2019年4月21日 (日)

だから成功しない。出来ない理由を自分以外のせいにするダメ人間

だから成功しない。出来ない理由を自分以外のせいにするダメ人間
リンク)より転載

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■外部に理由を求めない

仕事に限らず、人生が好転しない人というのは、困難や障害や出来ない事の理由を外部に求める傾向が多いんですね。
•なんで出来てないの?
•やらなきゃダメだよね?
•頑張るって言ってたじゃん

と指摘すると、

 ●
○○の理由があるので難しい(出来ない)んです

って言うわけですよ。

その理由の部分を解決して、やり遂げるのがあんたの仕事なの。

それは難しいのです(出来ないのです)、と宣言することがあなたの仕事ではないはずなんですよ。出来るかどうかを調査してくれ、という仕事でない限りね。

ところが本人的には、出来ない理由が見つかったんだから、もうここから先は自分の仕事ではない、「だって○○なんだもん」と言い続けたら許してもらえる、認めてもらえる、やった事にしてもらえる、もしかしたら良く見つけたと褒めてもらえると思っているんですね。

ちなみにこれ、我が家の甥っ子もそっくりです。

何をやっても、最初の目論見通り上手く行くことなんてほとんどないどころが、おカネになる、自分の利益になる、評価される、感動するようなことって、ほとんど必ず、

 ●
ウワ!全然話が違うじゃん。どうやってやれって言うわけ?

ってくらい想定外の連続、困難の連続、失敗の連続なんですよ。当たり前ですよね。

こんなことは、成功した人の自伝とか評伝にはほぼ確実に書かれている事であって、今さら言われなくても分かってるよという人が大半だと思います。

では、それが分かった上で、その困難な状況を乗り越えたことがありますか?と訊かれたら、10人中8人は頭を掻くんじゃありませんかね。これこそが切ない現実なんですよね。

でも、だからこそ、これだけは早い段階でクリアしておくべきだと思いますよ。

こんなところで言い訳ばかり考えて逃げ回っていても、オトクなことなんて全くありませんから。

端的に言って出来ない理由は、そうやって逃げ回っているあなたのメンタリティにあるんです。この問題に逃げずに対峙して、絶対に解決させるのだと、意を決したらほとんどのことは成就するんですよ。人生なんてその程度のものなんです。

この経験を出来るだけ若い頃、出来れば20代が終わるまでにしておくべきだと思うんですよね。

 ●
もう30歳になってしまいました…

という人は、逃げまくった経験が積み重なっているはずですから、今目の前に厳然として存在する困難から目を背けずに、全力でぶつかってみることを強くオススメしますよ。

そのためには、

 ●
外部に理由を求めない

ということを自分自身に徹底させなきゃダメですよ。

 

 

 

紀伊谷高那

2019年4月20日 (土)

断捨離とは

リンク

断捨離ってどういう意味?

漢字の意味をたどるとなんとなくその意味が理解できるかもしれません。
 断捨離とは、「必要のないものを断ち、捨てて、執着することから離れる」という意味をあらわす整理法のひとつです。

いらないものを捨てて整理し、シンプルに生きようというような意味で、「ミニマリスト」や「最小限主義」と近い考え方です。

この考え方は、ヨガの考え方である「断行(だんぎょう)」、「捨行(しゃぎょう)」、「離行(りぎょう)」を応用したものだと言われています。だから「断捨離」なんですね。

『断』 : これから入ってくる不要なものを断つ(買わない)
『捨』 : いま持っている必要ないものを捨てる
『離』 : 物へ執着することから離れる(物欲をなくす)

この3つを実践することで、本当に必要なものだけしか持たないシンプルな暮らしができるようになります。

断捨離と断捨利の違い

一般に普及している言葉は『断舎利』ですが、一部では「断捨利」と表記されることがあります。
 漢字は違いますが、基本的な意味は同じです。

意味は同じなのに2つの漢字がある理由は、断捨離の第一人者である「やましたひでこ」さんにあります。

やましたひでこさんと断捨離

断捨離の考え方を広めた第一人者に「やましたひでこさん」という方がいます。
NHKのクローズアップ現代などで取材を受けたことで一躍有名になった方です。

この方が『断捨離』という言葉を商標登録したため、営利目的でこの言葉を使うことができなくなってしましまいた。
よって意味は同じでも、商標権の権利を回避する目的で、一部では「断捨利」を表記されています。

