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2012年10月

2012年10月31日 (水)

事実追求のスタンス

私たちは、みんなが知っている限りの生物史学的な事実や、誰もが認められる分子生物学的な事実に立脚して、それらを整合させようとしています。従って、いわゆる専門家の合唱する「定説」や、学者の書物にかかれている主張が事実ならば事実として認めて、それら諸事実に立脚して整合性のある論理を組み立てていきます。

しかし、「これは定説である」とか、「これは事実である」と思わせぶりに言うだけで、定説の中身なり事実の中身を展開しようとしないケースがしばしば見受けられます。本来それが本当に事実なのかどうかは、説の中身の提示はもちろんのこと、その実験なり数値計算なりの仮定条件が正しいかどうかに関わってきます。ですから、「これは事実である」「証明されています」としか言わない人たちには、事実となる仮定条件を明示してほしいと思います。特に、実験なり検証なりの前提条件の提示が不可欠だと思います。あくまでもこういった事実に立脚して事実の認識体系を組み立てたい、と私は考えています。

吉国幹雄

2012年10月29日 (月)

アニミズム(精霊信仰)について

未開社会を見る場合、精霊信仰(アニミズム)の部族(or時代)と、守護神神話の部族(時代)はかなり様相が異なります。
 
 アニミズムは自然の諸力(万物)の背後に精霊を見た、ということになりますが,いわゆる融通無碍で、かつ自然対象のそれぞれ(例えば一つひとつの樹)の背景に精霊を見たわけですから、古代宗教特有の絶対的唯一性という性格は感じとれません。
 それに対して人格神や祖霊神の段階になってくるとアニミズム的性格を残しながらも、自部族を絶対化、(正統化)しようという意思が感じられ、これを広義のイデオロギーと見る見方が出来ると思います。しかし守護神神話は同じ未開民族でもかなり後期になって登場している様です。具体的には都市国家成立以前の部族間の戦闘の時代あるいは地域から登場した様です。地域にもよりますが約8000年前から5000年前。日本でも記紀登場以前はシャーマニズムの時代ですが、精霊の声を聴くという色彩が強く、記紀のような正統化、絶対化(のための観念)のベクトルはあまり感じられません。

北村浩司

2012年10月27日 (土)

線形と非線形の科学認識

線形と非線形を、正負のようなまるっきり正反対の概念として捕らえているのならば間違いだが、物事の認識の仕方という点ではかなり違うようだ。

学問の流れは、一般に、取り扱いやすい特殊な対象から、より一般的な対象へと普遍化が進む。

学問、なかでも近代科学は「デカルト的パラダイム」に立脚するところから始まり、対象をより細かな要素に還元して理解していくプロセスを経てきた。つまり、「要素還元主義」という方法論に立脚してきたようだ。要素(部分)を総和して、対象の全体像を認識してきた。

非線形に有効な一般理論というものはまだない。

明快なデカルト的方法論が好きな人には辛いが、非線形の科学には「繰り返し」という意味での法則性は存在しない。

「ニュートン力学に対する特殊相対論」や「古典力学から量子力学」の流れによって、「認識の相対性」や「未来の不確定性」が明らかにされつつあるようだ。現実には絶対的な法則は存在しないというのが、複雑系の認識だそうだ。つまり、線形という、ある意味非現実世界(数学的世界)であるほど法則が見出せてきた。

結局、今のところ線形の世界での知見が、非線形の世界を理解する手段となっている。非線形を理解するために、線形という道具が用いられる。

ここら辺が、複雑系の難しいところ。複雑系について記述する手段がまだない(?)。

しかし、複雑系の認識では、デカルト的パラダイムの方法論の先に、複雑系の方法論を求めているようでは複雑系を十分理解できないようだ。

線形の学問が出尽くしたがゆえに非線形にたどり着いたということは認識した方がよいであろう。

福田尚正

2012年10月25日 (木)

