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2012年9月

2012年9月29日 (土)

問題は仮定条件

分子生物学的な発見によって、生物がミクロな部分で分かってきているのも事実です。それが本当に事実であれば取り入れて整合する論理を組み立てていくスタンスが大事だと思います。

しかし、実験室、飼育室での実験がどのような仮定条件でどのような観察実験がされたのかが重要ではないでしょうか。その仮定条件が現実(実際の自然条件)とかけ離れていれば、とても事実とは認められないということでしょうね。 

吉国幹雄

2012年9月27日 (木)

生命観 こう考えます。

私は、現在このように捉えています。もしかしたら、みなさんにとって当たり前すぎることだとも言いますが、笑っておつきあいください。

生命は環境の一部を構成している。それはお互いに影響を及ぼし合って存在している。

環境に存在する物質のほとんどは生物によって形成されているし、それら物質やエネルギーの循環をとおして、生物と環境は相互に影響を与えあっているのが現実です(一方的に自然が生物を選択するわけではありません)。

また、個体は生殖を可能とする集団(個体群)でニッチに存在しています。個体は個体によって構成される個体群に影響を与え、個体群は個体に影響を与えるという意味で不可分に存在しています。同じ文脈において、細胞は分かちがたく絶妙に関係し合って個体という単位をつくっています。細胞一個についても、細胞の外と中に存在するあらゆる分子の関係性の上に存在しています。

さらに、個体について突っ込めば、ある個体はある時間軸2点で切れば、厳密に言うと細胞も異なるし構成する原子も入れ替わっている。個が時間を通して一貫性をもって存在しているように見えるのは、個体全体の有機的な関係性を我々が「一貫したもの」として認知するからです(同語反復ですが)。

挙げればきりがないのですが、以上のようなことが、無数に複雑に関連して、その結果が生態系であり個体群であり、個体であり細胞なのです。この視点を忘れて、リニアーな単純モデル化して生物を捉えると、実態からずれるのは当然でしょう。近代の生物の捉え方は、やはり説明のための一つのツールとしての役割以上の物ではないといえると思います。

蘆原健吾

2012年9月25日 (火)

一面的な実験データやツールとしての定説に囚われていては事実を見誤る

実験をするためには、仮説を立てなければならない。実験は検証に過ぎない。仮説とは、それ以前の実験によって得られた事実や理論を論理的に考察することによって得られたものかもしれないし、あるいは観察的事実かもしれない。いずれにしても科学とは、最初に実験ありき、ではありません。

実験や観察で得られた事実とは言っても、実験の前提条件についての議論が有ったように、極めて一面的な結果しか示さない、あるいは限定的な環境下でしか行えないものがほとんどだと思います。比較的実験しやすいと思われる物理学でもそうですね。(ニュートン力学と特殊相対性理論の例を思い起こしていただければわかりやすいでしょうか。)

ニュートンの時代はニュートン力学こそが全てと思われたが、アインシュタインの時代はそれは事実の一断面に過ぎないことがわかってきた。実験や観察で得られた事実とはいっても、絶対不変のものではありません。したがって厳密に言えば、科学的事実とは、いつまで経っても仮説なのかもしれません。(むしろ我々が、絶対不変の事実、あるいは公理を信じようすることこそが問題なのかもしれませんね。)

しかし、仮説だから駄目だ無意味だ、ということには無論ならない。竹村さんは「精度の高い仮説」と仰っているが、むしろ、「より統合度の高い仮説」について論じることが事実を論じることであり、一面的な実験データやツールとしての定説にだけ囚われていては事実を見誤るのではないでしょうか。

鈴木隆史

2012年9月23日 (日)

事実の体系とは永遠に進化しつづけるもの

近代以来の科学の認識手法や、証明・実証などの方法論は、その体系の中では整合していると思います。単純な系に置きかえて近似値を求めたり、インビトローでの特殊な条件の下での実験などから導き出される事実は、現象のほんの一面です。だから、それには適用限界があり、優秀な科学者ほど科学というものが永遠に不完全である(永遠に変化し続ける)ということを知っているという事ではないでしょうか。