ちなみに、個人的な体験をブログに綴ったりする程度であれば、権利上の問題ありません。
 (以下、やましたさんのサイトからの引用)


◆「断捨離」および「クラターコンサルタント」は、やましたひでこの登録商標です。
 個人的な断捨離体験を語り発信するのは、ご自由です。
ただし、商業目的、営業目的が伴う「断捨離」「クラターコンサルタント」のご使用に際しては、明確厳格な基準を設けており、許可無く使用することはできません。

やましたひでこさんは、断捨離の他にも「クラターコンサルタント」という言葉を商標登録しています。
これは「暮らす」と「ガラクタ」を組み合わせた造語なんだそうです。

その他にも面白い言葉の使い方がいくつかあります。
断捨離をすること → ダンしゃる
断捨離している人のこと → ダンシャリアン

ここまでくるともう、新しい言葉の誕生と言えますね。

まとめ
断捨離は「だんしゃり」と読み、辞書にも載っている流行語
いらないものを捨てて物に対する執着をなくそうという考え方のことを指す

 

 

 

 

濱田健 

2019年4月19日 (金)

心と体は一体。自主管理・人材育成にも使える「心身一如」の考え

寒暖差が激しく、体調を崩しやすい・うつ病が発症しやすいといわれる春。心が先か、体が先かではなく、一体(一如)であるという考え方が大事。いつも心と体をセットで捉え、ケアしていく。
人材育成、自主管理、どちらにおいても重要な考えだと思います。

今回は、その「心身一如」という考え方について紹介。
ーーーーーーーーーー
仏教用語に『心身一如(しんしんいちにょ)』という言葉があります。
仏教の教えでは、生も死も、心も身も一体であるというのが根本思想です。
西洋医学では心と体を切り離して病気の体を治療しますが、東洋医学では、心と体のつながりを重視するのは、『心身一如』の考えから来ているのだと思います。
実際、背筋をピンと伸ばしていると、心も前向きになりますし、体が縮こまって下を向いているときは、心も内向きで頑固になってしまうものですよね。

田坂広志さんはこの著書の中で、『心身一如』の理(ことわり)は、『心』と『言葉』との関係においても同様だとおっしゃっております。
私が常日頃から感じていてブログの中でも書いていることですが、このことは有難いことが起こったから感謝するのではなく、感謝しているから有難いことが起こるということにつながってくると思います。
自分にとって面白くないこと、不都合なことが起こった場合、愚痴や文句を言っている限り、似たような踏んだり蹴ったりの現状が起こり続けることがよくあるのではないでしょうか。
実際のところ、辛いときに有難いと思うことはなかなか難しいと思いますが、まずは言葉だけでいいのだそうです。
心が伴っていなくても、まずはそんな経験をさせてくれた相手に方に心の中で『ありがとうございます』と言ってみてください。
慣れないとすごく心が騒いで辛い気持ちが倍増されるかもしれません。
この本の中でも、言葉と現実が一致してくるまでに少なくとも3年はかかると書いてあります。

私は10年以上、ありがとうを言い続けています。
心からそう思えない時もありましたが、今では何かにぶつかるたびに、『ありがとうございます。』と唱えるのが習慣になりました。
ここに書いていることは、スピリチュアルを学ばれている方には当たり前のことだと思われますが、意外に頭ではわかっていてもできていないときもあると思います。
私も知識から魂レベルまで落とし込むまでに10年以上の年月がかかりました。
もちろん、落とし込めていないことも多く、今でも学びの最中でそれは一生続くと思っています。
この本の中に書かれていたのですが、感謝の言葉を心で唱えることを少なくとも3年続けた場合、心に変化が起こってくるのだそうです。
ここで大事なのは感謝の言葉は心で唱えるということです。
相手に向かって、思ってもいない感謝の言葉を言うのではなく、影で一人の時に心から感謝の気持ちが芽生えてきたら、それは本当に心が強くなってきた証拠なのだそうです。
もちろん、心からの感謝の言葉は相手に伝えてあげた方が喜ばれると思いますが、それができない場合、心の中で有難いと感じることで心がどんどん強くなっていくのだそうです。

 

 

柴田英明

2019年4月17日 (水)

