2018年11月10日 (土)

コトバ崇拝の西洋思想、コトバの危うさを自覚している東洋思想

前回参加した実現塾では「近代観念の弊害」のみならず「観念そのものの持つ危うさ」についても追求が及んだ。確かに言葉は現実を固定するのに便利な手段だが、言葉化されたとたん、現実との乖離が始まる。日本神道の「言挙げせず」、仏教の「空」、いずれもが「観念」が「縁起=事象のつながりの中でどんどん変化していく現実」と遊離していくことへの戒めを含んだ認識論である。
潜在思念と一体となった東洋的思考の重要性を再認識していたところ、以下の「国際秘密力研究」というブログの認識論が目についた。「奥の院」は人々を「近代思想や宗教」を道具として使い、人々を思考停止させ、対立させ、支配していると分析し、そこから脱出するためには、「はじめにコトバありき」の西洋思想からの脱却が不可欠であると説く。全く賛同する。
以下、リンク 「理性崇拝思想の解析と批判」から引用。
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〇「イルミナティ思想とは理性崇拝教」と考えているが、では「理性崇拝」とは何かを考えてみたい。「理性崇拝」で言う「理性」とは要するに言葉を使う能力のことではないだろうか。感覚やそれを概念的にまとめる悟性の能力に対して「理性」は概念を繋ぎ合わせて推論する能力と考える。
〇まず言葉で対象を分節化し概念化する。その概念をさらに組み合わせて推論をする。その推論が実践性を持つならば「理想社会の建設」などという政治行動になったりする。理性崇拝とは要するに対象を分節化させたうえで観念上さらには実践上において操作する能力を崇拝する思想だということができる。
〇この理性の作用のプロセスの中核は言葉が占めている。であるから理性崇拝はつまるところ言葉の崇拝であり、「初めに言葉ありき」の聖書思想に起源の一つがあると思われる。他の起源は言うまでもなくプラトン哲学である。中東思想は全般的にロゴスを重視する。ヴァイスハウプト(引用者注:イルミナティの創設者)もその流れにいる。
〇それらは即ち言葉によって分節化された形で立ち現われてくる世界の姿(イデア的背後世界も含む)を世界のそのまま実相だと観じる実体主義的世界観である。
〇対して仏教では言葉は自己を含む世界の分節化した相をもたらす迷いと執着の根源と考える。もちろん仏教でも言葉を大切にする。しかし言葉が示す概念を実体視し形而上化させることを戒めるのである。この方向性は「実体主義から関係主義へ」という20世紀以降の現代哲学の傾向とも多少通じる。
〇空の哲学では言葉で分節化された分節態(この物、あの物として指し示せる個々の事物)を縁起に依らないそれ自体で存在している実体として捉える実体観を排斥する。・・それでも言葉は現実の作用を持つ。むしろ実体ではないからこそ作用を持つのである。言葉は空であるから作用を持つとは龍樹の言である。
〇意識から生まれる概念をいわば外部化させる実体思想。言葉による現象世界の分節化・実体視の克服=空観。神道では言霊という思想があるが、これは現象世界の背後世界を意味する抽象的実在というより、まさに現象世界で現象的に具体的な作用を及ぼす一種の言葉の動態的作用として捉えられている。
〇例えば「憎い、憎い」と常に思っているとそれが無意識に影響を与えそれなりの人格になってしまう。恨みがましい人格は一日にしてならず一瞬一瞬の言葉を伴う意識作用の積み重ねで形成される。
〇このように「言葉」を巡る抽象的実在論的な捉え方か、具象的現象論的な捉え方かで東西が分かれてくるように思う。我々日本人におなじみ「色即是空」という句は非常に深い哲理を蔵している。逆に「言葉=ロゴスの絶対化」という点で一神教も神秘主義も啓蒙思想も共通しているのである。




山澤貴志

2018年11月 3日 (土)

