是認することである。

金や、外国などを淵源とする権力に擦り寄るごとに、
報道内容は恣意的となっていく。

メディアは、
フィルタリング機能やサブリミナル効果
のエキスパートである。




神の法とは、
万物変転の原理であり、
人はその解釈をできるにすぎない。


科学とはそもそも神を探求する宗教的行為であった。
今では人によっては神を真理と呼び、
神の代わりに政治活動や市民運動を探求しながら
「科学」を、科学者は営む。

三池晴与

2012年11月18日 (日)

脳は「動かそう」と意図したときには、既に準備を始めている

私たちは日常場面で様々な情報を集め、判断をし、行動しています。
そして、その一連の行動は自分の意思で動かしていると考えています。
しかし、脳の働きを見ていくと、「自分の意思とは本当に存在するのか」と疑わざるを得ません。
「自由意志」「判断する」「自分とは?」をめぐる問題を脳科学の視点から考えていきます。

***

自由意志の存在について、米国人生理学者ベンジャミン・リベットが80年代に行った有名な実験があります。
リベットは、自由意志が存在するかどうかを確かめようと思って、「被験者に好きなときに手首を動かしてもらい、その時の脳活動を観察する」実験を行いました。
もし、人間に自由意志があるならば、動かそうという意識がまずあり、それから脳の活動が始まるに違いないと考えたのです。

しかし、結果は逆でした。

被験者が「動かそう」と意識する約0.5秒前に、脳が手を動かす「準備」を始めていることが明らかになったのです。つまり、意識的に「動かそう」と決定する前に、脳はすでに運動の「準備」を完了しているのです。最近の研究では、本人が「動かそう」と意図する7秒前に既に脳は「準備」に入っているとも言われています。

このことは、意識は、無意識に脳がすでに行ったことを、遅れて認識したにすぎないということを意味します。
この実験では、脳の「準備」→「動かそう」という順番だけでなく、脳が実際に手を動かす「指令」を出す前に、私たちは「動いた」と認知することもわかりました。

つまり、認知(①動かそう→②動いた)と脳活動(③準備→④指令)という指標で整理すると、
「③準備→①動かそう→②動いた→④指令」という順番で私たちは手を動かしていることが明らかになったのです。

私たちは動かそうと思うのには、私たちに意志があるからではなく、脳が準備を完了したからなのです。


では、私たちには何ができるのでしょうか?
人が動かしたくなるのは自動的だが、そこから実際に動かすには1秒ほどの時間があり、その間に人は動かそうという意図を打ち消すことが出来ると言われています。
もし、あることをきっかけに誰かに殺意を抱いてしまったとしても、それは脳が準備をしてしまったからしょうがないのです。
しかし、そこから実際に行動を移さないように、脳が生み出した意図を否定することはできるのです。

つまり、私たちに許されているのは、自動的に沸き起こる欲求に対して「今回はこれは採用しない」と拒否することだけ、ということになります。
例えば、アイデアを絞るという言葉がありますが、アイデアは自らの意志で絞り出すものではなく、脳から自動的に沸き上がってくる様々な可能性を、「これは今回は採用できない」と否定し続け、絞り込むことで、最後に「これは良さそう」と思える答えにたどり着く、ということなのです。

参考:
ウィキペデイア:自由意志―脳科学(神経科学)
リンク
池谷裕二著:単純な脳、複雑な「私」

2012年11月16日 (金)

生命弁証法・・・『千島学説』の基盤となる科学的方法論

生命弁証法は前に述べましたように、第1原理「赤血球分化説」から第7原理「進化論の盲点」に至るまで、各原理を理解するための重要なキーポイントになる理論。
以下内容を参照し、
『千島学説』8大原理の各論編を読み進める事をお薦めします。

現代に甦る千島学説(新生命医学会)リンク
【革新の生命医学情報】内の、
第二回 生命弁証法・・・『千島学説』の基盤となる科学的方法論
より以下転載。

■彷徨える現代医学
『現代医学は強力なエンジンと立派な近代的設備をもつ魅力的な大艦隊に比すべきものである。しかし、その艦隊は羅針盤をもたず、方向舵も極めて貧弱なものである』
   (ロックフェラー大学医学部教授 ルネ・デュボス)
『世の中で何がいちばん難しいことか・・・? それはもっともたやすいことに見えること、即ち眼の前にあることを眼(心眼)で観ることである』   (ゲーテ)