自我を捨てていきいきできる職場へ

久しぶりに同級生に会ったときの話。
その同級生は主に人間関係が劣悪すぎて、鬱になりかけていた。
ほかの子でもそのような話を聞くため、いきいきしながら仕事をしている人の少なさに驚く。
こんな活力の低い人たちが多い世の中で、今後何を生み出せるというのだろう、と不安に思わざるを得なかった。

その同級生の話を聞いていると、自我がすごい。
「自分は自分は」とひたすら自分の話が出てくるし、海外にいったら変わる、という。
自我と現実逃避の連続で、正直話をきくのも嫌になるくらいだったが、その人だって転換したいと思っているし、楽しくありたい、と思っている。

でも業務は次から次へと上から降りてきてしんどいし、なにより職場に話をできるひとがいないのが辛いところだと思う。
みんながみんな周りを封鎖してしまっていて、話のもちかけようがない状況。

どこに落としどころをつけるか。
まずは自我を捨てて相手(客)に同化すること。
あと、現実は辛いから妄想の世界に入ってしまっているため、現実をみること。現実の外圧を受けて、ではどう行動していくか、をひたすら考えて動くしかない。
今は内発思考でしんどいばっかりだが、相手に同化して現実を見ることで対象は広がっていくし、可能性は広がると思う、と伝えたら表情が明るくなって可能性が広がったみたいだった。

認識は生きるために必要なもので、いきいきと生きるヒントになっていけるんだと確信した。

 

 

 

匿名希望

2019年3月21日 (木)

欧米社会の個人主義と全体主義

リンク
以下リンクより引用
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 欧米崇拝者ならずとも、欧米社会は「個人」の観念が根付いていると、その個人主義を高評価する人は多い。確かに日本も含め他の文化圏では「個人」という考えはなかったように思える。では、何故欧州社会だけに「個人主義」が誕生したのだろう。あるブログ記事に興味深いことが載っていたので、その箇所を抜粋したい。
-阿部謹也の『ヨーロッパを見る視角』によれば、「個人」の概念が生まれたのは近代資本主義の時代ではなく、11~2世紀だという。古代の欧州は、ほとんどの社会と同様、世間の空気に支配される共同体だった…古代的秩序が失われたあと、11世紀以降に欧州を統合したのがキリスト教だった。キリスト教会は、非人格的な「神の掟」にもとづく共同体であり、近代法の源泉も教会法にあったといわれている(Berman)。
 キリスト教では、すべての個人は地域や家族から切り離され、神の前で絶対的に孤独な存在となり、救済されるかどうかは彼個人の行動に依存する。つまり個人主義というのは、ギリシャの合理主義とキリスト教の普遍主義が混じってできた特殊ヨーロッパ的な思想なのだ。ただ、こういう非人格的ルールが遠隔地貿易で有利になり、欧州の経済的な(したがって軍事的な)優位の源泉となったことは、Greifなどの研究で示されたとおりだ…