新しい活力源と生きる目標2.思考のベクトルが逆転した架空観念

このように、本源可能性の実現に向かう潮流は間違いなく上昇し続けています。ところが、活力源は仲間なのに現実にはいじめがあったり、もっとやりたいことがあるのに勉強を強制されたりして、現状は本源充足を実現することが出来ずに立ち往生しています。
その実現を阻んでいるのは、学校制度を初めとする様々な社会制度ですが、それらの制度を作り出したのは、観念(言葉や思想)です。そして、現代の制度を生み出したのは、近代観念、つまり自由・平等・博愛や個人主義や民主主義や権利主義という観念群です。
学校の教科書も、全てこの近代観念によって記述されています。また、親の「いい生活⇒いい大学⇒勉強しなさい」は何十年も前の古い常識ですが、そもそも大学も学校も全ては近代観念が生み出したものです。
この近代観念は、全て「あるべき姿」を表した言葉、つまり綺麗事に過ぎません。例えば、「みんな仲良く」という言葉は、いかにももっともらしい言葉で、誰も反論できませんが、現実にはいじめやスクールカーストが蔓延っており、「みんな仲良く」という言葉は、そのような仲間世界の現実とは間逆の逆転観念です。むしろ、現実が苦しいものであるがゆえに現実から反転して作られた願望に過ぎません。自由や平等や民主や権利という言葉も同様で、現実が苦しみに満ちているがゆえに現実から反転して作られた架空観念に過ぎません。
この架空観念は、人類本来の思考が生み出す事実の認識とは異なっています。
現実に生きる人々は、みな行動しながら追求しています。発明家や起業家はもちろん、経営者や会社員も、みんな行動する中で現実を直視し、事実を追求し、それなりに答えを出して生きています。それが、人類本来の当たり前の思考のベクトルです。
ところが、架空観念の思考のベクトルは、現実ではなく現実から反転した非現実の世界に向かっています。つまり、人類本来の思考ベクトルとは逆転しています。
それでは人類は、いつ、なぜ、思考ベクトルを逆転させてしまったのでしょうか?それは、古代宗教の登場とともに始まっています。私権の強制圧力は、戦争や支配や貧困など、様々な苦しみを作り出しましたが、その苦しみがどれだけ大きくとも、万人が私権の獲得に収束してその苦しみに満ちた現実世界を作り出している以上、現実世界を変革することは不可能です。この変革不可能な現実の壁に跳ね返されて、思考ベクトルを反転させるしかありませんでした。つまり、現実に対する不可能視こそ、人類が思考ベクトルを反転させた真の原因です。
ただし、古代宗教といっても、当時の各民族に残存していた本源性の度合いによって、その方向は異なります。皆殺しの略奪闘争によって本源集団が破壊され尽くした中近東のユダヤ教は、180度逆転した反現実の世界へ向かい、ある程度本源性が残存していたインドの仏教は、90度上方へ向かって脱現実の世界を構築し、氏族共同体が残存していた中国の儒教は、30度ほどずれた規範観念の世界へ向かいました。
問題の近代観念は、180度逆転したユダヤ教の思考ベクトルをそのまま踏襲しています。近代観念の全てが架空観念となった理由はそこにあります。従って、自由や民主や権利等の近代観念は、唯一絶対神を小分けにしたものだとも言えます。全ての観念が唯一絶対で、極めて排他的であり、また、そこでは信じるか信じないかだけが問題で、いったん信じた後は、人々を思考停止させてゆきます。
もちろん、非現実の世界に構築された架空観念は、初めから決して実現されることはありません。また、現実の問題に答えを出せるわけもありません。にも拘らず、いかにももっともらしく頭上に掲げられた観念が架空観念であり、その意味では、架空観念は人々を欺く欺瞞観念だとも言えます。




岡田淳三郎

2018年11月 2日 (金)

