2019年1月13日 (日)

「学びや気づきを妨げる3つの考え方」を逆手に取り成功する方法

「学びや気づきを妨げる3つの考え方」を逆手に取り成功する方法
(リンク)より転載
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■学びや気づきを妨げる3つの考え方とは
私たちは、様々なところで学んだり、気づいたりしているのではないでしょうか。例えば、本を読んだり、学校などで先生から話を聴いたり、講演会などで登壇者から話を聴いたり、テレビやホームページなどを見たり、他者の行動を見たり、他者からの注意や問題の指摘であったり、街中を見たり、色々なところから学びや気づきを得る機会があると思います。
こういった様々な学びや気づきを得る機会がある中で、自分が、なかなか学びや気づきを得ることができないこともあります。そこで、学びや気づきの得ることを妨げる考え方について考察していきたいと思います。
学びや気づきの得ることを妨げる考え方として、3つの考え方が挙げられます。1つ目の考え方は、「これまでの経験や実績、周りからの影響などに基づく固定観念」です。2つ目は、「注意や問題といった言葉の受け止め方」です。3つ目は、「自分事として置き換えることができない」という考え方です。
では、まず1つ目の考え方である「これまでの経験や実績、周りからの影響などに基づく固定観念」について考えていきます。
私たちには、これまでに、何らかの成功した体験あるいは、うまくいかなかった経験といったものがあると思います。自身のこういった経験、体験に加えて、これまでに接したあるいは、見聴きした周りの人たち(親、先生、上司、好きなスポーツ選手など)からの影響を受けるなどして、自分自身の「こうあるべき」などといった固定観念が作られてきたと思います。きっと、子どもたちよりも大人の方が、様々な固定観念を持っているのでしょうね。
一概に、固定観念を持つことがいけないということではありません。固定観念を広く捉えると、自分の軸、信念と言い換えることができるかもしれません。自分の中で、ブレない軸、信念などを持つことは必要だと言えるでしょうね。しかし、その自分の固定観念(軸・信念)にあまりにも縛られすぎると、学びや気づきを得るチャンスを失ってしまうことにもつながりかねません。
私自身の例で言うと、以前、テレビ番組において、ある研修が取り上げられていて、その研修手法が、私の固定観念からしたら、「こんなのあり得ない」「邪道だ」などと思って、感情的になってしまったことがあります。でも、冷静に考えたら、その研修手法を反面教師として学ぶこともできたと思いますし、「どうしてこの手法を取り入れているのか」と考えを深めていくことによって、自分の中で学びや気づきにもなったのではないかと思います。
自分自身の固定観念を一旦外してみて、白紙の状態から素直に見聴きしてみるという視点も、学びや気づきを得ていくためには、必要なことになるでしょうね。
学びや気づきを妨げてしまう考え方の2つ目である「注意や問題といった言葉の受け止め方」について考えてみます。
注意や問題といった言葉を聞くと、どのような印象を持つでしょうか。どちらかというと、あまりいい印象は持たないのではないでしょうか。私自身もそうですが、注意を受けたり、問題を指摘されるとヘコんでしまいますから、注意は受けたくないとか、問題を指摘されたくないと感じることが多いのではないでしょうか。
そこで、視点を変えて、注意や問題を指摘されるというのは、自分の考え方や行動などを改善する、そして、自らを成長させるチャンスだと受け止めてみるとどうでしょうか。「注意される」「問題を指摘される」ことが、新たな学びや気づきを得ることにつながると受け止めることもできるのではないでしょうか。
例えば、お客様から苦情・クレームを受けたとします。この苦情・クレームをお客様からの貴重な意見と捉えてみるとどうでしょうか。お客様からの意見から学んだり、気づいたりすることで、商品やサービスに対する改善アイデアにもつながっていくこともあるでしょうね。
もちろん、実際に苦情、クレームを受けたその時は、それに適切に対応することが優先されますし、また、注意や問題というとネガティブなイメージが根付いているので、なかなかこういった視点を持つのは難しいですが、学びや気づきを得ていくうえでは大切な視点だと思います。
3つ目の学びや気づきを妨げる考え方として、「自分のこととして置き換えることができない」という考え方が挙げられます。
学びというと、知識そのものを覚えること、習得すること、という印象が強いのではないでしょうか。学びや気づきというのは、知識を覚える、習得することだけではなく、その覚えた、習得した知識を「自分の置かれている状況や立場などに置き換えると、どのように活用することができるか?」という視点を持つことが学びであり、気づきだと捉えることもできると思います。
書籍や講演などにおいて見聴きする知識などは、一般論だったり、著者や講演者自身の具体論だったりします。自分にとっての学びや気づきへとつなげていくためには、一般論であれば、この知識自体を覚えるとともに、一般論を「自分にとっての一般論」に置き換え、それを「自分にとっての具体論」へと置き換えて深めていくことが必要だと思います。
また、著者などの具体論であれば、その具体論を一般論である知識や理論に置き換えて、それを「自分にとっての一般論、具体論」へと深めていくことが大切になるでしょうね。このように、一般論などの知識を見聴きした時に、自分にとっての具体論へと置き換えることで、「この知識はここに使える、あそこで活用できる」という新たな学びや気づきへとつながっていくと思います。
今回は、学びや気づきを得るための考え方について考察してきました。この3つの考え方は、大人だけではなく、子どもたちがこれから学びや気づきを得ていくためにも必要な視点ではないかと考えます。私自身も、この3つの視点を持ちながら、新たな学びや気づきを得ていきたいと思います。