「科学とは本質的に、常に未完成な学問」という言葉がありますが、この言葉の意味するところはこういうことではないでしょうか。

本当の事実というのは近づくことは出来ても言語化すると実態とは必然的にずれる。しかし、その時の最大限の認識を持ち寄って一旦コンセンサスがとられる。しかし、それは移ろいゆくもので、新たな現象事実の発見や、新たな視点の提示、より整合性のある新仮説などが出てくれば、それまでの蓄積の上に塗り重ねられてゆく。

「事実の認識」とは永遠に一ところにとどまらない、しかしどんどん高度化していくものだと私は思います。科学もそのうちの一つです。柔軟性を失い固定化されたとたん、それはイデオロギーに変貌します。

定説をまるで完成された事実のごとく信じ、それとは異なることを言う人間を、頭から間違っていると決めつけるスタンスは、とても科学的認識とは言えないでしょう。

蘆原健吾

2012年9月21日 (金)

「事実」の定義

僕は「事実」というものを、「直接、間接的に検証された事柄」というイメージで認識していた時期がありました。

 が、その「事実」のもとになる「検証」の中身を(例えば、ある実験をイメージして)考えてみると、「検証」(実験)の前提となる設定条件の限定性、実験者の指向性(問題意識)等、案外曖昧な要素を前提にして成立しているものであることに気付きました。

 「検証」がその程度のものであれば、「事実」(狭義)=「人間の五感で観察されうるものごとの全て」、を論理整合させた仮説を「事実」(広義)と呼んでもおかしくない、むしろ「事実」とはそういうものではないか。

 仮説を「事実」と呼ぶことに抵抗があるかもしれませんが、それは我々が「事実」という言葉を固定化した、絶対的なイメージで捉える傾向があるからでしょう。実際はより精度の高い仮説が存在するだけなのに。

 より精度の高い仮説は、「事実」として認識すべきだと思います。そう定義しても、おかしな「事実」(=仮説)には必ず突っ込みが入り精錬されるでしょうから、誤った認識が定着する心配はありません。それは、おかしな(狭義の)「事実」(=例えば実験)に「その前提はなんぞや」と突っ込みが入るのと同じことです。

竹村誠一

2012年9月19日 (水)

怪しげな「検証」と、危なげな「定説」

>適応度にしても、進化速度にしても、分子時計にしても、全て便利で使いやすいように、現状をざっくりと把握しやすいように仮定を立てて数値化した、と考えられます。もともと、ざっくり把握するために「仮定」を置いているということを忘れて、公式のごとく使用するのは本末転倒だと思います。

 「そのように定義して計算すればそうなる」というだけだったり、「ある前提条件の範囲内で実証されたこと」を拡大適用するのは禁物でしょう。

林 茂生(国立遺伝学研究所系統生物研究センター)「進化発生学の光と闇」に以下のような一説がある。

>「個体発生は系統発生を繰り返す」という言葉に代表されるように進化の問題は発生学開明の当初から研究者の視野にあった。しかし実験発生学が隆盛を極めるにつれて進化の問題は実証的な証明が困難な事から研究の対象としては度外視されるようになってきた。

>私が大学院生であった1980年代の前半、正統的(?)発生学を修めた私の恩師が主宰する研究室では進化研究に目を向けることは御法度とされていた。駆け出しの大学院生がわずかな物証を想像でつなぎ合わせてセオリーを作り出すようなアブナイ道に走ってはならない、という至極もっともな親心からの配慮である。

 実証にかかわる二つの忠告には留意すべきですね。
進化を実証として再現することは不可能であり、実験や検証で明らかに出来るのは、人工的な擬似現実(それはもはや現実ではない)における極めて一面的、部分的な「事実」でしかない。
厳密にいえば、無数の要因が有機的に連関している現実から切り離された非現実空間における「事実」はもはや事実とは言えない、ということを忘れてはいけません。あえて言うなら、特殊限定事実 とでもいうべきでしょう。