感謝の気持ちをそそぐ~ベースにあるのは肯定視~

相手への感謝、肯定視にあふれている人は、ありのままの現実を受け入れる徹底した現実直視があることが見て取れます。
*****以下、賢者の心得から転記リンク
感謝の気持ちをもてる人は、感謝を感じ取れるバイブレーションをもっている人です。そしてその人は、あらゆることの中に感謝すべきものを見いだすことができるでしょう。人から施しを受けた時に感謝することは簡単です。どんな苦難の中にあっても、それでも感謝の気持ちをもてる人は感謝ということの真の意味を理解し、体得している人だと思います。
この「感謝の気持ちをそそぐ」という智恵の種について、賢者たちは次のような表現を用い、私達にアドバイスを送っています。
「今のあなたの、あるがままを感謝しなくてはならないのです」「人は、今、この時点で「完璧だ」「豊かだ」と思うと、豊かさが育っていく」
「変な人が書いた成功法則」斎藤一人
「『感謝想起』をしたからといって、売り上げが上がる訳でもなく楽ができる訳でもありません。世の中の厳しさは同じです。しかし、耐える力が増し、良いほうに向く縁をもてます。『神は自らを助ける者を助ける』と言われるように、『感謝想起』により、自らの内在神を育てた者は内在神が助けます」
「内在神への道」伊勢白山道
「朝起きた時でも、寝る前でも、いつでもええ。親にでも、ともだちでも、モノにでもええ。世界をかたちづくっている何にでもええから、感謝するんや。足りてない自分の心を『ありがとう』て言葉で満たすんや。ありがとう、ありがとう、みんなのおかげて私は満たされています。幸せです。そうやって感謝するんやで」
「夢をかなえるゾウ」水野敬也
「この世の中で起こることはすべて中立で、『いいこと』も『悪いこと』もありません。あるのは解釈の違いだけです」「起こったことを肯定的に評価できる人は、それを教訓や試練と考え、起きた現象に対して『感謝の気持ち』を持つことができます」
「心を軽くする言葉」小林正観
「『欠けているもの』や『足りないもの』に目を向けないでください。寂しいときや満たされないときにでも、ひたすら感謝の種を探し、どんなに小さい進歩でもそれを喜ぶようにするとすごいことが起こります」「『私って恵まれているなあ』『私って幸せだなあ』と思っていると、次から次へと幸せがやってきます」
「毎日、人に話し切れないほどたくさんの『いいこと』を見つける」
「その日『何に感謝したか』ということを記録する『感謝日記』をつけてみるのもよいでしょう」
「幸せだから感謝するのではありません。感謝するから幸せなのです」
「感謝の気持ちに理由はありません。もっているものがどんなに少なくても、感謝することはできますよ。感謝とは、あるがままの状況を素晴らしいと考え、一瞬一瞬を満たされた気持ちで生きることです」
「『脳にいいこと』だけをやりなさい!」マーシー・シャイモフ
「では、ネガティブな心もポジティブな心もどうすればよいのか。
ネガティブに偏った心は、まずは気づきを深めていき、ポジティブに変えます。対象や物ごとへの見方の視点を変えます。心が自分を守るために敵をつくり、抵抗しているのが否定の心です。許しと感謝を育むことが必要なのです。
そらにそれをも超えて、真んなかのニュートラルな状態にもっていくようにします。ニュートラルとはゼロの状態です。ゼロにして、心を超えていくのです。するとそのとき、なかから無限のパワーが出現します。心を超えたところに、すべてを可能にするパワーがあり、愛があり、知恵があるからです」
「ヒマラヤ聖者の超シンプルなさとり方」ヨグマタ相川圭子
「自分の心の中に神を見いだす信仰を始めると、日常の生活の中に隠れている、有り難い事々に気づき始めます。この日常での感謝心が、自己の心に存在する神=良心を大きく現せ始めます。そして現実的な作用を起こさせます。
そもそも私たちは、自分の心を大きくするために、この世へ生まれてきたのです」
「大事なのは自分が生かされている事への感謝の気持ちを持てるかどうかです。これに気がつけば、現実界の人生に起こる悲哀こもごもに、どう対処すれば良いのかが自ら見えてきます。」
「内在神と共に」伊勢白山道
「成功したときに、『これはラッキーな出来事のおかげ』と、自分の人生に起きた出来事を有り難いと感謝の気持ちで受けとめていると、あたかも人生に意思があるのかのように肯定的な流れが生じ始めます。幸福と出会う頻度が高くなっていくのです」
「偶然をチャンスに変える生き方」諸富祥彦
「社会の統制から我々を解放するための最も重要な第一歩は、その時その時のできごとの中に報酬を見出す能力を身につけることである。経験の一つ一つ、流れや生活の過程それ自体を楽しみ、その中に意味を見出すことを身につけるならば、社会による統制の重荷は自然に肩から落ちる。」
「フロー体験・喜びの現象学」M.チクセントミハイ
******以上、転記終わり