 現代医学は驚異的な発展を遂げたかのように考えられています。しかし、その発展は機器や技術の面という外見だけといわざるを得ません。前世紀的、且つ誤った定説を基盤とした現代医学は、ガンを始めとする難病・奇病、またその他の諸疾患に対しても、暗中摸索の治療に終始し、確固たる治療策を持てない状態が相変わらず続いています。まさに、ルネ・デュボス教授の言葉にあるように、整えられているのは外観だけで、内容については、一刻も早く改められるべきことばかりです。
 物理科学は宇宙時代、生命科学は原始時代・・・この実態は実に嘆かわしいことです。医学の混迷が続く今こそ、誤った考え方の転換をしなければなりません。

 医学・生物学の「定説」において、
何処が誤っているのか。
どうして、そんな誤りが起きたのか。
どのように是正されるべきか。
それを人々の健康、健康自衛、治療策として如何に応用するか。
 その道標となるのが、これからお話する革新医学理論『千島学説』です。

■『千島学説』の特質

権威に屈することなく、事実を謙虚に観察した発見である。

ものの観方、考え方に「広く、永い目でものごとを観る」という一つの哲学的見地から、自然界の現象を長期的・連続的に注意深く観察したごく自然の発見である。

学説構成の基盤は「唯物弁証法」と「唯心弁証法」を止揚統一し樹立した心身一如の「生命弁証法」にある。

 すなわち、A、B、Cという3つのものを観たとき、その各々を部分的、分析的に観ることなく、A→Cへの関連性の有無を注意深く、より自然の状態で長期的に観察した自然界の事象そのものの事実が『千島学説』です。自然界における生命現象そのものが『千島学説』の各理論です。
 『千島学説』の骨格となっている「生命弁証法」は8大原理の最終原理・第8原理ですが、第1原理の「赤血球分化説」においても重要な関連がありますので、その概略をここでお話ししておきます。具体的なことは、改めてこの原理のところでご説明しましょう。

■『千島学説』の基盤となる【生命弁証法】と
 従来の科学方法論である【形式論理】との考え方の比較 ■

《生命弁証法》
1.凡ての事象は時と所の変化に応じて【絶えず流転、変化】する。
 (万物流転)
2.広く永い目でものごとの全体を観て判断をくだす。
3.凡ての事物は矛盾対立を内包し、その対立抗争が進歩や変化の
 原動力となる。
4.限界領域を重要視する。
 形式論理の排中律的考えを排除し、限界領域にある漠然とした
 移行途中型を重視する。そして【生命と自然・環境との連続性、
 事象の連続性】を重視する。
5.生命現象の可逆性(繰り返しめ原理)
 自然、ことに生命現象は繰り返しを原則とする。
6.量の蓄積によって質的転換が起きる。
7.AFD過程を重視。
 生命や自然の生成・発展・進化は、【集合(Aggregation)、
 融合(Fusion)、分化発展(Differentiation)の過程】をたどる。
 ☆逆AFD過程は退化・衰退・死ヘの過程である。
8.【共生(相互扶助・共存共栄)は進化発展の大原則】である。
9.唯物弁証法と唯心弁証法を止揚統一した心身一如の生命弁証法の
 必要性。
10.【生命現象の波動・螺旋性を重視】する。
 生命は肉体と精神の調和、自然は物質とエネルギーの不可分な一体で
 あり、そして自然も生命も絶えず★波動(リズム)と螺旋運動的な変
 化を周期的に繰り返している。

《形式論理》
1.固定的・静的・峻別的に考える。
  AはAでありBたりえない
2.【部分に捉われ、近視眼的】、また早急に判断をくだす。
3.生命弁証法的観方を否定又は無視する。
4.明確を尊び、事物をはっきりと峻別し、AからBへの漠然とした
  中間移行型の存在を原則として認めようとしない。
5.【熱力学第2法則(エントロピー増大の法則)を遵守】し、
  時間の逆戻り、事象の繰り返しを原則として認めない。
6.量の蓄積によって質的転換が起きることを認めようとしない。
7.FD過程の存在を認めない。
8.進化の主要因を【弱肉強食主義】において考えている。
9.【唯物形式論理を重視】している。
10.【生命現象の波動・螺旋性に無関心】。