表層観念批判 宗教と日本人

宗教の問題は多岐に渡りますが、話が拡散しないように大事な点だけ「敢えて」指摘させていただきます。

>「神」や「宗教」の問題は決してあなたの考えるほど軽いものではありません。何らかの価値観・信念なくして人間は生きられないのです。

私は、「神」や「宗教」の問題を別に軽く考えているわけではありませんし、人間が共認動物であり、社会的動物である以上「何らかの価値観・信念なくして人間は生きられない」のは当然のことです。しかし、私が「敢えて」個人主義を「宗教」として断じ、イデオロギー(固定観念)の問題性を指摘したのは、宗教一般の問題として、
1.宗教は、現実の支配、差別、抑圧および戦争、犯罪、貧困などの社会的矛盾から逃避して、非現実の「あの世」に救いを求めるという逃避観念・幻想観念であり、そうであるが故に現実の社会的矛盾を根本的には解決できない。
2.そればかりでなく、宗教は、現実には失われてしまった「人間らしい」「本来の」価値を、頭の中だけの幻想観念として再現しようとする企てであるが故に、現実の必要以上に幻想観念を美化し、固定観念化する傾向を持つ。そうであるが故にその宗教的観念を正当化するために、他の観念を排斥し、異端視、差別、迫害などの新たな社会的矛盾を生み出す危険性を孕む。
という一般構造があるからです。

そして、個人主義が問題なのは、キリスト教やイスラム教、儒教や仏教などの古代宗教とはその置かれている歴史的背景が違うにも拘わらず、その事を自覚していないからです。古代宗教は、当時の絶対的な武力権力支配体制を背景としており、民衆にとっては、現実の支配、差別、抑圧および戦争、犯罪、貧困などの社会的矛盾はどうしようもないものであって、あの世に救いを求めるしかなかったという歴史的必然性において成立構造を理解する必要があると思います。
それに対して、個人主義は、中世の権力支配からの反動であったという歴史的必然性は認めるにせよ、現代においては、あの世という非現実の世界に救いを求める必然性は全くありません。むしろ、現代においては権力支配が無意味化した結果、現実の社会的矛盾を解決し、「連帯と共生」を現実のものとして実現してゆく可能性が開かれてきたと考えるべきだと思います。例えば、市民の政治参加やNPO・ボランティア団体のような社会貢献を志向する団体の増加とその草の根ネットワーク化など、「連帯と共生」を目指す人々の意識は、大きな潮流となりつつあります。

その意味では、観念の収束対象を非現実から現実へと転換させるべき時に来ているのだと思います。単に「人間の尊厳」という表層観念を繰り返すのではなく、現実の社会的矛盾の原因構造を“必然的な構造において洞察し”、「本来の、人間らしい」価値の実現の可能性を理論的に追求してゆくというのが、今我々に求められていることであると思います。
ですからこの意味からも、可能性が開かれているにも拘わらず、宗教と同じ認識構造・論理構造に安住し、「個人」「尊厳」というお題目を唱えるだけの「個人教」は単なる観念論として批判されなければならないのです。

>日本人は無信仰だとよく言われますが、私はそれは必ずしもほめられたものだと思いません。

長くなりますので、簡単に留めておきますが、日本人が無信仰なのは、西洋に比べて権力支配が比較的緩やかであったために、西洋人ほど絶対的な救いの観念を必要としなかったからであって、排他的・攻撃的観念を絶対化しなかったという点においてはむしろほめられていいものです。(これは古来からの日本人の精神的伝統であって、決して、江戸時代につくられたものではありません。)
日本人の伝統的精神に従えば、頼るべき「何らかの価値観・信念」とは、「人と神」あるいは「人と個人」のような絶対観念ではなく、あくまで「人と人」との間にある「間柄的価値」なのであって、そのような「間柄的価値」によって自らを律してゆくというのが、日本人にふさわしい精神的な在り方なのです。
その意味からも、単なる表層観念にしか過ぎない「個人教」は日本人には不要なのです。

雪竹恭一

2012年10月23日 (火)

認識機能は何のためにあるのか

実現論の最初に「進化積層体」という表現がありますが、生物は常に初めての状況に、まずそれまでの蓄積を基に対応し、それでもダメなら他の手を試す、そのようにして新たな対応能力を獲得していきます。
不変の「確定的な基準」などあれば、それは固定観念そのもので、状況に対応するためにはマイナスでしかないでしょう。

人間(生物)の認識で確定的などということはありえなません。あらゆる生物は、その生物の感覚機能をフルに使って、適応にとって役立つ情報だけを、情報として意味付けして、状況を認識しています(状況全てを認識できるわけではないし、純粋客観的認識などあり得ない)。人間だけが特別ということはないでしょう。