 
楊数未知

2018年10月29日 (月)

ミスを受け入れ、弱い自分を認める

”新次元の光”リンクより引用
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「自己責任」を実行するのは容易ではありません。私たちは子供の頃から「ミスをする事は悪い事だ」と教えられてくるなど、ミスに対して寛容でない社会に生きているからです。
 
責任を取るという事は「自分を許し、容認する事」です。自分がミスを犯した時、どれだけプラスに捉えられるか、マイナスに捉えるかによって自己容認の程度が決まります。自分をマイナスだと思う程、責任回避の傾向は強くなり、恐怖心が強まってきます。
 
一方、自己容認の程度が大きいと、それだけプラス思考になり、物事の勝負時にあたって恐怖心を和らげ、「経験」から多くの教訓を学ぶようになります。それは自分にとって都合が悪い情報を避けることがなくなるからです。
 
だから、物事で成功するためには、これまでとは違った発想で責任をとる必要があります。例えば、「自分にメリットをもたらしてくれるか否か」などといった、責任を他人や世の中に転嫁する様な考え方をやめるなどです。
 
というのは、大きなチャンスがあると思って何かに挑戦した直後に、自分の勝手な都合で方針を転換することもあるなど、世の中は常に変化しているので、世の中は常に正しいととらえ、こちらがそれに素直に従うべきだからです。
 
ところが、失敗を繰り返す人は、責任を世の中や他人のせいにする傾向にあります。それは、望む自分と比較して、現実の自分を受け入れる事ができないからです。
 
が、自分の弱さを認めなければ、いつまでもよそ行きの偽った自分で人生を歩む事となるでしょう。
 
このような事を避けるためには、寛容な心で今の自分を受け入れ、また自分より劣っていると思われる人に対してとっている不寛容な態度を改め、自分と同じ様に許し、受け入れることが大切です。



匿名希望

2018年10月22日 (月)

「今すぐやる」を可能にする考え方と技術について。

自制心を身に付けるには、想像力が必要。
未来の感情をハッキリと思い浮かべることで、課題に手をつけるスピードが上がる。
引用元:リンク
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6歳になる娘が、最近「明日からやる」と言うようになった。
例えば、娘は幼稚園から日別に課題を出されるのだが、その課題になかなか手がつかない。
今は夏休み中ということもあり、「課題はどうしたのか」と尋ねると、「あしたからやる」と答える。
なるほど。
だがこの発言はあまり望ましいとは言えない。
なぜなら「あしたからやる」は、弱い自制心の現れだからだ。
人生をある程度望ましい方向にコントロールする上で、「自制心」は非常に重要なファクターだ。
自制心の欠如は、ありとあらゆるシーンで、ペナルティとなる。
私は娘に言った。
「明日やるという言葉は、今日からできることに対しては、言わないほうがいいと思う。」
「なんで?」
「……」
私は回答に困った。
自制心が大事だということはわかっているが、「なぜ、「明日」ではダメなのか」と率直に問われると、説明が非常に難しい。
「自制心をつけるため」という説明もしっくりこない。
なぜなら、「先送りするな」と脅して娘が課題をクリアしたとしても、娘の自制心を鍛えたことにはならないからだ。
むしろ「怖い人の言うことには黙って従え」という間違った教訓を与えることにもなりかねない。
「ぜったいあしたからやるからー」と、娘が繰り返す。
私は迷った挙げ句、
「わかった、明日は必ずやるんだよ」
と折れた。
私がきちんと説明できないことを娘に要求することはできないし、娘の意思を無視するわけにも行かない。
翌日。
残念ながら、というか予想通り、娘はまた課題をやらなかった。
私は娘が一向に課題を始めないことにイライラしていた。
「きのう、あしたからやるって言ったよね?」
流石に娘はバツが悪かったのか、
「言ったけど……」と口ごもる。
「ではなぜやらないの?」
「あんまりやりたくない気分」
「……」
人は、なぜ「いまサボれば(またはやってしまえば)悪い結果が待っている」と知りつつ、
「いま、楽をしたい」
「いま、快楽を得たい」
という衝動に負けてしまうのだろう。
人間の脳は「感情・気分」が殆どの場合「論理・事実」に勝ってしまうので、結果をそのまま予測することでは行動は変わらない。
娘がそうだったように、頭で理解していても、行動には移せないのである。
 