このように現代の自然科学者たちは、自然の事象を静的かつ分析的に考え、さらに物理学の法則をそのまま生命体に適用しています。生命現象という流転を続ける対象に対する機械論的思考が現代医学・生物学の重大な誤りを召致した大きな要因といわざるを得ません。

たっぴ 

2012年11月14日 (水)

生命は自然現象の中にリズムを見出し、受け継いできた

私たちは互いにリズムが合った時、なんとも言えない心地よい感情が沸き起こります。それは人間には共感機能=同化回路があるからだと考えていましたが、(もちろんそれは正しいですが)それだけでは説明できない生命としての根源的な共鳴を感じているのかもしれません。
あらゆる自然現象は波=リズムを持っており、私たちは進化する過程で、自然現象の中に呼吸のリズム、心臓のリズム、生殖のリズム、脳のリズム等を見出してきました。
「リズムが合う」というのは、生命が太古の昔から受け継いできた「振動する身体」を今を生きる仲間同士で確かめ合っている瞬間なのかもしれません。


未来部族「心臓の鼓動と生命リズム」より引用
リンク

***

なぜゴアトランスのレイヴパーティーでかかる音楽は、どれも同じような120BPM(1分間の拍数)前後の単調な四つ打ちリズムなのか。これには深い理由があると僕は思っている。リズムには特別な力があるのだ。
 アフリカのパーカッショニストなどはよく「太鼓は心臓の鼓動だ」と言う。胎児は10か月の間母親の胎内で心音に包まれ羊水に浮かんでまどろみ続け、オギャーと生まれる。生まれたばかりの赤ん坊は心音を聞かせると安らぐというし、コインロッカーベイビーズ(村上龍の名作)のキクとハシという少年は、やはりその心音を原記憶として持ち続けた。心臓の鼓動は僕らが生きている証であり、太鼓の音はその原記憶を呼び覚ますのだ。そしてゴアトランスのドラムのスピードは我々の心拍数にも近い。
 シャーマンたち(特に北米やユーラシア大陸)が太鼓を、変性意識に入って精霊の世界に赴くための「乗り物」にするということももちろん忘れてはならない。しかもそのリズムは、やはり100~120BPMくらいなのだ。

追記)BPM=Beat per Minutes
 
 日本の解剖学者で三木成夫という人がいる。彼はずっとヒトの胎児の成長を研究していて、「胎児の世界」(中公新書)というすごい本を書いた。「個体発生は系統発生を反復する」という有名な言葉があるが、それを彼は自分の眼で確認していった。受精卵から発生した胎児の成長の過程を見ていると、36億年にわたる生命の進化、つまりエラを持った魚類がやがて陸に上がり、爬虫類から哺乳類へと変わっていく過程がすべて面影として見いだせることに彼は心底驚嘆している。
 
 そして三木さんは、心臓と循環する血管系を持った動物がどのようにして生まれたのか、さらにいかにして陸に上がり、ついにヒトにまで至ったのかということを考えてゆく。それをきちんと説明すると長くなるので興味のある方は本を読んでいただきたいが、ここで三木さんの話を持ち出したのは、彼が生命にとっての「リズム」の重要性を強調しているからなのだ。ちょっと引用しよう。

「すべて生物現象には『波』がある・・・ギリシアの哲人ヘラクレイトスは『万物流転』といった。森羅万象はリズムをもつの謂である。ドイツの生の哲学者ルードヴィヒ・クラーゲスは、このリズムを水波に譬え、その波形のなめらかな『更新』のなかに、機械運動の『反復』とは一線を画したリズムの本質を見出し、やがてそこから『分節性』と『双極性』の二大性格を導き出すのである。」
「以上で森羅万象を貫くリズムの本質が明らかとなった。そこでは『生物リズム』と『四大リズム』の二群に分けてこれを見たが、この両者はどのように関係しているのであろう。
 生物リズムには、大小さまざまが識別された。『生』を告げる身近な心臓の鼓動と呼吸の波動を中心に、小は細胞の波から、日常の睡眠と覚醒、季節的な活動と休息の波を経て、大は種の興亡の波にまでそれは及ぶ。これらの無数の波のなかで食と性のそれが『生の原波動』-『いのちの波』としてここではとりあげられた。
 四大リズムには、極小から極大に至る膨大な規模が・・・『水波』を中心に『光波』『電波』『音波』から、日常の昼と夜、春夏秋冬の交替、地殻の変動、氷河期のくり返しなどがあげられた。これらはすべて素粒子から宇宙球まで各種の球体の螺旋運動によって生じるものであり、自転しながら太陽のまわりを公転する地球の螺旋運動が生み出した日リズムと年リズムがその典型とみなされた。」
「こうして生物リズムを代表する食と性の波は、四大リズムを代表する太陽系のもろもろの波に乗って無理なく流れ、両者は完全に融け合って、一つの大きなハーモニーをかもし出す。まさに『宇宙交響』の名にふさわしいものであろう。」