認識機能は何のためにあるのか?
私なら、適応していくためと答えます。
人間なら、現実の課題というものに応えるためです。

その認識が役に立つかどうか、危機からの脱出に一歩でも貢献できるかどうかが最も重要だと思います(それ以外の認識、例えば「私とは誰なのか」といったような疑問も含まれるでしょうが、それらは生存や危機脱出にとって何の意味もないと思われます)。

科学的・客観的であるかどうか、確定的であるかどうか、そのようなことを、最重要事項として問題にするのは、少なくとも本末転倒でしょう。

「閉塞状況突破」という“現実課題”のための認識なので、当然現実の圧力の中で問題点は発掘され洗練されていき、それが積み重ねられて高度化していく。実は、あたりまえのことで、固定観念以外のいかなる認識にもあてはまっているのですが。実現論の中身の高度化も、そのようにして行われていくでしょう。

蘆原健吾

2012年10月21日 (日)

「共認」という概念

>「共認」とはむしろ「間主観的」なものであって、それは「客観的事実」をつめるというプロセスによって達成されると言うよりは、多くの主観の相互作用の中で不確定的に収束していくもの

という一節は、私自身の理解と近いのではないかと思っています。事実の探究によって共認に至るのではなく、共認を形成する努力の連続の中で、認識の偏りを削ぎ落とし事実に迫っていく、我々が目指し得る有効な「事実認識」とはそのようなものではないでしょうか。
 ただそれを、敢えて「不確定的」と呼ぶのはいかがかと思います。言外に≪確定的なもののみが信用に足る≫といった含みがあるからです。

 それからやや細かくなりますが、「間主観」「主観の相互作用」という場合、他から独立した「主観」というものを認識の単位として置き、お互い自立的に作用し合う関係の在り方、といった前提とイメージに立っているように観じます。
 そのように自立的・独立的な主体として振る舞うのは、本能行動の際ぐらいではないかと思います。人間が沈思黙考する場合はこれに近い感じがしますが、個的な思考でも多くの場合、「誰某ならどう考えるだろうか」など対話的過程が不意に介在します。「耳を傾け心を通わせる」ことによって気付く、閃くというのは人間にとってかなり基底的な認識形態ではないでしょうか。何かを伝える際に(論理よりも)ストーリー性が有効な場合が多いのも、このような認識の構造を顕わしているように思います。
 それは、例えば≪個別の主観と主観が関わり合うことで、それぞれに影響を与え合う≫というような言葉では、説明し尽せないことでしょう。≪耳を傾け合う中で、どちらが言い出すともなく全く新たな、しかも同じ発想や心境が自ずと湧き、醸成されていく≫、そしてそのこと自体が≪お互いの心情を同時に、同一の感覚で満たし合う働きをもたらす≫ものではないかと思います(全く、うまく表現できませんが、感覚的には判って戴けるでしょうか)。

 独立の主観が認識の単位ではなく、関わり合いの「場」こそが認識の単位であるという視点、これが「共認」という概念の提示するものではなかろうか、と考えるのですがいかがでしょう。感覚的には誰でも把握できるが、そのことを端的に伝える言葉はなかなか見当たらない――『実現論』が敢えて「共認」なる造語を行った理由は、こんなところにあるのではないでしょうか。
 もちろん、『実現論』が社会的認知を得ていない現在、yamazaki56さんが挙げられた「間主観的」などの言葉は、『実現論』を読んだり議論したりを経ていない一般の人々に、その趣旨を伝える上で受け容れられやすい説明として有効だと思いますし、これを否定、反論しようとしている訳ではありませんので、ご諒解下さい。

今井靖明

2012年10月19日 (金)

「科学的事実」というドグマ

>科学というのは、実際の実験・観察データを元にしてしか語れない、語ってはいけないものであり、非常に厳密なものです。その根本は懐疑主義であり、疑って疑って、それでも疑って、最後にどう考えても疑い切れぬ残ったものを、科学的事実とみなします。そうした目でみたとき、実現論の内容はかなり問題があるのではないか、というのが正直な感想です。<

 私は、理論とか観念はあくまでも現実の課題に応えるためにあると考えています。だから、現実の問題に関わらないような議論には興味はありません。

 そして現在、人類にとっての最大の課題は、「この行き詰まった現実をどうすべきか」を考えることだと思います。
 そのためには、使えるものは総動員して可能性を探る必要があります。