 私は阿部謹也はもちろん、Berman、Greifの書も未読である。教会法は世俗的なローマ法とも全く無縁ではなく、西欧の個人主義の思想にローマ的普遍主義も影響を与えている。ただ、「全ての個人(信者)は地域や家族から切り離され、神の前で絶対的に孤独な存在となり、救済されるかどうかは彼個人の行動に依存する」のはイスラムも建前上は全く同じなのだ。イスラムもまた、ギリシア、ローマ文明を受け継いでおり、ウンマという「神の掟」にもとづく共同体がある。
 イスラムも初期は武力征服ありきで、それまで部族対立に明け暮れていたアラブの諸部族を信仰によって統一、周辺のサーサーン朝ペルシアやビザンツ帝国ばかりか、西欧にも侵攻する。ここまでは欧州と同じにせよ、その後のイスラム世界は血族中心社会に戻る。そもそも気候的に遊牧民が主だった世界ゆえ、血縁関係を重視する。現代に至るまで中東は部族社会が色濃い。
 血族重視なら儒教、ヒンドゥー文化圏も同様で、島国ゆえ異民族接触がかなり少なかった日本も、農耕社会で村落共同体が続いていた。ただ、欧州で「個人」の概念が生まれたとされる11~2世紀とはちょうど十字軍の時代と重なる。これは個人主義どころか、全体主義ゆえに可能な侵攻だった。ローマ末期、ゲルマン人が豊かなローマに侵攻したように、今度はオリエントに西欧人が移動する。
 共にユダヤ教から発生したにも係らず、何故イスラム圏は西欧社会と異なり異端審問や魔女狩りは殆ど行われず、「個人」の概念が生まれなかったのだろう?個人ならぬ部族中心主義だが、中東世界は極めて自己主張の強い処であり、それが美徳とされ、押しの強さでは欧米人の比ではないらしい。「オレが、オレが」など日本で言ったなら、「我の強い奴」と爪弾きの対象となるが、同じ多神教世界でもインド人もまた自己主張の強さには定評がある。多民族、多宗教の背景があるのだろう。
 個人の観念が根付いた欧米社会は、むしろ異色だ。だが、それに対する強い反動もあったはずで、同時に十字軍やファシズムのような全体主義も起きている。逆に個人主義が強かった故、全体主義も背中合わせになっていたかもしれない。B級史劇だが、映画『300』の最後に意味深な台詞があった。「相手は野蛮人だ。神秘主義と専制の国」。古代ギリシア、ローマ時代から欧州人は東洋をこう見ていたのは確かで、それは現代も大差ないようだ。東洋人は専制君主に盲従するが、我々は自由の民であり、個人の自由のために戦う、と。
 十字軍は強制ではなく、個人の“自由意志”で行われたものだった。だが己の選択で参加したように思わせても、煽動したのはキリスト教会であり、異を唱えたりすればたちまち異端と断罪された。現代のムスリムによる“自爆テロ”もまた武力脅迫ではなく、表面的には各自の決定で実行したようでも、扇動者は聖職者というのも似ている。『自爆テロリストの正体』(新潮新書、国末憲人 著)に、著者のイスラムと欧米くらい似た文明もない、と興味深い一文があった。日本人による日本人論と同じく、欧米人の個人主義論は手前味噌の自画自賛も入り混じっていると見た方がよい。欧米人は非キリスト教徒の異人種が同じことをすれば、狂信、“個”のない全体主義と誹るらしい。