 考えてみれば僕らが「生きている」ということは、様々なリズムを絶え間なく刻みつづけている、ということだ。海から陸に上がった記憶を内包した呼吸のリズム、植物から動物になって以来続いてきた心臓のリズム。脳神経系にも脳波のリズムがあるし、女性には月のリズムがある。昼と夜のサーカディアン(日周)リズム。そして世代をつなぐ誕生-生長-生殖-死のリズム。僕らがリズムに合わせてゆっさゆっさカラダを動かすことで悦びを感じるのは、たぶんこうした「振動する身体」である僕ら自身の内なるリズムが活性化され、さらに他の仲間とそれを共有し共振することがよろこばしいからなのだ。

(引用終わり)

2012年11月12日 (月)

脳波いろいろ

シャーマンがトランス状態に入っている時、脳内ではシータ波やデルタ波など低周波が出ているといわれています。
どんな波なのでしょうか?

「變性意識へダイブする シータ波と云ふ腦波そして其れを司る海馬」
阿修羅より引用
リンク
****
現在、脳波の解析により、脳波についてはここまで分かってきています。

■γ(ガンマ)波:30Hz~
怒り・不安などでの興奮状態

■β(ベータ)波: 13~30Hz
左脳が全開の「高意識」状態、普通人の意識の活動領域

■α波(α3): 11~13Hz 
ややリラックスした状態、落ち着いた人の意識の活動領域

■α波(α2): 9~11Hz 
心身共にリラックスしていながら自己の能力を最大限発揮できる右脳全開状態、有名な棋士(きし)が将棋や囲碁をさしている瞬間、天才的プレーヤーの意識の活動領域

■α波(α1): 7~9Hz
リラックス うとうと 眠りかけ

■θ(シータ)波: 4~7Hz 
「低意識」状態で右脳が全開した状態、傾眠時(うつらうつら)、うたたね状態、ほぼ無意識

■δ(デルタ)波: ~4Hz 
深い眠りの状態

9~11Hz帯域のα波(α2)、通称「ミッドα」は日常世界での活動時には最大の効果がでる領域です。きっと松井も中田もイチローもこの領域利用の熟達者なのでしょうね。

この中では、願望実現インプットには4~7Hz帯域のθ波が有効そうです。
ほぼ無意識の「低意識」状態ならば、心理的ブロックに邪魔されずに、ダイレクトに潜在意識にインプットできそうだからです。そういえば、このことは過去記事「居眠り瞑想」にも書いていましたねぇ。この帯域はジュネさんのお墨付きだそうです(笑)。

脳波をいろいろ研究していくなかで、θ波はこんな時にも出ていることが分かってきました。
  
  ◎ 禅僧が座禅を組んでいる時
  ◎ ヨガの行者が瞑想している時
  ◎ 気功師が「気」を発している時
  ◎ 中国拳法の武術家が「発勁」をした瞬間
  ◎ 超能力者が超能力を発揮している時

どうもθ(シータ)波は、人間の隠された能力が発揮される意識領域のようです。

1950~60年代、東京大学医学部の平井富男教授により、30年以上(!)の座禅経験のある禅僧14名に対して座禅中の脳波変化の実験が行われましたが、その結果は.....