 「実験・観察のデータを元にしてしか語れない」というのであれば、社会や歴史、進化について考えることは出来ません。
 また研究室では全く同じ自然は再現出来ません。あくまで、人工的な限定付きの事実でしかありません。「非常に厳密な」「科学的事実」なるものは、じつは非現実空間での「特殊限定事実」に過ぎないのです。
 さらに、実験できない私のような普通に働いている人は発言できないことになります。

 それは学者という特権的な身分を守るためのドグマに過ぎないのではないでしょうか。
 しかも、現在の学者たちが「考えることを職業とする特権階級」にありながら、実証主義を言い訳にして、「現実のこの差し迫った問題」を考えないでいるとしたら、おかしいのではないでしょうか。
 常識的に言って、普通の人は日々の仕事を通して社会や周りの人々の役に立っています。仕事とはそういうものであったはずです。
 彼らは何のために、研究をしているのでしょうか。

 現実の問題を乗り越えるために、人類や人類社会の成立の構造の解明が必要です。
 今必要なものは「厳密な科学的事実」ではなく、論理整合性によって、全体を説明できる理論なのです。
 そして、実現論は、私たちが知りうる限りの事実に立脚してそれを構築しようとしています。

 確かに実現論は私たちの現在の常識から見ると新奇に見えることも多いです。しかし、具体的な指摘を行わないまま、詰まらない理屈をつけて、中身のない抽象的な批判を繰り返すだけでは、現実の問題から遠ざかるばかりではないでしょうか。

 現状が差し迫っており、既存の常識を疑うことが必要な状況であることに同意いただけるのなら、やはり具体的な事実をもって一つずつ指摘して頂けたらと思います。

 私たちは、学者のように特権的な身分でもって、観念遊びをしているのではありません。現実を生きるために考えているのです。そのことを忘れないで下さい。

玉川泰行

2012年10月17日 (水)

宗教の認識論と近代思想

宗教及び近代思想の一つの特徴はその「あるべき世界」を理念として掲げることにあります。哲学用語的に言えば「当為」=「○○たるべき」という認識手法です。
さて何故「当為」の世界が必要になったか?は中々難しい問題ですが、おそらく歴史的には現実世界の可能性の閉塞から来ている認識論なのではないか?と思います。

つまり現実の世界を動かす可能性が封じ込められているので、非現実の当為の観念に立脚したということなのでは無いでしょうか?

この認識論はもともと近代思想の発明ではありません。西欧の宗教以来の認識論です。
つまり現実世界は身分制度や絶対権力によって、一切の可能性を封印されていた。しかし人間は精神的存在です。本来の人間の可能性やあり様を「神の世界」に置きそれで意識を統合しようとした。宗教の基盤と意義はそのあたりにあったのではないかと思います。

近代思想はいわばその神の世界の位置に「人間」をとって代えた。代えた理由はおそらく身分制度の桎梏から解き放たれ、市場での経済的利益の追求の「自由」が生まれ、少なくとも現実の可能性が半分開けたからではないかと思います(ただし利益競争や出世競争を担う「個人」として)。
しかも宗教が持っていた生活規範(超越規範)としての側面も剥奪し文字どおり私的欲望の主体としてのみ個人を解放したのです。

ただしついこの間までは、資本の「力の論理」によって相変わらず半分は現実の可能性は封印されていました。だからこそ現実の「力」に対して「当為」を持出すしかなかったというのが一つの解釈だと思います。

しかしこの観点で見れば、これは対抗手段としての見果てぬ夢です。
それだけではなく既にこの倒錯の一人歩きによる弊害の方が強まってきました。
このような理念=スローガンに代わる「事実の認識」への転換が要求されている時代が既に到来しているのでは無いかと思います。

北村浩司

2012年10月15日 (月)

個人主義は抑圧からの反動にすぎない

近代個人主義は、権力支配の抑圧から大衆を解放する(そして大衆の欲望を導きの糸として、大衆消費社会を実現する)役割を果たしましたし、それによって「自由」で「豊かな」社会が実現されました。