匿名希望

2019年3月 3日 (日)

努力しても無駄?やる気をなくす「学習性無力感」は現実への否定感からはじまる

「学習性無力感」
無気力・無関心な人たちが増えているということを耳にしますが、それはこの「学習性無力感」によるものなのかも知れません。
もう一度周りをよく見てみれば、本当に自分の置かれている状況が極限に理不尽なのか、見方を変えることで良い方向にむかえないか?見えてくるかも。見えないなら、周りを頼ってみるのも一つの手。無気力になりそうな時はどう今を生きて未来に生きるのか考えて行きたい。
リンク
―――――-以下、リンクより引用―――――
電気ショックのような嫌悪的なトラウマが無力感をもたらすのではなく、それを自分の頑張りではどうすることもできない、と感じてしまった時に、無気力になっていくのだ。
このような努力が無効であるという経験が生み出す無気力状態のことを、セリグマンは「学習性無力感」と命名した。
引用:『フシギなくらい見えてくる!本当にわかる心理学』植木理恵
「どうせ無理」「やるだけ無駄」「意味ないよ」
こんな気分になったことはあるでしょうか?
ちょっと怖い話ですが、人がこう考えるようになるのは、「何をやっても望む結果が得られないのだから、努力するだけ無駄」という信念を学習して身につけてしまうからなんだそうです。
この「学習性無力感」という考えは、アメリカの心理学者マーティン・セリグマンが提唱した心理学理論。
…(中略)…
この言葉、「学習性絶望感」「獲得された無力感」「学習性無気力」とも訳されます。
…(中略)…
■「学習性無力感」の症状
長期に渡り、人が監禁されたり、暴力を振るわれたり、自分の尊厳や価値がふみにじられる(主として、いじめやモラルハラスメントに代表される人格否定)場面に置かれた場合、次のような徴候が現れるという。
被験者は、その圧倒的に不愉快なストレスが加えられる状況から、自ら積極的に抜け出そうとする努力をしなくなる。
実際のところ、すこしばかりの努力をすれば、その状況から抜け出すのに成功する可能性があったとしても、努力すれば成功するかもしれないという事すら考えられなくなる(言い換えると、長年受けた仕打ちによる反動で、どんな可能性さえも「無駄な努力」と断じ、自発的行動を全くしなくなる)。
つまり、学習性無力感に陥ると
嫌なことがあっても、そこから抜け出す努力を選ばない
頑張ったら可能性がある状況でも、「無理」「無駄」と勝手に判断して、やらない
ストレスの原因に対してされるがままになり、無力感や苛立ちに悩むようになる
ということが起こるんだとか。
まあ確かに、そうなりますよね。
メンタルが落ちてる時って、行動しなきゃ変わらないってことがなんかわかっていても行動できないっていうか行動する気にならなかったりするんですよね。
…(中略)…
■誰も無駄なことをやろうとは思わない
「学習性無力感」っていうのは「無駄な努力はしない」「無駄なことにエネルギーを消費しない」っていう行動です。
確かに、合理的で必要なものなんですよね。
確かに、回避できないって状況の中で、意味もわからずに攻撃し続けられたり、理不尽に追い詰められたら「無気力」になっちゃうって気持ちもわかります。
…(中略)…
人って”信じているもの”を土台にして行動してるんです。
現実の中で可能性があったとしても、自分が”可能性あり”って信じてないと行動できないんですよね。
”可能性があるか?ないか?”ではなく、”可能性があると信じているか?信じていないか?”というところが、別れ道です。
もしかすると、あなたの関わりによって無気力になっていく人がいるのかもしれません。
■無力感から抜け出すためにできることはなにか?
学習性無力感とは、「どうせダメだ」となにもせずに諦めてしまうというのが大きな症状です。
この「どうせダメだ」は学習されたものであるので、今度は「やればできる」ということを学習できるところに身を置くことができるのならば、変わることもできます。
…(中略)…
■前と今で違うことを数えてみる
無力感が起きた時の状況と、その時の状況で変わっていることがあるはずです。
…(中略)…
こうすれば変わるよ!とただ行動を変えることを励ましても、「どうせダメだ」と信じている人にはなかなか響きません。
それよりも、周りの状況がどう変わったのかを、認識してもらうことの方が効果があったりします。
自分のせいではなく、環境や人のせいにしてみる
「求めている成果を得ることができないのは、自分のせいだ。」と考えていると、私たちの行動に対する意欲がどんどん下がっていきます。
同じ状況であってもポジティブな人が、それでも行動できるのは、「自分のせいだ」と考えて、結果は変わらないと思うのではなく、
(自分自身ではなく)自分の行動が悪かったからだ → 行動を変えればうまくいく
この環境だからうまくいかなかったんだ → 今度のパターンなら成功の可能性はあるはず
あの人がミスしたからだ → 自分はできる
前の自分と今の自分は違う → 今ならできる
と、考えるからです。
行動できない時には、その時の失敗の原因は自分ではなく、ほかの誰かや環境にあると思いっきり開き直ってみるのも一つの方法です。
■できることからやってみる
人はネガティブなサイクルに入ると、行動をなるべく少なくしようとしていきます。
そうすると、さらに自分にはなにもできないという結果を経験することになっちゃうんですよね。
では、どうすればいいのか?
【行動を変えること】です。
感情っていうのは、私たちの行動や思考を変えると変わっていくんですよ。
…(中略)…
まとめ
厳しい現実の中では、「もう無理だ、、、」と思ってしまう場面もあるはず。
でも、そんな時に、今の自分にできることに集中して、それを選んでみることができたら、現実をより良く変えていくことができるカードが自分には残っていることに気づくはずです。
学んだことで生き方を変えよう。そして一歩を踏み出そう。
―――――――――――――――



どうなる資本主義

2019年2月16日 (土)