  ・座禅開始50秒後…前頭葉にきれいなアルファ波が発現
  ・座禅開始20分後…7~8Hzのシータ波が時々出現
(引用終わり)

2012年11月10日 (土)

富永仲基  ~江戸時代大坂で儒教・仏教・神道を批判した町人学者

富永仲基  ~江戸時代大坂で儒教・仏教・神道を批判した町人学者


富永仲基は江戸時代大坂の町人学者。懐徳堂(官許の学問所)の学風である合理主義・無鬼論の立場に立ち、儒教・仏教・神道を批判しました。


【生い立ち】

大坂の醤油醸造業・漬物商を営む家に懐徳堂の五同志の富永芳春(道明寺屋吉左衞門)の3男として生まれました。

懐徳堂で弟の富永定堅とともに三宅石庵に学びました。独特の大乗非仏説(法華経、般若経など、いわゆる大乗仏教の経典は釈迦の言行ではなく、後世の産物という主張)によって儒教を批判したため破門されたといわれいますが、これは富永を批判する仏教僧側からの主張であるので事実としては疑われています。その後田中桐江のもとで詩文を修め、また黄檗宗の仏典の研究に励みました。

元文3年24歳で、『翁の文』を著述、のち延亭2年仏教思想の批判的研究書『出定後語』を刊行、翌年32歳の若さで夭折しました。

富永仲基の説で、特筆すべき第一は‘加上’の考え方にあり、その根底に「善」があること、これが即ち聖と俗とを区別する根本であるとする点にあります。



【懐徳堂】

父の芳春は大坂の尼ケ崎町(現在の中央区今橋)で醤油醸造業を営んでいました。学問を好み、かねてより五井持軒や三宅石庵に師事していた芳春は、懐徳堂創設に当たって自らの隠居所をその敷地に提供し、道明寺屋の手代をその支配人に据えました。また、中井甃庵が懐徳堂を官許の学問所にするための出願に江戸に行くときは同行するなど、懐徳堂の創設と運営になみなみならぬ貢献をしています。当然、息子たちも懐徳堂で学ばせました。懐徳堂創設の年に10歳になっていた仲基は、2歳下の弟定堅(号は蘭皐)とともに懐徳堂で三宅石庵に学び始めました。

 

【加上説】

 仲基はごく若いときに『説蔽』【せつへい】と題する書を著しました。この書は今に伝わらないのですが、後に刊行された『翁の文』【おきなのふみ】によってその概略を知ることができます。彼の独創である「加上説」の理論で儒教を論ずる書でした。加上説とは、後代に生まれた学説はその正当性を示すために、必ず先発の学説を抜こうとして、より古い時代に起源を求め、複雑さを増すものだという考え方です。

 古代中国の春秋時代の人々が覇者の斉の桓公や晋の文公を尊んでいたので、孔子はその上に「加上」して、より古い時代の周の文王・武王・周公を尊崇の対象としました。孔子の後に登場した墨子は、文王・武王よりさらに古い禹を、そして墨子の後の孟子は禹より古い堯・舜を持ち出しました。次に楊朱や道家が黄帝を、許行が神農を言い出しました。つまり時代が下るほど、逆に説く内容は古代に遡ることになります。

 また、世子【せいし】が人の生まれつきの本性については善の人も悪の人もあると言い、告子【こくし】がもともと本性には善悪の別はないと言い、その後、孟子がすべての人の本性は善であるとする性善説を、さらに荀子がすべて悪であるとする性悪説を唱えたのは加上によるのであって、仁斎も徂徠もそれに気づかず末節を論じていると、仲基は批判しました。

 『説蔽』の論旨は儒教を誹謗したものではありませんが、当時の儒学者には孔子をおとしめる不遜なものと受け止められました。仲基はこの書が原因で石庵に破門されたといわれています。

上記は
ウィキペディア富永仲基リンク
懐徳堂とその周辺富永仲基 岸田知子 (78期・高野山大学教授)リンク
から一部引用しまとめました。

小澤紀夫

2012年11月 8日 (木)

西洋における自然観の変遷 ガリレイによってつくられデカルトによって正当化された機械論的自然観

プラトニズムによって教会権力を脱世俗化したブルジョアたちは、他方で、プラトニズム的な世界観=設計図によって自然も社会も秩序化=支配するというアイデアを科学者たちに徹底させて、自然を自分たちの利益追求に都合よく矮小化し、実験室の中で科学技術の開発に邁進させます。そして、用意周到にデカルトには科学的追求が神学に反するものではないという根拠までつくらせます。それが方法論序説なのです。