しかし、私は個人主義はその歴史的役割を終えたと考えています。本質的には個人主義は権力支配の抑圧に対する反動でしかなかったからです。
よく考えてみて欲しいのですが、現代の日本の社会において「自由」や「人権」を抑圧するものがどれだけあるのでしょうか?国家も企業も学校も「自由」や「人権」という観念を持ち出されたら何も反論できず、びびってしまってご機嫌をとるしかありません。かつての権力支配の抑圧なんてものは誰もできる力はありませんし、今や力関係は圧倒的に集団よりも個人の方が上であるというのが事実です。「自由」や「人権」を振りかざせば、黙らざるを得ないというのは、逆の意味でファシズムであると言ってもいいくらいです。
とにかく、元々は抑圧にたいするアンチの思想でしかなかった個人主義思想が、それくらい強い社会の支配的な思想になってしまったというのが最近までの日本の思想状況でしょう。そして、抑圧の対象である、権力支配が力を失ってゆくと、今度は個人主義思想そのものも輝きを失ってどうでもよいものになって、今や無思想が時代のムードとなっています。

問題は、その結果誰もまともに社会や集団のことを考えなくなってしまったことです。なにしろ集団は敵対物であり悪であるという固定観念に固まっており、個人の「自由」や「権利」を主張することが正義であるということを未だに固く信じ込んでいるわけですから、全体のことを考える人が少なくなってきたのは当然のことです。その結果が、政治的無関心・財政赤字の垂れ流しであり、企業の活力衰弱であり、学校の荒廃であり、家庭の空疎化であり、身勝手な若者の増大・凶悪犯罪の増加であることは、さんざん議論されている通りです。このままでは、日本は社会を担うリーダーがいなくなって滅亡してゆくでしょう。

勿論、現在も「差別」や「問題の集団的隠蔽」などの問題は残されているとは思いますが、これこそ旧き悪しき権力支配の組織原理(自我・力の論理による共認支配)によるものであって、「民主的な」共認の力で駆逐されなければならないものです。ところが、個人主義は原理的に権力支配と同根の自我・力の論理を原点にしているが故に、「対立」「差別」「問題の隠蔽」などを排除できません。「自立した個人」であれば、それらを排除できるというのは真っ赤な嘘であってペテンの論理です。現に「自立した個人」の集団である筈の欧米社会において、「差別」などの問題は決してなくなってはいません。今でも厳然とした階級社会であるという事実は全く変わっていません。個人主義を社会の統合観念とする以上、永遠に「差別」や「階級社会」「強者の論理による問題の隠蔽」などの問題はなくならないでしょう。

大事なことは、繰り返しますが、「自ら望む共認を確立してゆく自由」を取り戻すことです。(これこそ真の意味の自由であり、民主主義でしょう)そのために、集団をそのような可能性のある対象として捉えなおすことです。そのために集団を破壊する自我とそれを正当化する個人主義のペテンの論理を封鎖してゆくことです。

雪竹恭一

2012年10月13日 (土)

『我思う故に我あり』は否定思考の産物

自我こそ原点である」という個人主義思想の源流として私がまず思い浮かべるのは、デカルトの「我思う故に我あり(Cogito ergo sum)」です。
彼が用いた「方法的懐疑」とは、感覚によるあらゆる認識を否定していく思考方法のようですが、このような思考方法が、個人主義の思想的基盤ともいえるこの有名なテーゼを導き出したことは、この間の議論を踏まえて考えればしごく当然のことのように思われます。

「感覚による認識」とは、これまでの議論でいえば、言葉をもたないサルから人類に受け継がれた、本能及び共感、共認機能にあたる部分でしょう。

“経験や感覚はしばしば誤りをおかす”というのは決して誤りではありませんが、本能機能をはじめ、共感・共認機能は、生物として、社会動物としての人間の生存の導きとして脳回路上に現存しているのですから、これらを全否定することなど本来できる筈がないのです。

しかし彼は、これらの機能が生起させる感覚、感情を頭の中で徹底的に疑い、次々に否定していったのでしょう。そして、最後に残ったものが、“我”だというわけですが、この思考作業をもし本当に徹底的に行ったのだとしたら、その結果残るものは、原理的に“否定思考の主体”以外にはあり得ないでしょう。

つまり、彼が“理性”と思って使っていた脳回路は、実は「否定」をその主機能とする自我回路に他ならなかったのではないでしょうか。

田中素

2012年10月11日 (木)