知性の劣化

長周新聞リンクより
今日の知性の衰退の状況は深刻です。例えば、少し前に韓国の音楽ユニットBTS(防弾少年団)のメンバーのひとりが原爆投下直後のキノコ雲の写真(長崎)と、朝鮮半島が日本の支配から解放された写真を並列したプリントTシャツを着ていたことが物議をかもしました。この行動自体に対する批判は別にして、私が感じたことはそんなことをすれば、どのような反応があるのかについて想像力を働かせていない、何も考えずにおこなったのではないかということでした。
 ネットやマスコミでは、Tシャツを着ていたことが批判の的になっていましたが、どのような影響を招くのか考えずに行動していることの方がより深刻な問題だと捉えています。何の悪質な意図もなく無意識のうちに、そのようなことを行動、発言することの危うさを感じます。ものを考えないということは、マスメディアや権力を持つ者に煽動されたり流されやすいということです。かつての戦争のときがそうでした。だから恐ろしいのです。
 知性をみがかなければ、結局はお互いへの感情的な批判と不満が積み重なっていくだけです。いわゆる「ネトウヨ」の人たちもそうです。インターネット上で感情のおもむくままに、差別的発言を続けたり、罵倒の声を投げつける。それは勢いがあるように見えますが、そうした言葉を発信すればするほど、自らのボキャブラリーの少なさや知性の浅さを露呈していくだけです。自分が感じていることが、絶対正義だと、頭の中が凝り固まっている。なぜそうなるかといえば、学ぶことをしないからです。そもそもすべての物事は変化し続けており、永遠に絶対に正しいということは、神様でもない人間がわかるはずはないのです。
 社会的地位にある人が、心ない発言をして批判をされたときに、「そんなつもりはなかった」といって弁解するケースがあります。この国の政治家をみてもそういう人物が出てきていることを残念に思います。ここには知性の劣化があらわれている。そのことが深刻な問題ではないでしょうか。
 無意識に発言されるくらいなら、極端なことを言えば、歴史的事実や評価を充分に知った上で、自分の意見として差別発言をする人の方が、まだましなのではないかと思うほどです。




高梨俊寛

~「エモい」で判断するのがあまりに危険なワケ~共感力の求められる社会にはリスクも孕んでいる

毎年様々な流行語が生み出されるなかで数年前から耳にするようになった言葉のなかに
「エモい」なんていうものがある。
英語のemotionalを語源としており「感情に訴えかける。」「心に刺さる。」などの意味があるようだ。
このような言葉が広がる背景には現代の社会が共感や感情による影響の大きさを表していると言える。
共感力が社会に及ぼす影響が大きくなってきたことは本源社会への回帰でもあるが、伴って孕んでいるリスクもある。
以下引用
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実は、学術の世界でも同じようなことが起きています。ダニエル・カーネマンの社会心理学の研究や、ダン・アリエリーをはじめとする行動経済学の研究により、人間の判断が客観的な費用や便益に基づいて合理的に行われているわけではないことが次々と明らかにされています。
「金銭などの動機づけを与えれば人間は合理的に行動するはず」だ、という前提のもとで、経済学も、経営学も、行政学も発展してきたはずなのに、そもそもの前提が間違っていたことが明らかになってしまったのです。
人間は「合理的」な判断はせず、むしろ「共感」や「エモい」に突き動かされて生きているのではないか、という認識が社会に広まりつつあるからこそ、そのような単語が流行するのかもしれません。しかもその認識は、単なる時代の流行ではなく、実証研究によって明らかにされた事実でもあるのです。
最近ではこの、人間の「エモい」性質を使って、社会をよりよくしようとする研究も進められています。その代表格がノーベル経済学賞受賞者リチャード・セイラーとハーバード大学の法学者キャス・サンスティーンらが主張するナッジ(nudge)。心に響くちょっとした仕掛けを施すことで、社会問題を解決しようというものです。