紀伊谷高那

2019年1月 7日 (月)

同化や一体の足かせ~個・自分という意識・溶け合えない「私」~

『アーカイブス055 溶け合えない「私」(リンク)』から転載します。
一体とか同化とかとは男女にとってどんなものなのか?
>東洋では「個の自分」を確立しようとはしてこなかった。ところが日本は、戦後、アメリカをはじめとする西洋の文化を取り入れるにつれて、いつしか彼らの追い求める「個の自分」も手に入れようとした。個人主義、個人情報といった個の権利主張のみならず、電話もテレビもエアコンも、時代はパーソナルに向かっている。
 もちろんそれらの全部が悪いと言いたいのではない。でも、「個の自分」を確立しようとすればするほど、自然からはどんどん遠ざかっているようにしか僕には思えない。人間も自然の一部だとすれば、それはやはり“不自然”なことではないだろうか。
これは現実逃避の自我(他者否定と自己正当化)と現実直視の共認(自他のない肯定感覚)の違い。前者は架空の世界に。後者は現実の世界に。同化や一体とは現実と向き合うことそのもの。
--------------------------------転載
 オーガズムのとき「溶けちゃう」と言った女の子がいた。それも一人や二人ではない。なかなか男にはわからない感覚だ。僕も最初は「溶けるって、何が溶けるんだ?」と思った。オーガズムの言葉としては「死んじゃう」とか「イッちゃう」というのもある。
 いったい何が「溶け」「死に」「行く」のか? ひと言でいえば、それは「個」ではないかと思う。「個の自分」が溶け、死に、どこかへ行ってしまう。だから、お互いがそうなれれば、自他の境界線もなくなり、ひとつに同化してしまうのではないかと。
 しかし、今は以前にもまして、セックスで溶け合うということが難しくなっている。セックスのマニュアル本だったら、溶け合うためのテクニックが列記されるところだが、事はもっと複雑なようにも思う。
 ちょっと話は広がるけれど、西洋文明とは「個の自分」を確立する歴史だったのではないかと、僕はかねがね思っている。だから、自分の意見をはっきり主張することが求められる。「個の自分」を確立しようとすれば、これが基本姿勢であり、なおかつとても重要なポイントなのだ。
 日本人は「はっきりものを言わない」「何を考えてるのか、わからない」と昔からよく言われる。それは日本が内面を「察する文化」だからだろうと僕は思うが、まぁ“言わぬが花”という姿勢は、西洋人には理解しにくい価値観かもしれない。
 これには宗教観も大きく影響している。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、旧約聖書を経典とする一神教である。その神とは、人知を超えた絶対的な存在であり、間違っても人間ではない。ということは、崇拝する対象は自分の外側にあるのだ。
 それに対して東洋の宗教はというと、たとえば日本の神道は森羅万象に神が宿ると考える。だから身近にいろいろな神様がいる。中国の道教もインドのヒンドゥー教も多神教である。仏教は多神教とは言いがたい面もあるけれど、仏教における神、つまり仏は少なくとも世界の創造者でもなければ、支配者でもない。僕は、これら東洋の神々は人間の内側に存在するのだと思う。
 このような宗教観もあいまって、東洋では「個の自分」を確立しようとはしてこなかった。ところが日本は、戦後、アメリカをはじめとする西洋の文化を取り入れるにつれて、いつしか彼らの追い求める「個の自分」も手に入れようとした。個人主義、個人情報といった個の権利主張のみならず、電話もテレビもエアコンも、時代はパーソナルに向かっている。
 もちろんそれらの全部が悪いと言いたいのではない。でも、「個の自分」を確立しようとすればするほど、自然からはどんどん遠ざかっているようにしか僕には思えない。人間も自然の一部だとすれば、それはやはり“不自然”なことではないだろうか。
 セックスで相手と溶け合えない最大の原因は、テクニックなどではなく、「個の自分」に根源があるのだと思う。本当のオーガズムとは、ある意味、悟りでもある。溶け合えば、真理の片鱗を人はのぞくことができる。そしてその表情は、このうえもなく幸せそうである。
(2011年7月8日掲載)