宗教・近代哲学に関する分析

宗教・近代哲学・思想について考察してみた。

 私権社会は、強い自我を序列規範によって制御している。
 しかし「序列転覆」を謀れる可能性がある者などごく一部で、社会構成員の大半は、「自我」を抱えたままその「序列規範」に抗えないでいる。
 「序列規範に抗えない自我」はその序列規範を否定しながらも、一方で自己肯定・正当化の為の救いを求める。  
 これが「宗教」の発生過程であると私は考える。

 実現論によれば、都合の悪い現実=序列規範に抗えない現実であり、「現実に抗えない自我」は「現実を否定(捨象)」し、都合のよい「頭の中だけの価値」を対象化することによって、かろうじて自己の正当性を保つのである。
(補足であるが、現代の新興宗教にも同じ構造がみて取れる。 オウム真理教の幹部たちが、学歴社会という「序列」に収束した者たちの集まりであったのは興味深い。 彼らは、世俗の価値を超えた世界=オウムという宗教にのめり込むことで、「自分達は選ばれたものである」と信じ、自己の正当性を保とうとしたのである。)

 この「自我に都合のよい」宗教の構造は、「序列規範」の勝者である統合階級にとっても社会統合上「都合がよい」為、権力と結びつく。

 統合階級は、「宗教」を掲げることで「序列敗北者」達の目を現実から背け、「神」という頭の中だけの絶対者を対象化させることによって、逆説的に自らの正当性を保ち(神の前では皆平等)、よりその地位を磐石なものとしていたのである。
 これが中世の異常なまでの「宗教文化」を導いた主要因であると私は考える。

 近代に至り封建社会は「個人の自由」を掲げた近代思想のもとに倒れるのであるが、皮肉にも近代思想は宗教と「同じ構造」をなぞる。
 「個人は自由」と声高に叫ぶことで、実際は官僚や学者やマスコミ等の身分社会の勝者だけが「個人の自由」を謳歌し、彼らの支配観念一色に染めあげられて大衆の自由はなくなっていくとゆう現実から目を背けさせている。

 宗教の「神」と言う観念にかわり、新たに大衆の目を欺く役割を担ったのが「個人の自由」と言う観念であると言ったところか。

 このように考えてくると、いかに「宗教」や「近代思想」が「現実」を対象化していない都合の良い「幻想」(幻想観念)であり、詐欺性に満ちているかわかる。

西谷文宏

2012年10月 9日 (火)

事実についての議論

 私は科学とは実証主義のみに陥っても危険であるとは思いますが、実証主義は自然科学において極めて重要な態度であると思っています。

科学や認識はどこまでいっても漸進的なものであり、その意味でどんな説でも仮説といえてしまうものですが、その根拠の有無や、論理の整合性などによってその「確からしさ」は全く異なります。

 そのなかで現代科学がもっとも重要視している根拠として採用しているのが、実験や観察による裏付けであるということではないでしょうか。なぜなら、「科学」とは「世界」について述べたものであり、実験や観察とは、その「世界」に直接その正しさを問うものだからです。この態度はテーゼとしてあるというよりは、事実認識の方法として誰もが納得しているから受け入れられているということだと思います。

>「科学的に実証されたことのみ事実とすること」も決して皆で認められた事実には勝らない。

 ということには大きく疑問を持ちます。仮説であっても、皆が納得すれば、それを「事実」と呼んでしまおう、と取り決めて「事実」という言葉を使うのならば、そのグループの中でのみ通じる約束事として納得できないことはないですが、それは一般的な意味での「事実」とは全く違うということは念頭に置かないと危険ではないでしょうか? 「事実」ではなく、「共認事」とでも呼んだ方がよいように思います。

 実際のところ、馬場さんのような考え(皆が認めたことが事実になる)は、一般的な認識なのでしょうか? 他の方の投稿でも、「事実」は変わるものであるだとか、「事実」はそれが本当であるかどうかは重要でなく、役に立つものでなければならない、といった意見が多く、本来の「事実」の意味と大きく異なる認識をもたれているように思います。

 「事実」の定義や、その存在の真偽、ということになると、哲学的な議論に踏み込まねばならなくなりますが、一般的に使われている事実という言葉の指すものは、人間の思惑を超えてあるもので、変化したり、価値判断に左右されるものではありません。そもそも科学とはその意味での事実が存在することを前提としてなりたっているので、もしそうでないとしたら科学そのものを否定することになると思います。それでは実現論そのものを否定することにはならないでしょうか。