有名な事例が「男性用小便器の的」で、小便器の中央部にハエや的の小さな絵を描いておくと、そこに向かって排泄されるので、便器の外が汚れづらくなるそうです(食事中の方、申し訳ありません)。
こうして考えると、社会はもっと「共感」や「エモい」反応を大事にしていくべきではないか、現実に即さない「合理性」は忘れたほうがよいのではないか、と思われるかもしれません。しかし、何事にも副作用があり、その副作用のほうを心配しているのはおそらく筆者だけではないはずです。
感情に基づく反応は極めて強力です。だからこそナッジが社会によい影響をもたらしてくれるのですが、逆に、それを悪用しようとする者がいれば、どうなるでしょうか。企業や政党が私利私欲のため、本来の意図を隠して人々の共感に訴えかけることも十分考えられます。
道徳心理学者ジョナサン・ハイトが『社会はなぜ左と右にわかれるのか』という著作で説明していますが、人間は情報を総合的に評価してから理性的に判断を下すのではなく、本能的に判断を下してからその理由を後づけするという説があります。
つまり、瞬間的に共感するかどうかを判断してから、その共感を正当化するための理屈を事後的につくり出しているというのです。これが本当なら、誰かを説得したいとき、理屈よりも印象が大事だということになります。説得される側も、好印象ならそれを正当化する理由を考え出し、悪い印象ならそれを否定する材料を集めることになります。
実際、最近のネット言説を眺めていると、まさにこの悲しい人間の本性が露骨に表れているように見受けられます。自分が信奉する人やメディアが言うことはすべて隠された真実、キライな人やメディアの言うことはすべてフェイクニュース、という反応は、イデオロギーの左・右問わず見られます。
ここで「だって人間だもの」とあきらめて、瞬間的な共感(反感)ですべて判断してしまってよいものでしょうか? 実際、思考停止でも十分な場面もたくさんあることでしょう。
男子が小便器の的を見たら、何も考えずに的を狙えばいいように、ナッジが提案するトリックにみんなが「だまされる」ことで、納税率が上がったり、犯罪が減ったり、社会はよくなるかもしれません。そもそも個人の趣味のレベルであれば、「エモい」音楽や映像で気持ちよくなっている人に文句をつけるなど、無粋というものです。
しかし、選挙で政党や候補者の名前を投票用紙に書くときや、地元で建設が予定されている施設の説明会で発言するときの判断も、共感だけに基づいていいものでしょうか? これらの判断と、小便器を使うときの判断が同じでいいはずがありません。あるいは、SNSやニュースサイトのコメント欄に自分の考えを書き込むときも、共感レベルの本能的な反応を示すだけでいいのでしょうか?
ダニエル・カーネマンは、『ファスト&スロー』の中で、人間の非合理的な側面を実証しながら、人間の脳内にある「システム1」と「システム2」の存在を指摘しています。
システム1とは、行動経済学の実験やナッジの実践が着目する、感性的で即断的で、「非合理」なことも多い判断のシステムです。システム2とは、事実や仮説を検証し、何が正しいのか、頭を使って熟慮するシステムです。
実際に起きている深刻な社会問題やネット上での言論に対し、誰もがシステム1だけで発言したり、行動したりするようでは、おそらく、問題は解決しないどころか、社会の分断が進むだけでしょう。むしろ、わたしたち1人ひとりが、システム1に偏りがちだという人間の弱点を認識したうえで、その本能的反応を乗り越え、意識的にシステム2で問題を考えていくことが必要です。
そのためには、まず、自分の共感(反感)を疑うことから始めなければなりません。共感できない他者に対して無意味な攻撃に走らず、寛容になる能力、あるいは無視する能力が必要です。
システム1の弱さを克服したうえで、システム2を駆動して、共感できない人たちとも「共存」するための解決策を見つけることができれば、より生きやすい社会へと近づくことができるのではないでしょうか。事実、ちまたで言われる「WIN-WINの解決策」とは、共感ではなく共存によって初めて成立するものです。
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参考:リンク