単なる「架空観念」でしかなかったプラトンの「イデア」も、聖俗分離によって「理想の社会秩序」を教会に押し付け、私権追求のための「設計図による自然の再秩序化=自然支配」という科学技術開発の正当化の理屈に矮小化されたたのです。この社会秩序課題を捨象し矮小化された「架空観念」によって科学は世俗にまみれて巨大な暴力装置を生み出すに至ったのです。

人類は観念を誤れば滅亡する、とはこのことです。

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ルネッサンス時代の哲学は再発見されたギリシア・ローマ時代の古典やアラビアの科学、ユダヤの神秘主義思想など、実に多様なものでしたが、少数の例外を除けば、有機体論的自然観をとっていました。ところがその少数の例外のうちにガリレイのように自然を数量的に見ようとする人たちがおりました。デカルトはこの人たちの考え方を受け継ぎ、それに存在論的基礎を与えることによって、有機体論的自然観とは対照的な機械論的自然観を確立することになるのです。

機械論的自然観はコペルニクスやケプラーによって準備されたものです。もっともコペルニクスの地動説は必ずしも観測的事実からの帰納だけによって得られたものではなく、むしろ古代ギリシアのピュタゴラス教団等に示唆されたものであり、そのため自然は単純性を好むという信条、宗教的な面を残していました。ケプラーも初期はそうした思弁的な立場で地動説を主張していたのですが、後年、実際の観測結果にもとづいて天体運動の法則を発見し、自然を専ら物質的に、そして専ら物質を量的関係に即してみる立場を確立しました。「物質あるところに幾何学がある」とか「宇宙は量に分与している」といった言葉に彼の立場が明確に見て取れます。

一方、力学の領域でもすでにダ・ヴィンチが経験の重要性とその経験的認識の結果に数学的表現を与えるべきことを強調し、力学こそ「数学的科学の楽園である」と主張していましたが、その方向をガリレイがいっそう徹底することになります。彼の根本思想は「自然という書物は数学的記号で書かれている」のだから、それを読み解くことこそが自然研究の目的だというところにあります。従って彼は、一方で感覚的経験を重視しながらも他方では思考によってその感覚的所与のうちに数学的に表現可能な量的関係をもとめることの重要性を力説します。そのためには自然を単に受動的に観察するだけでなく、実験という手段によって、こちらから能動的に自然に働きかけなくてはなりません。実験によって自然界を織りなす単純な要素を分析的に取り出すことを「分析的方法」と呼びます。そしてそれらを数学的計算によって相互に結合し、再び実験によって確かめます。これを「総合的方法」と呼んでいます。このように分析と総合というガリレイの方法によって、近代の数学的自然科学の方法論的基礎が確立されることになりました。

そしてこの方法の存在論的基礎づけの仕事をデカルトが果たすことになるのです。・・デカルトにとってのもうひとつの問題はこのような自然観ははたしてキリスト教の信仰に背馳しないかということでした。・・方法論的懐疑によって精神を肉体から浄化することはそのまま信仰の道に通ずることになりますし、むしろ機械論的自然観の方が望ましく思われたからです。

※木田元 「反哲学史」より引用

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山澤貴志

2012年11月 6日 (火)

西洋における自然観の変遷 ローマ国教となったキリスト教の体系化に使われたプラトニズム

プラトンが提唱した「イデア=秩序の設計図」があって自然も社会もあるとする見方は、ローマン・カソリック教会がローマ帝国の国教になると、キリスト教の体系化のために使われることになりました。キリスト教は世界はキリストによって無からの創造されたとする創造説をとりますが、プラトンが提唱した「イデア=秩序の設計図」を書いたのが神であると解釈することで、ギリシア哲学的素養のあるローマ市民へのキリスト教の浸透を図ったのでした。こうして西洋に固有なはじめに(神が創った)設計図があって、そこから自然も社会も作られ発展していくのだという創造論的=宿命論的な進化論をともなった自然観が大衆的にも定着していくことになったのです。

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やがて4世紀末テオデシウス皇帝のもとでキリスト教がローマの国教として認められるにいたる前後、ローマンカトリック教会は急速にその教義体系を整備しなければなりませんでした。というのも高度にギリシア哲学的教養を身につけたローマ帝国の市民に布教するためには彼らを納得させるに足るだけの理論的基礎付けが必要だったからです。その際、プラトンやアリストテレスの哲学が有力な下敷きとして使われたわけです。その大成者はアウグスティヌスですが、彼は新プラトン主義を経由したプラトン哲学を下敷きにしてこの仕事をやってのけたのです。そこでは、プラトンの制作的世界観が世界創造論を基礎づけ、イデアにかわってキリスト教的な人格神(イデアは神の理性に内在する観念と考えられる)が形而上学的原理として立てられることになります。