匿名希望

2018年12月27日 (木)

うっかり使ってない? 成長を妨げる「思考停止ワード」

リンクより引用
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おそらく、回答者は具体的に書いているつもりだと思うのですが、よく見かける「心がけます」や「イノベーションを起こしてみせます」「顧客第一で頑張ります」などの言い回しは、具体的な言葉ではありません。
例えば、「顧客第一」という言葉。文字通りなら、会社の利益は第二にして、どこまでも顧客のために尽くすということになりますが、それでは経営になりません。だから、「顧客のために何をして、どうやって会社の利益とのバランスを取るのか」を考えなければいけないのに、ただ「顧客第一」と掲げることで、その中身を熟考することから逃げてしまっています。「イノベーションを起こす」も同様、まず、どんな問題意識から生まれる目的かを明確にするべきです。
つまり、これらは何か宣言をした気になってしまっているだけの言葉で、これではかえって思考が深まりません。こうした言葉をマッキンゼーでは「思考停止ワード」といって、自らの思考を深めない罠にはまらないようにしていました。
では、なぜ、こうした思考停止ワードに逃げてしまうのでしょうか。それは、「失敗するのが恥ずかしい」という思いから、つい踏み込むのを避けてしまいたくなるからではないでしょうか。
しかし、セミナーや講演は、そもそも自分に足りないものを明確にしたり、補ったりする機会です。そこで「恥ずかしい」と躊躇することは、成長の妨げにしかなりません。恥ずかしさを理由に一見やる気があるように見える思考停止ワードを連発していては、何も前進しないのです。
■自分との議論をやめてはいけない
日常の会話でも、あまり考えず「深いですね~」などと言ってしまったことはありませんか? 相手の話についていけなくなってくると、会話そのものが不安になって、つい「深い」「面白い」など漠然とした相槌を打ち、その場から逃げようとしてしまう。本来なら、ついていけないほど深く感じること、面白いと思う理由を話し込んでもいいはずなのです。
こうした相槌は、議論を避けるための技法でもあり、時には便利なこともありますが、議論を避けるということは、「他の人との議論」を避けてるだけでなく、「自分自身との議論」をやめてしまうということでもあるんです。
例えば落合陽一さんや石川善樹さんのように進化の早い人たちは、自分に対する議論をやめません。要するに、自分に理解できないことをごまかさないんです。だから、理解できるまで「こっちの角度から考えてみよう、あっちの角度から見てバリエーションを増やしてみよう」という風に、ずっと思考し続けるのです。
思考停止ワードは無意識に自分を守り、自分の成長を妨げるものです。ふとした時、自分が思考停止ワードに逃げていないか? 観察してみるのも面白いと思います。




根木貴大

2018年12月24日 (月)