飯野均

2012年10月 7日 (日)

実現論への提案

 私は「科学」に非常に関心があり、そこでここの会議室に投稿しようと思ったわけですが、はじめのうちは、「実現論がトンデモであることをどうやって理解させようか」と頭をひねっておりました(失礼!)。しかし、実現論は学者ではない素人が皆でわいわいと作りあげていくものなんだなあ、と思ったとき、「叩き台」としては非常に優れているのではないか、と思えてきました。

 科学というのは、実際の実験・観察データを元にしてしか語れない、語ってはいけないものであり、非常に厳密なものです。その根本は懐疑主義であり、疑って疑って、それでも疑って、最後にどう考えても疑い切れぬ残ったものを、科学的事実とみなします。そうした目でみたとき、実現論の内容はかなり問題があるのではないか、というのが正直な感想です。

 ここまで言った以上は、その具体的箇所をあげる必要があるのでしょうが、今のところ最低限指摘しておきたいのは、記述内容に関して、<1・歴史的事実、一般的事実(とされていること)><2・文献、論文の内容><3・著者自身の推測、仮説>の三つを、区別して書く必要があるだろう、ということです。これを整理するだけでもかなり議論はスムーズになると思います。例えば、「ある科学者の考え」のように書いてある文章の出所を指摘できなければ、それは実は著者が捏造した、科学を装った根拠のない説であることが判明するわけです。科学や認識はどこまでいっても暫定的なものだとは思いますが、その「確からしさ」にはピンからキリまでありますし、その根拠がなんなのか(=何を覆せばその反論になるのか)、ということがはっきりしているだけでも随分違うと思います。

 そこまでする必要があるのか、という反論を受けそうですが、私としては大有りだと思っています。なぜなら、実現論とは、「個々の即自的な観念を超えた、万人が認めることのできる事実だけの理論体系(=科学)によって、社会を統合し、導くための理論を作り、それを共認し、実践する」ものだからです(自分なりにまとめました。間違いが有れば御指摘下さい)。万人が認めるためには、万人にとって説得力をもたなければなりません。今のままでは、失礼を承知でいえば、単なるトンデモ本です。たとえ正しいことを言っていても、それが正当な手順(それは決して多数決ではありません)で導きだされたものであることが示されなければ受け入れられないでしょう。

 これとは別に、もう一点提案したいことがあります。実現論が科学を基盤とするならば、科学とはどのような性質を持ち、どのような限界を持つものなのか、ということに関して議論し、それを実現論に付け加える必要があると思います。私は、「科学とはどこまでも客観的視点のみを追求する」という部分においての限界を指摘したいと思います。
 私達は実際は主観的視点しか持てず、客観的視点はその一部であり、しかも仮定としかといえないものなのですから。実現論の中には、科学では説明できないものを科学的に説明しようとしている箇所がないでしょうか? 限界と危険性をよく認識してこそ、科学という道具はよく使いこなすことができるのではないでしょうか。

飯野均

2012年10月 5日 (金)

科学と社会

私は、科学の責任と科学の方向については、一人一人がじっくり考えないといけない問題と捉えています。一般の人々ももちろんですが、特に科学を目指す心ある人たちにも少しでも考えていただきたいと思います。すべてを一気に話し尽くせないかもしれませんが、その点はご了承ください。

1.進化論は人類社会をも説明できるものであるべき
私は、現在の社会・環境への適応態である私達人類、に繋がらない進化論は意味がないと考えています。進化は現在まで繋がっているのだから、当たり前であると思います。

2.生物は環境への淘汰適応態
環境との相互作用によって生物は淘汰適応していくという認識については、反論はないと思います。(適応の中身や淘汰の議論や方向性の議論は別途議論の余地がありますが)。このことは、生物が適応態であるかどうかは環境条件によって左右されるということですから、生物学(科学)はその条件を押さえるのは当然のことです。当然環境条件を押さえるとは、自然条件だけでなく他の集団や他の生物(種)との関係、個体間の関係つまりその生物が置かれている社会を対象化するということでしょう。共生進化論とか共進化とかという進化上の議論はまさにその一つの結果ではないでしょうか。最近議論の遡上に載ってきている形態進化の問題や自己組織化の問題も、それが置かれた場の影響を大きく受けるのではないでしょうか。