こうしてプラトン主義はキリスト教の信仰と結びついて、文化形成の原動力として現実的有効性を発揮していくのです。

※木田元 「反哲学史」より引用

山澤貴志

2012年11月 4日 (日)

人類を救うのは近現代の科学ではなく、カタカムナ(原始人類)の自然認識です

「科学しか今の人類を救うことはできない」リンクと提起されていますが、近代~現代科学では人類を救うことはできないと考えています。

ブログ『日本を守るのに右も左もない』リンクで、その理由(近代科学の問題性)も明らかにされています。

「近代科学の史的総括1~市場拡大とともに自我肥大し、自然を支配(破壊)してきた近代科学」リンク
「近代科学の史的総括2~金貸し主導の戦争→国家プロジェクトの手先となり、アホ化した科学者たち」リンク
「近代科学の成立過程3~近代の科学者は金貸しの手先だった」リンク
といった一連の記事の中で、
①市場拡大とともに自我肥大し、私権拡大のために地球からの収奪を目的として自然を支配(破壊)してきたのが近代科学であること、
②金貸し主導の戦争→国家プロジェクトの手先となった科学者たちはアホ化していったこと。
③ニュートンをはじめとする近代の科学者たちが金貸しの手先であること
などが明らかにされています

近代社会を導いてきた両輪は近代思想と近代科学であり、共に自我私権の落とし子(兄弟)です。現代科学もその延長(発展形)にすぎません。
そして、現代社会が閉塞し崩壊の危機に瀕している、その元凶が近代思想(哲学)であることは言うまでもありませんが、それと同じく、地球破壊の元凶が近代~現代科学であると云っても差し支えないと思います。

人類社会を崩壊の危機に追い込んだ近代思想の兄弟である近代~現代科学が、人類を救うことは有り得ないと思います。また、金貸しの利権拡大のために地球からの収奪を目的に発達してきた近代~現代科学が地球を救うことも全く期待できません。

「近代科学の成立過程1~近代思想との関係構造を解明する」リンクで提起されていますが、科学認識も自我私権原理に基づく科学から自然の摂理に即した科学へのパラダイム転換を必要としています。

人類を救うことのできるのは自然の摂理に即した科学であり、そのヒントがカタカムナ人、即ち、人類の観念機能の原点である精霊信仰を生み出した原始人類の自然認識にあるはずです。

ブログ『日本を守るのに右も左もない』「カタカムナに学ぶ」シリーズリンクは、『るいネット』にも掲載されています。それを御一読いただければと思います。

冨田彰男

2012年11月 2日 (金)

分身主義を提起します

 ところで、最近の言い逃れの様な「相手の尊重」という個人主義の言い分ですが、いったい大切なのは自分なのでしょうか?相手なのでしょうか?それとも自分と相手がイコールの比重を持つのでしょうか?もし、自分と相手がイコールの比重を持つとすれば、その主体はもはや自我では在り得ず、(当然、個人という観念も消えて)全く新しい概念が必要になりますが、それは何なのでしょうか?

個人主義に代わる全く新しい概念として、私はここるいネットに「分身主義」というものを提起します!

るいネットでは、個人主義やその核心を成す自我というものがどうやら社会を良くできない原因であると気づいている人たちが多いようです

だからと言って「じゃあ、みなさん個人主義をやめましょう!」などと呼びかけてもどうなるものでもありません。「個人主義」などというものは、そもそも動物の中で唯一自我を持ってしまった我々人類が、自分の行動パターンを正当化するための詭弁でしかないからです。自我という観念が自分の中心にどっかりと居座っている以上、誰もが自分中心に世界を見ますし、自分が一番大事です。そこから出てくる行動パターンはみんな似たり寄ったりです。

だから個人主義という正当化をしなければならなかった人たちは、うまい言い逃れでも作らない限り、自分の行動に対して肯定できないものをどこかに感じている、むしろ倫理的な意識の高い人たちとも言えるのではないでしょうか? 