「バカの壁」は「訊く」ことで乗り越えられる~ソクラテスの「産婆術」でビジネスの世界も変わる①

 人間には「バカの壁」がある、と指摘したのは、養老孟司氏だ。あいつは俺より分かっていない、俺の方がずっと物事を深く考えている、と思うと、相手の知力や能力をバカにしたくなる。すると、相手のやることなすこと話すこと、全部愚かしいものに見えて、聞くに値しないとみなしてしまい、相手から学ばなくなってしまう、という症状を表す言葉だ。
 こうした「バカの壁」は、社会のいたるところに発生している。もちろん、ビジネスの世界でも。そして、「バカの壁」ができると、ビジネスでは致命的だ。なにせ、人の話を聞かなくなってしまうわけだから。自分がバカにした人の意見は、たまによい意見だと思っても「たまたまだ」「誰かに入れ知恵されたんだろう」などと、バカにする理由を探すばかりで、まともに聞こうとしなくなる。
 けれど、これは大変もったいないことのように思う。どんな人の、どんな言葉にも、新しいアイデアのヒントが秘められているかもしれないからだ
○ 人気を集めたソクラテスの姿勢
 ソクラテスは、そういう意味では、歴史上に卓抜した存在のように思える。この人には「バカの壁」が一切なかったように思われるからだ。
 ソクラテスは若い人たちから大変人気があった。ソクラテスが歩いていると、若い人が気軽に声をかける。逆に、ソクラテスも気安く若者に声をかける。そして対話が始まると、どんどん深い議論になって、それに他の人たちも参加し始め、ソクラテスの周りはいつもずいぶん賑やかであったようだ。
 ソクラテスはなぜ、若い人たちから人気があったのだろう? それは「訊く」からだ。若い人が何気なく言った言葉を面白がり、「ほう、それはどういうこと? もう少しそのテーマを掘り下げてみようじゃないか」と言って、さらに発言を促す。若者はウンウン考えて「こうではないでしょうか?」と答える。ソクラテスはさらに面白がり、「それを聞いて思い出したけど、こういう話と組み合わせて考えたらどうなるだろう?」と、さらに問いを重ねる。
 ソクラテスの度重なる質問で、若者はどんどん思考を重ねる。その結果、それまで自分一人では思ってもみなかったような斬新なアイデア、深い思考が引き出される。しかもその都度、ソクラテスが驚嘆し、もっと聞きたがるものだから、自分が天才になったような気がしてくる。コンコンと湧きだす知の泉が自分の中にあることを発見し、それがうれしくてソクラテスのそばに寄り添ったようだ。
 ソクラテスの弟子、プラトンは、ソクラテスを主人公とした物語をたくさん執筆している。その中に「メノン」というものがあり、なかなか興味深いシーンが描かれている。数学の素養のないソクラテスが、これまた数学の知識がない人間に質問を重ねるうちに、それまで誰も発見したことがなかった図形の定理を見つけ出した、というエピソードだ。