3.集団(種)の中にあってこそ生命
「生物とは」、「生命とは」の議論が現在進行中ですが、一個の個体を対象として研究したとしても生命現象を語るには不十分だと考えます。それは原生動物の生殖機能や粘菌の動き、あるいはそういう例を出すまでもなくヒト一人だけを取り出して、ヒトという生物を語ることができないというのは自明のことでしょう。まさに、集団の中にあってあるいは集団との関係を押さえることによって、初めて生物の機能や適応戦略が解明されるのです。つまり、集団(→社会)の議論を抜きにした進化論は欠陥品でしょう。

吉国幹雄

2012年10月 3日 (水)

人間が生きている現実に適応するための「知」の体系

理系の専門家に多い、「科学的に検証された事実」のみを絶対視する傾向について、私はこう思います。

「科学的な事実」とは、「いまのところ人間が知り得る限りでは」という限定付きの事実に過ぎません(それを否定するひとつの反証によって覆されます)。科学という方法論も含め、人間の認識にはある意味で本質的に限界はあると思います。

 本質的には、「科学的な事実」も「人間の五感で観察されうるものごとの全てを論理整合せ、常に精錬される仮説=事実」と同じことだと思います。

 違いは、「実験的あるいは数理的」な検証を経ているか、現実に直面する中でダイナミックに定義し直していく過程を繰り返そうとするかということだと思います。

 私は「事実とは仮説の体系である。」と考えています。

 人間が生きていくために、世界を理解する体系が、事実であり、それは何処までいっても厳密な意味では仮説でしかないでしょう。

 「実験的、統計的な事実」を絶対視することが正しいのでしょうか。むしろ、人間が生きている現実とそれに適応するための「知」をより重視するべきではないでしょうか。

玉川泰行

2012年10月 1日 (月)

専門家集団と事実

科学に関しての、あるいは事実に関しての議論は重要であり、遠回りのようでも避けて通るべきではないというのが私の考えです。事実を重視するということに関しての姿勢は、絶対にはずしてはいけないと考えています。

まず、誰もが認める現象や実験観察の結果を基礎事実として取り上げます。現象論の世界で事実を明らかにするという立場を第一に貫く必要があります。これは複雑系研究の場合のアプローチも同じでしょう。しかし、こここで確かに基礎事実といったとたんに既に二つの危険性を帯びてしまいます。

まず、その事実ですら、観察者の認識や考え方、さらにはそれに影響を与える背景としての社会的な思想によって左右される危険性があります。だから、徹底的に固定観念やイデオロギーを排除する必要があるのは言うまでもありません。

次に、逆の問題があります。それを事実と認めるその主体の問題があります。誰が認めるのかという認識されるカテゴリー(共同体社会)の問題があります。例えば専門家集団(専門家共同体)において認められた事実でも、つまり専門家が事実といっても実は一般人にとってはよく分からない場合があります。(例えば、素人がレントゲン写真で見せられて説明されてもそうですかとしかいえない)。つまり専門家の事実といっても、外界と専門家の眼とそして専門家の前提的知識との相互作用によって初めて「作り出されたもの」が多くあるでしょう。事実は専門家固有の理論(定説)によって作られる危険性すらあります。

つまり、専門家集団の認識と一般人社会の認識とがずれる危険性(複式構造)があるということ。とりわけ科学が「自然や社会など世界のある特定領域に限った法則的認識を目指す合理的知識の体系または探究の営み」であるならば、それは普遍性のある事実とは言えないでしょう。万人が知っている限りの知識に照らし合わせて整合しているという総合的な論理整合性こそが、専門分化された科学の独り善がりの独走を制御するものであると考えられます。

現在、私達はみんなが認める事実の体系を作ろうとしています。そのためには基礎事実が必要です。しかし、この事実そのものが極めて怪しいものが多いというのが、実感です。それゆえに、「基礎事実」(とりわけ実験や定説)の前提条件・前提認識を今まで以上に明らかにする必要があると考えます。前提条件が明らかにされ一般人が納得できるものは事実として進めていけばよいのではないでしょうか。

例えば、生物学においては、はっきりとこうだと言えるような基礎事実があまりに少ないようです。だから、少ない事実の中から整合する仮説を打ち出し、それを否定する基礎事実やより整合性の高い別の反対の仮説が登場しない限り、その仮説を正しいとして議論を進めていけばよいのではないでしょうか。

吉国幹雄

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