ABC豆

2019年2月15日 (金)

どうすればできるか?

■どうすればできるか?(天下泰平 リンクより)
:::以下転載:::
▼成功するまで失敗し続ければいい。ローマ法王に米を食べさせた男・高野誠鮮さんインタビュー [STORY OF MY DOTS](リンクより一部引用)
 どうすればできるか、それだけを考えればいい。
 できない人はやらないからできないだけなんです。
 以前なにか提案したとき、70歳代の方に反対されました。
 「そんなことくらいは、わしだって考えていた」って。
 ぼくは言いましたよ。
 「いつまで考えているんですか?なぜ今までやらなかったんですか?」って。
 切れた電球の下で、暗いと不平をいったり。議論してたって、いつまでも明るくなんかならないですよ。
 実際に電球を変えなきゃ、明るくなんかならないんです。
:::引用終わり:::
石川県の限界集落であった神子原を救ったスーパー公務員の高野誠鮮さんの言葉。
「切れた電球の下で、暗いと不平をいったり。議論してたって、いつまでも明るくなんかならないですよ。実際に電球を変えなきゃ、明るくなんかならない」
これは日常的にもよく見かける光景。
誰だって生きていれば、何かしら壁にぶつかったり、問題が起こって頭を抱えることも多々あるかと思いますが、ただ周囲に不平不満や愚痴ばかりこぼすだけでは、その壁を乗り越えることも、問題を解決することもできません。
いつまでも暗い電球の下で暮らす日々が続くだけ。
ただ電球を変えるだけで人生も明るくなるかもしれませんし、隣の部屋に移動するだけで、明るい世界が待っているかもしれないのに、いつまでも、その場のその環境に居続けているのは、誰のせいでもなく、自分自身が選んだ選択。
そして、行動することが出来ない人の多くは
「できる方法を考える」
のではなく
「できない理由を考える」タイプ。
できない理由ばかりを並べて自分を納得させ、未来に成功イメージが湧かないので行動に移せない。
高野さんも
「どうすればできるか、それだけを考えればいい。できない人はやらないからできないだけなんです。」
と仰るように
「どうやったらできるかな?どうすれば良いかな?」
まず、できる方法を考える癖を身につけ、未来がイメージできたら、あとは頭で考えずに直感に任せて行動するのみ。
人間、普段使っているのは、脳みそも遺伝子も数%程度、潜在意識は優秀で、その気になれば何だってできちゃうものです。
ただ、何でもかんでも後先考えずに、ガムシャラに行動するのが良いとは限らず、今は「在り方」が問われる時代でもあるので、行動すればすべて成功するとは限りませんが、
やらずに後悔するよりも、やって後悔する方が100倍、次に繋がります。
我が人生もチャレンジばかり、すべてが成功ではなく失敗も数多く重ねてきましたが、成功や失敗は、ある時点で物事を切り取った場合の結果に過ぎず、
「失敗は成功のもと」
という言葉のように、すべての失敗と思われる結果は、次の成功、人生そのものの成功に繋がっていると思います。
成功した時は、あまり理由を深く考えませんが、失敗は
「なぜ、失敗したのか?」
と深く考えるので、失敗のすべては自分自身の成長の糧になっていると思います。
そして、結局のところ成功も失敗もないのだと気付かされます。
:::引用終わり:::




石山 巌

2019年2月13日 (水)

ひとはなぜ服を着るのか

「自分」の輪郭は、思っていたより不確かだ
衣服が物理的に体を守る、でもそのためだけに人は服を着るわけではありません。
まず指摘されるのは、自分の体は、そこから痛みを感じるように自分のものだけれども、(鏡などがないと)その見た目を自分自身で見ることはできないということ。
スポーツをして体の表面がドキドキしたり、シャワーで体を流すのが気持ちいいのは、体(自分)の輪郭がはっきりして、不安が減るからだ、という説があります。
参考:サイモン H.フィッシャー からだの意識
確かに、服がこすれて体に当たるから体ってわかるわけで、裸だとそういうのわかんないんですよね(普段そんなこと意識してませんが)。あと、布団に包まったりして落ち着くのは、単に体が守られるだけでなく、体のイメージができるから、という話は新鮮です。
自分という存在は、思ったよりも当たり前ではなく不確かなもの。だからこそ人は服を着るのだ、という話ですね。
例えば自分の体を自由にして良い確認としてピアス開けをしたり、階級の差を減らすためにスーツを着たり、制服を着ながらも個性を出すために着崩したり。
自分のことは部分的にしか経験できない、かゆみや痛み、音や光はバラバラに入ってきて、全体としての自分は、どうやっても想像するしかありません。
僕が衝撃を受けたのは、「自分の自分に対するイメージこそが第一の衣服である」という根本的な衣服観です。
想像された自己の身体像こそがわたしたちが身にまとう最初の衣服だとすると、衣服はもはやわたしたちの存在の覆いなのではありません。それなしにわたしたちはじぶんの存在を確定できないわけですから、それはむしろ、わたしたちの存在の継ぎ目ないしは蝶番(ちょうつがい)とでも言うべきものです。衣服は人間という存在のギプスである、と言ってもいいかもしれません。この<像>としての身体こそがわたしが身にまとう第一の衣服であるからこそ、わたしたち人間は、繊維を編みだすよりもはるか以前から、皮膚をまるで布地のように裂いたり、引っかいたり、あるいは皮膚に線を引いたり、顔料を塗ったり、異物を埋め込んだりしてきたのです。
引用:ひとはなぜ服を着るのか p.31
服・アバターというものは、見た目がどうこう・イケてるイケてないの話だけでなく、「自分の見た目をどうするか」「自分をどう見せたいか」「自分自身をどう想像するか」というように、自分の認識・想像にかかわる人間にとって極めて根本的な存在なんですよね。
引用元:リンク



匿名希望

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