津田大照

「バカの壁」は「訊く」ことで乗り越えられる~ソクラテスの「産婆術」でビジネスの世界も変わる②

 果たしてこれは実際にあったことなのか、プラトンの創作によるものなのか、はっきりしない。しかし、ソクラテスが自分の得意技として考えていた技術を見事に表現した場面となっている。ソクラテスの得意技、それは「産婆術」だ。
○ ソクラテスの「訊く」方法
 産婆術とは、文字通り読めば、赤ちゃんの出産を助ける助産師(産婆)の技術ということになる。ソクラテスは、無知な者同士が語り合う中で新しい知を産みだす技術のことを産婆術と呼び、自分はそれが得意だと自認していた。
 では産婆術とは、どんなものだったのだろう? 端的に言えば、「訊く」ことだった。「へえ、それはどういうこと?」「こういう面白い話があるんだけど、それと組み合わせて考えたらどうなるだろう?」と、質問を重ね、相手の思考を刺激し、発言を促す。「聞く」とせずに「訊く」としたのは、相手の話をただ受け身で聞いているだけではなく、新しい情報を加えながら、質問を重ね、次から次へと思考の幅を広げながら話を聞く形だからだ。
 このソクラテスの産婆術は、実は現代に蘇っている。「コーチング」と名を変えて。Yes/Noで答えるしかない質問ではなく、5W1H(What/Who/Where/When/Why/How)と呼ばれる「開かれた質問」(どう答えるかは、相手次第に任される)をすることで、会話を途切れさせず、次々と話題を展伸し、思考を深める技術だ。
 カウンセリングでも「傾聴」が重視されている。しかし傾聴するにも、ただ黙っているだけでは相手も話しにくい。話すきっかけを与えるためにも、「訊く」ことが大切だ。
 ソクラテスは、若い人と話すときには知恵の泉をどんどん発掘し、対話を楽しんだが、「俺は天才だ」という人と対話すると、不思議な現象が起こった。天才たちはみな、怒り出したのだ。
 原因は「天才」たちの知ったかぶりにあった。プロタゴラスやゴルギアスといった、当代随一の天才と呼ばれた人たちは、ソクラテスから質問を受けると「ああそれはね、こういうことだよ」と、博識なところを見せつけた。しかしソクラテスが質問を重ねると、さっきといまの発言の間に矛盾があることが浮き彫りになり、最後には「実は、その件はあまり知らないのだ」と白状する羽目となった。
 天才たちを次々と論破したこの様子に衝撃を受けた人たちが、のちに「弁証法」としかつめらしい名前を付け、ソクラテスの偉大さをたたえたのだけれど、私には、ソクラテスの真の偉大さはそこにはないように思う。ソクラテスは、誰からも「知」を吸収しようとした。ソクラテスはおそらく、プロタゴラスやゴルギアスからも学びたかったのではないか。しかし「天才」たちが勝手に「バカの壁」を設け、知ったかぶりをしたがために、自滅しただけのことなのだ。
 ソクラテスは若者に話すときと同様、「訊く」ようにしただけだ。若い人には「産婆術」として働き、新しい知の発見につながる技術が、自分は天才で他はバカ、と思っている人に対しては「弁証法」と呼ばれて、知ったかぶりであることを明らかにしてしまう技術になるのだから、興味深い。
○「バカの壁」を乗り越える
「バカの壁」を取り払った人の話をしてみよう。板画家として世界的に名高い棟方志功氏は、若いころ、大変傲慢で、自分を天才と考え、他の人の芸術をこき下ろすこともたびたびだったという。しかしそのことで、棟方氏は自ら「バカの壁」を作っていたともいえる。
 しかし転機が訪れる。柳宗悦氏との出会いだ。柳氏は、無学な農家、庶民が作った民芸品の美しさを「発見」した人だ。芸術に何の知識もない人たちが作り出した、素朴な美の存在に気付いた棟方氏は衝撃を受けた。以後、棟方氏は、どんな人からも教えを乞うようになったという。どんな人の片言隻句からもヒントを得、学ぶことができることを知ったからだ。
 哲学は、向こうの言葉でフィロソフィア(フィロ=愛、ソフィア=知)と呼ばれる。愛知県みたいな言葉だが、本来なら「愛知」と訳されて当然の言葉だ。ソクラテスはまさに「愛知」の人であり、バカの壁を一切設けなかった。柳宗悦氏に出会ってからの棟方志功氏も、「愛知」の人になったと言える。バカの壁を自ら設けず、ありとあらゆる人から、芸術のためのヒントを得ようとしていたのだから。
 あなたは「知を愛している」だろうか? もしそうなら、バカの壁を設けるのはもったいない。自分の方が優れているといって優越感を感じようとするのは、バカの壁を建設し始めた証拠だ。それよりは、「この人は、私にはない、何を持っているのだろう?」と興味を持ち、自分にないものを引き出すために「訊く」ようにしてみてはどうだろう。あなた自身が知の誕生を支える産婆になるのだ。
 ソクラテスは、「バカの壁」を設けず、知恵をどん欲に吸収するというロールモデルを見事に体現した人物だ。コーチング技術の発見(産婆術の再発見)が行われたことで、改めてソクラテスの偉大さが再認識されつつあるように思う。
 新しい事業を起こしたい、新しい発想の商品を生み出したいという人は、ソクラテスを見習い、バカの壁を設けず、あらゆる人から「訊く」ことで知を生み出す産婆術をマスターしていただきたい。そうすれば、ビジネスの世界はもっとワクワクするような現場に変わるだろう。




津田大照 

2018年12月23日 (日)

話はわかりにくくても、「ホントの事を言う人」が、やっぱり一番信用できる。

リンク
自宅の近くに、子供の調子が悪い時に診ていただく、小児科医の先生がいる。
はやっている病院のようで、近所には子供が多いので、いつも診察待ちの人々が溢れているような状態だ。
 