 それを忘れて、安易な仮説を僅かな実験や検証でセオリーとして拡大し固定するのは、科学者の欺瞞的な危なさでしょう。まして、「再現・検証できないものは、一切、認めない 」などと言い出すに至っては、ほとんど犯罪行為ではないでしょうか。

石野潤

2012年9月17日 (月)

現状の「科学的事実」と言われているものの怪しさ

学生時代、研究室で実験系を組むときに、いかにすれば望み通り(仮説通り)の実験結果が得られるかに研究室のメンバー全員が(教授の指導を受けながら)知恵を絞って実験を繰り返している姿を見てきました。恣意的にほとんどのパラメーターを固定し、あるパラメーターのみを変動させる。極端に言うと、「自然」をたたいたりひっぱったりつねったりして望み通りの結果を吐き出させる、といった感じです。

プロの研究者もどうやら似たようなことをしているらしいことを知り、一学者が勝手に「定義」したものを信じるという事にすっかり逡巡するようになってしまいました。

また、現在「定説」といわれている説が、もしかして恣意的な大きな前提の上に成り立っているのではないかと、研究室を離れて外から見ると、あらためて思います。

だからと言って、認識を何も固定せずに議論は進められないのですが…


例えば、集団遺伝学や進化論でよく用いられる、「適応度」にしても、「進化速度」や「分子時計」にしても、全て、現状をざっくりと把握しやすいように仮定を立てて数値化し、便利で使いやすいようにしたもの、と考えられます。それはたしかに、自然を捉える際にそこそこ有用であり、対象に対する認識は深まったとは思います。しかし、もともと、ざっくり把握するために「仮定」を置いているということを忘れて、公式のごとく使用するのは本末転倒でしょう。

そもそも、生物も環境も複雑系です。線形の系として捉えて分かるのは、ごく一側面に過ぎないでしょう。

「線形の系」として安易に「定義」して安易に「検証」して、生物を分かったような気になるという時代は、もう終わりなのではないでしょうか。現在、科学は、非線形の系を説明する言語を模索している最中だというのが私の認識です。

だからこそ、現状の「生物学」において「事実」とか「定説」とか言われている物事を捉える際には、慎重でありたいわけです。

蘆原健吾

2012年9月15日 (土)

事実と共認について

イヌイットの「白」、日本人の「米」、アラブでの「駱駝」等、生活上の重要度で表現の種類も違ってくる事、要するにこれは文化でしょう。文化=事実という捉え方そのものに無理があります。

誰も事実として認識しなくても(誰も地球が丸いと知らなくても)事実は事実としてあるのです。そしてそれが文化や宗教・個人差によって消されこそすれ生み出されたものではないからこそ、「万人の」といえるのでしょう。音痴な人が絶対音感を認識できないように、自分個人が認識したものしか認められないという見方こそ、固定観念の始まりではないでしょうか。

中野恵


2012年9月13日 (木)

事実認識の限界について

>それとも、あくまで、「事実」認識という手段には限界が無いということなのでしょうか。

>限界はない、と思います。


白ワインって、どう見ても白ではなくてどちらかと言うと黄色に近い色ですよね。しかしそれがなぜ白ワインかというと、昔フランス語には白、赤、黒の3色しか色を認識する言葉がなかったそうです。そのためどんな色もその3色の中の最も近い色にふりわけられ、現在認識されている黄色という色は、「白」だと思われていたそうです。しかし実際、「事実」としてその3色では言い表せない色はあったわけで、そのような事実認識→事実の共認から、それ以外の色があるという認識が広がり、新しい色を表現する言葉も生まれ、今ではちゃんと他の色(緑や青やオレンジなんか)の認識がありますよね。(余談ですが、私は今、36色クレヨンセットを持っています)。

社会変革の手段としての事実認識は、必要最低限の基礎です。
また、ある事柄(例えば『世の中にあるものは3色だけでは語れない』こととか、『実現論』など)が、「事実」であるということは、「事実」以外のこと(『世界は白、赤、黒で成っているという認識』とか、『近代思想の価値観念』など)のみしか認識していなかった人々がいるわけです。そのような人々が事実を事実として受け入れ、そのような待ちわびていた「事実」を共認するのは当然のことだと思います。事実認識に限界がなかったことは、例えば今、フランス人の誰もがいろんな色を認識しているということで示しているのではないでしょうか。