・個人主義は自分勝手とは違い、一人一人の個人を尊重する思想である。
・一人一人かけがえのない存在であり、その個性を尊重する思想である。
・だから、自分だけでなく、他人も一個人として尊重するものである。
・他人に依存しない、真に自立した生き方を目指すものである。

魅力的な方便を作り上げたものです。この方便のうまいところは、「個人主義は私のことも尊重してくれるんだ」と思わせてくれるところです。自我という観念に取りつかれた我々の脳をうっとりさせてくれます。しかし、自我という観念に取りつかれた我々の脳が関心があるのは自分だけであり、他人への「無関心」を「尊重」と言い換えているだけです。その反対の、他人への「関心」や他人への「愛」も、煎じつめれば「自分への関心」や「自分への愛」が変化したものでしかありません。
その証拠に、他人に注ぐ関心や愛も、相手が関心や愛を自分に返してくれなかった場合、激しい憎しみに変化してしまいます。
それに自立などと言っていますが、この社会で成功して自立していると言われている人をよく見てみれば、実は他人の力を借りるのがうまい人たちで、彼らこそ他人に依存して生きているということがわかります。身障者と言われる人たちがなかなか自立できないのは、彼らが他人に依存しないで生きなければいけないというような固定観念を小さい時から植え付けられているからです。

こんな脳を持つ我々人類が、社会を良くできないのは当然のことです。
では人類がそこから抜け出すためにはどうしたらいいのか?

私は「科学」がそのカギを握っていると考えます。
現代科学では、我々の自我とは、神経系(脳や脊髄の中枢神経と、全身に張り巡らされた感覚神経・運動神経・自律神経などの末梢神経の総称)が見ていた全くの錯覚だったとわかっています。現代科学が解明しているものをつなぎ合わせて整理していくと、「自分」とは、かっちりとした境界線を持って孤立的に存在できるようなものでは全くなく、また自由な意志で行動することなど一瞬たりともできる存在でもなかったことがわかってきます。

その科学が解明している事実を、人類の脳に上書きすることができれば、自ずと今までの内側に向いていた自我が、外に開かれたものとなり、みんながつながり、行動パターンも社会を良くするものに変化するはずです。その科学が解明している事実を整理してたどり着いた視点に対して、私は「分身主義」と名づけました。


分身主義というのは、2003年5月13日に、私が名づけたものですが、その説明をさせていただきます。
まず、「○○主義」と言っても、個人主義に対抗して「分身主義」と名づけただけの話で、別に主義でも主張でも、まして思想でも何でもありません。また、個人主義に対抗してと書きましたが、個人主義を否定するものではなく、結果的にはむしろそれが拡大されることでその欠点を乗り越えたものです。今までの自我を修行などを通して滅却させるのではなく、自我が拡大したことで、今までの自我が自然消滅するというパラドックスが起こります。
内実は、科学の解明している事実をつなぎ合わせて自分探しをして行った先に見た、真実の自分の姿のことです。そしてその自分が見る視点(思想ではなく視点)が分身主義です。つまり、真の科学が見る視点のことです。その視点を世界中の人が持てるようになるために、一時的に必要とされた名前なので、もし世界中の人がその視点を持てた時には、分身主義などという紛らわしい言葉はなくなって欲しいと考えています。何故なら、主義でも主張でも思想でもない、単なる視点なのですから‥‥。

現代では、この宇宙は超高温高密度の小さなビッグバンから生まれたというのが大方の科学者の見方のようです。それが急膨張することで温度が下がり、その内部に存在している素粒子がくっついて、いろいろに組み合わせを変化させたり、リサイクルを繰り返したりしているだけで、物質を構成する原子の総数は、この宇宙の内部では決して増えもしないし減りもしない‥‥というのが現代科学の解明した宇宙の姿です。そんな宇宙の変化している過程で一時的に現れては消えている 「現象」 を私たちの神経系が捉えて、それを星や月や太陽や地球や、そして花や木やあなたや私と識別しているだけです。この宇宙に存在する私たちはみんな、素粒子が作り出す一時的な現象だったのです。だから、この宇宙に存在するあらゆるものは、元々はビッグバンから分かれた身(からだ)、つまり分身だと考えるのが分身主義の「分身」の意味です。

この意味が理解できれば、「私たちは、この宇宙の部分であり全体でもある」という分身主義特有の視点(真の科学の視点)も理解できるでしょう。

徳永真亜基

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