ところが妻に聞くと、その小児科医の先生の、近所の人達の評判は、真っ二つに分かれるという。
 
一つは、「とても誠実で、信頼できる」という高い評価。
そしてもう一つは、「はっきりしなくて、信用できない」という低い評価。
 
熱狂的なファンがいる一方で、めちゃくちゃにこき下ろす人もいて、カルト的人気(?)を誇る診療所である。
それにしても、なぜこのように評価が明確に分かれるのか。
 
先生にかかってみればすぐに分かるのだが、私が強く感じたのはこの先生、おそらく「正直すぎる」のである。
 
例えば、昔、娘が熱を出して、変な咳をしているので病院へ連れて行ったときのこと。
先生に聴診器を当ててもらい、喉を見てもらい、耳の中を覗いてもらったあと、先生はこう言った。
(注:会話はうろ覚えなので、医学的な見地からは、会話の中身が正確でない可能性がある)
 
「んー、中耳炎の可能性はないし、肺からおかしな音もしない。喉が赤いから、まあ、ウイルス性の風邪の可能性が高いですね……」
「風邪ですか、良かったです。」
「ただ、せきの音がちょっとね……。」
「おかしいですか?」
「クループかもしれないねえ。」
 
説明によれば、クループというのは、喉がウイルスなどに感染して、呼吸が困難になる状態のことで症状がひどいと、窒息死に至るケースもあるという。
窒息死、と聞いた時点で、私は少なからず動揺した。
「どうすればいいでしょう?」
「薬を出しておきますけど、今の段階では、正直、加湿する以外に、あまり有効なことはできないですね。」
 
「そ、そうなんですね。夜に特に咳がひどいんですけど、息がくるしそうだったら、病院に連れて行ったほうがいいですかね?」
「そうなったら、迷わず救急車を読んでください。ただ……。大抵の場合は救急車は間に合わないと思います。呼吸が止まったら数分持たないですから。」
 
……先生、正直すぎるぜ。
 
「あと、あくまでも可能性、リスクがある、という話であって、重篤化するのは稀です。また、クループ、というのもあくまで可能性の一つですから……。」
「そ、そうなんですね。重篤化するのでしょうか?」
「いやー、わからないね。なんとも言えない。経過を見て、症状がおさまらない場合は、また来てくださいとしか。」
 
先生が言うには、要するに、薬を飲んで安静にしているほかは特にやれることもない。
重篤化したら運が悪かった、病名も可能性でしかわからない、ということのようである。
つまり、病院に連れて行っても、あまり安心できなかったのだ。
この記事は、医師の抱えるジレンマを本質的に示している。
患者は、「はっきりとした原因の究明と、適切ですぐに効果の出る治療」を求める。
命がかかっていれば、なおさらだ。
だが、実際に医師ができることは、「病気の原因の仮説と、治療手段の可能性を示すこと」に過ぎない。
 
おそらく、「はっきりしなくて、信用できない」という低い評価を与える人たちは、はっきり言ってくれない、断定してくれないことを嫌気したのだろう。
極端な話、「嘘でもいいから、安心させてくれ」という要望である。
 
しかし、である。
私はこの小児科医に、むしろ好感をもった。
 
なぜなら、この医師は間違いなく、本当のことを言っているからだ。
「病名を断言することは難しく、かつ、今はできることも限られている」と、この医師は言った。
そして、それはおそらくそのとおりなのだ。
 
ここに、医療の難しさがある。
世界中で「トランプ的政治家」が人気を集めているという記事を見た。
「トランプ的政治家」が世界で増殖中
この話はとても良くわかる。
「わかりやすい敵」を設定すれば話はとても単純になるし、手軽に安心感も得られる。
 
だが、本来政治は複雑であり、会社経営と同じく、あるインプットに対して、線形のアウトプットが得られる、という性質のものではない。
物事をそのように単純に捉えることばかりをしていると、上の経営者のように、右往左往するだけで、結局何も成果をあげることはできないのである。
 
私は「シンプルな打ち手」や「明快な発言」をする専門家には確かに魅力を感じる。
だが、信頼できると考えるのは、冒頭に紹介した、わかりにくい話であっても、煮え切らなくても、ホントのところを言う、小児科医の先生のような方なのである。





長曾我部幸隆

2018年12月19日 (水)