事実というのは「創り出される」ものではないと思います。人類によって「創られる」事実なんていうものはあるのでしょうか。私は、事実は「突き詰めて行く」ものであると考えます。人によって創られ、万人によって「共認」されないものであるならば、それは「事実」と呼んではいけない気がします。

2012年9月11日 (火)

否定を超えて可能性基盤へ

我々は、単に個人主義という古いものを否定するだけにとどまるつもりはない。 我々は新しい可能性を探ろうとしているのだ。
 現在は個人とは、社会や全体から目をそむけ、諸要求や私的要求の対象としてしか社会を捉えず、ひたすら私生活に逃避していく性向を持った存在に過ぎない。しかし「人間は全くそんな情けない存在でしかあり得ないのだろうか?」
 現在の議論は、主体の中に、社会や集団全体を対象化する機能は普遍的に内在していないのか?あるとすればそれが発現される条件は?などを探る議論だと思う。 
 

 その点では社会構造の変化からの可能性と、人間存在からの可能性と双方からのアプロ-チが必要なことはいうまでもない。そして前者について一点だけ触れるとすれば、個人主義の社会的基盤は、市場社会化によって万人が私益追求の主体として「解放」されたことにある。しかし、現在先進国では貧困がほぼ消滅することによって私益的価値(金=貨幣価値や出世)が既に第2義化しつつある。
 そしてその結果今まで抑圧封鎖されていた、「人間らしさ」を求める欲求が急速に浮上してきた。現在は逆にそのこと自体が価値と旧秩序の混迷を生み、社会を迷走させているという負の側面も目立つ。
 この混迷はこのまま続くのか?今後私益的価値に代わって何が第一価値として浮上してくるのだろうか?
 現在は第一価値はおそらく私生活や趣味、あるいは家族や友人が並立している状態だろう。
 しかしそれらの中でも既に、個的生活の色彩が強いものから「仲間」的色彩の強いものに移行しつつある。現在若者の中で目立ち始めた、仲間を母体にしたベンチャーはその先端事例ではないだろうか。次の時代を読み解くキーワードは仲間への収束ではなかろうか。

北村浩司

2012年9月 9日 (日)

実現論の基礎となる知識について

実現論では、既存の学者やマスコミを厳しく批判しています。
 それは彼らが古い固定観念に縛られて、新しい変わりつつ現実を対象化出来ていないからです。

 しかし、私たちは専門の研究者ではありません。仕事の傍らでの勉強会ですから、新聞や書物などから入手できる中から、確かと思われる情報を、集めて議論するしかありません。

 私たちは様々な書物から、可能な限り学者の主観を除外して、まず確かな事実を探りました。足りないところは、論理的に補いながら、全体を整合させうるような新しい構造を、切り口を模索してきました。


 例えば、男女関係の問題について、私自身、現在の一夫一婦制に全く疑問など持ったことはありませんでした。しかし、現実の様々な問題を前にして、日本の婚姻史、世界婚姻史、未開部族の婚姻様式等を学ぶ中で、それは近代のごく限られた文化での固定観念に過ぎないことが判りました。
 さらにその実現基盤(本能の構造)を探るため、勉強会のテーマはサル社会、哺乳類一般へと進んで行ったのです。
 その過程は、事実と考えていたモノが、違ってたり、新たな事実が出てくれば、また、議論を重ね、認識を組み替えるといった行為の連続でした。

 このような過程を経て形成されたのが、実現論です。
 そして、現実を見るとき、現実に働きかけるとき、その認識が現実から遊離していないか、有効に機能しているか、常に検証を重ねつつ現在に至っています。
 
 確かに勉強会での、その形成過程を共有していない人には、理解が難しいところが多く、論自体もまだまだ未熟です。
 これからもっと開かれた議論を通して、改良・進化していくことが必要です。
 この掲示板での、皆さんの率直な意見や感想を期待しています。

玉川泰行

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