近代観念によって生物としての可能性収束力が低下している

人工物質をテーマに30年後を考えてみると、オーガニック食品や無農薬農業などが人気になっていたり、農業への注目度があがってきていたりと、
食品添加物に関するニュースが多くなっている。
自動車の排気や石油の使用から電気自動車や水素電池への開発へシフトしているなど、人口物質に頼る割合は減っていると思う。
それは誰もが、潜在的に本源収束しており、一部の顕在化した人々がけん引しているからだろう。
自動車の排気による大気汚染やプラスチックゴミでの生態系や人体への影響、食品添加物の危険性などがニュースで流れるようになったし、インターネットでも検索できるようになった。
人工物質が明らかに「悪者」であるのに、人々の意識転換のスピードが変わらないのはなぜか。
それは、近代観念による「潜在的な否定視(不可能視)」ではないか?言葉を換えれば、「可能性収束力の低下」といえる。
生物史で見ても、可能性収束が本能的な機能であるのに、その力が低下している・作動していないという現状は危機感を覚える。
筆者自身も、可能性は感じるけど、いざ言われると「あれがなくなると困る」「これは無くなってほしくない」といった不可能視や自我が出てくる。
しかし、グループでの議論は、人工物質なしの世界をみんなで可能性と感じることができる。それはなぜか?
個人の場合、思考回路が近代観念に支配され、共認機能が低下。本能と観念が繋がらない言葉・気持ちが出てくる。
一方で、集団の場合、共認機能によって個人では不可能だと感じたことが、可能性となり替わるという気づきを得た。
また観念の転換スピードは一瞬というのも、集団あっての話ではないかと思う。
なが~い生物史の中で、本能⇒共認⇒探求⇒観念という段階を経て、外圧を突破してきた人類だが、観念が近代観念で支配されている今、そこを突破するのは、本能と共認機能になってくるのはず。
だからこそ、共感経済といった「共感○○」という共認による突破口が顕在化しており、それが「新しい観念」に繋がるのではないだろうか。




takajin

2018年12月 1日 (土)

形にとらわれていたら可能性が狭くなることに気付けた

最近、これまでモヤモヤしていたことですっきりしたことがある。
それは、「枠にとらわれているという事に気づけたこと」
店長になってから、どんなことをすればいいんだろう?と考えていて、それを考えるうちに店長像のようなものを作り上げていたと思う。その店長像が不安の要素だった。
今の状態は、「店長」という形はあるが中身がない。
パートさんがやってくれている業務内容も把握しきっていないし、レジの開閉すらたどたどしい。
できないことがたくさんあることが、不安に繋がりモヤモヤしていたんだと気づいた。
そして、自分は今まで店長と言う枠にはまろうとしていたことに気づいた。店長と言えど、経験は一番少ないし、知らないことが多い。
その中で、店長だから何でも知っていなきゃ、という思考が働き、名ばかり店長になっていた。
できないことは、やっていくしかない。
不安に思うなら解消に向かえば良い。
不安を解消するために、もう一度パートさんに教えてもらいながら、中身を詰めていくことにした。できることが増えると自信に繋がるし、なんだかすっきりした。
形を先に作るのでなく、中身が詰まって形ができていくものなのかな、とも思った。
つまり、みんなの期待の方向が形を決めていくイメージ。
その舵とりをするのが店長なのかな、とぼんやり思った。
そのためには、もっとみんなと信頼関係を築いていきたいし、今後はいかにして、仲間に巻き込んでいくかを目指していきたい。
まだそれぞれの個性を掴みきれていない部分が多いので、いっぱい話して相手は何に活力がわきやすいのか、どういう風に期待を掛けていけばいいのか、などを掴んでいきたい。




 
狩野幸花

「事実」と「意見」の違いを見極める力が求められている。

世間には事実とそれを模した嘘や個人の主観にまみれた虚構に溢れている。
どれが事実なのか見極める力が求められている社会において、
この「事実」と、ある個人の偏った「意見」を判断するということはとても重要である。
(以下参照文)
世の中には、結論だけの意見や屁理屈が蔓延する。
形だけの根拠ではなく、実質的な根拠があるかどうか、念を入れて確かめる必要がある。
意見の良しあしを見きわめるポイントは、意見の「根拠の有無(または強弱)」を押さえることである。
本文の通り、「根拠の有無」言い換えれば、
事実を元に語られている内容なのかが重要なのだ。
結論だけ一つ覚えに語るタイプ。
見せ掛けの根拠に頼るタイプ。
これらはの人間は自ら追求したことを持っての言葉で語られていない、
かりそめの事実のもとに成っている。
重要なのはそれらの見極められるかどうかにかかっており、
事実を追求するうえで求められる力である。
参考:リンク




ABC豆

2018年11月30日 (金)

裏権力の両建戦術を突破するには、思考を開放し事実を追求すること

近代観念の問題性は、自由や平等といった相矛盾する価値を全面に押し立てて、人々を分断し、思考停止に陥らせるところにある。そのような近代観念を戦略的に駆使してきたのが、国際金融資本であり、奥の院である。彼らの「両建戦術」に対抗するには、我々自身が、近代思想の檻から脱却し、思考を開放しなければならない。そのポイントをブログ「国際秘密力研究」は①問題の本質を突くこと②抽象的ではなく具体的であること、そして③「核心から逸れた抽象論ではなく、現象を観察した結果得られた道理・事実に適合する判断」をもつことであると説く。
思考を開放し事実を追求することこそが突破口であると私も思う。
リンク
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裏権力は両建戦術を常套手段としている。「国際秘密力は基本的戦略思想として「正・反・合」のヘーゲル弁証法を採用。現実への適用例「相対立する政治勢力AとBを作りだし、両方を操作して予め意図した結論Cに誘導」
「両建」とは、二つの相対立する勢力(右翼と左翼、自由陣営と共産陣営等)にテコ入れして人々を所期の目的を達成する方向に誘導する事である。「対立」はあくまで偽装であり、どちらを選んでも、裏権力に都合のよい目的に誘導される仕掛けになっている。
裏権力にとって好都合な選択肢を用意して、どれを選んでも同じ結論に至るように設定されている訳である。したがって、両建に嵌められると本体である裏権力には永遠に辿り着けず、堂々巡りさせられる結果となる。
両建で用意される選択肢は以下の特徴のいずれか、又は両方を持っている。
①問題の本質から逸れている。
②具体性が乏しく抽象的である。
両建を破るにはこれの逆を行けばよい。
①と②を共に破る方法論こそが「中道」である。
即ち「中道」とは
①問題の本質を突く
②抽象的ではなく具体的
な判断・行動、という事になろう。
よく混同されがちだが、中道は中道主義とは違う。そもそも中道は「主義」ではない。「主義」という固定的なイデオロギーではなく思考方法である。「道に中る」「道理や事実に適合する」という事である。
※「道理=理」「事実=事」とすると「事理に合致する事」とも表現できる。現象(事)とそれを成り立たせている法則や原理、人間が依って立つべき当為としての道理など(理)。慈円の愚管抄に見られるように、我が国中世の歴史観では「道理」という理念を重視した。
具体的な歴史的出来事に対して、そこに見られる法則としての「道理」。前者が「事」とすると後者が「理」である。事と理=事理で人間が語り得る全てを表す。
仏教の初期経典に以下のような話が載っている。
仏陀に「苦は自作ですか。他作ですか。自作かつ他作ですか。自作でもなく他作でもないのですか。」
と質問する者がいた。それに対して仏陀はそのいずれをも否定し、
「苦は触で生じる」と答えた。
苦が自から生じると言っても、苦が他から生じると言っても、「触」言わば個別具体的な認識作用が全くないのに、それでも苦が生じるとは言えない、という訳である。
苦の原因は自でも他でもなく「触」(認識作用の端緒)という観察可能な現象だという事。「触」ではなく「十二支縁起(十二因縁、十二縁起)」で答えるバージョンもある。
十二支縁起は「無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死」という苦が生じる認識論的プロセスである。
この中でも「触→受→愛→取」が特に重要で、触は苦の直接的原因である愛(渇愛)・取(執着)が生じる認識作用の発端となる謂わば善悪の分かれ目、分岐点である。
苦は自生だ他生だと言い争う者達も「触無くして苦が生じる」とは言えないように、具体的な問題を抽象的なイデオロギー論争にすり替えて「右だ」「左だ」と言っている者達も、日本国民である以上はTPPなどでISD条項が押し付けられると主権を失い、結局奴隷状態になるのである。抽象論を排して具体的に思考し、物事の核心をズバリ突く事が「中道」である。



山澤貴志

«コトバ崇拝の西洋思想、コトバの危うさを自覚している東洋思想

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