例えば
・たばこを吸うと肺がんになる可能性が上がる
・減量しないと高血圧、高脂血症などに繋がり、様々な疾患の可能性が高まる
というのは事実であるが、これを「知って」いても、行動は変わらない。
ではどうするか。
ウォルター・ミシェル氏は自分自身の禁煙体験をとりあげ、
行動すること、しないことの結果がもたらす「気分」を、よりリアルに想像することが効果的であると述べる。
実際、ミシェル氏はヘビースモーカーであった。
彼自身はタバコの危険性を合衆国衛生局のレポートを読み、知っていたが「喫煙は学者の生活様式の一部で、他の人も喫煙している」と自分を正当化していた。
だが彼はある日、スタンフォード大学のメディカルスクールで、ストレッチャーに固定された肺がんの男性を目撃する。
彼が看護師に話を聞いたところ、がんはあちこちに転移しており、今から放射線治療にゆくところだという。体にはあちこちに緑の印があり、それは放射線を照射する位置を示していた。
彼はこの光景を見てショックを受け、ようやく禁煙を決意した。
彼はタバコを嫌悪感をもよおすものにするため、灰皿に顔を突っ込んで思い切り息を吸い込み、がん患者の姿を思い出すように努め、三歳の娘に「娘は指しゃぶりを、氏はたばこをやめること」を交換条件として契約した。
結果的に、数週間で彼は禁煙することに成功した。
遠い将来に起きるかもしれない感情を、今シミュレーションすることで、人は今すぐ、行動することができるようになる。
私は娘に言った。
「今日、課題をやらなかったら、後でどんな気持ちになると思う?」
「んー……。いやなきもちになるとおもう」
「どんな?」
「あそんでても、たのしくなくなっちゃうし。」
「じゃあ、今課題を楽しくやるにはどうしたらいいと思う?」
「お父さんにいっしょにやってもらったら、たのしいとおもう。」
そう言うと、娘はおもちゃなどがない、廊下に向かって走っていった。
「妹ちゃんがいたり、おもちゃがあると、きになっちゃう。こっちでやる。」
ほんのちょっとの技術と、環境次第で誰でも自制心は身につけることができる。
そう思った。




土偶 

2018年10月 7日 (日)

世界の一流リーダーたちが「禅」に惹かれる理由 ~実践重視の考え方に共感

世界の一流リーダーたちが「禅」に惹かれる理由(リンク)より抜粋して転載します
         < 前略 >
◆世界のリーダーはなぜ「ZEN」が好きなのか
◇仏教は「ゲイン」ではなく「ルーズ」である
 著者には日本の宗教家という立場で、世界各国の政治家や実業家と交流する機会がある。そのたびに、仏教や禅の教えについて熱心に聞かれるという。世界のリーダーたちが注目しているのは、仏教の中でも特に禅の考え方である。禅は「ZEN」という言葉として、今や世界的に広く認知されている。
 なぜ世界の第一線で活躍する人たちが禅に魅了されているのか。その理由は、物質的には不自由がなくなってきているため、精神性を求める人たちが増えているからではないか、と著者は考えている。著者が強調するのは、仏教を信じたからといってすぐに何かが得られるわけではないという点だ。仏教、特に禅の教えは何かを「得る」ための手段ではなく、むしろ何かを「失う」ためのものである。仏教がめざすのは「ゲイン」ではなく「ルーズ」だ。つまり、何かを新たに手に入れるのではなく、むしろ今まで積んできたものを崩していくために、経を唱えて坐禅をする。失うとは、余計なものを削ぎ落とすことであり、それによってもっとも大切な本質に目を向けるということなのである。
◇禅が外国人に支持される理由
 禅に影響を受けた外国人として最も有名なのはおそらくスティーブ・ジョブズだろう。彼が禅から得た影響は、アップル製品のシンプルで美しいデザインの中に息づいている。余計なものをなくして本質と向き合う。こうした禅の考え方は、普遍的なものであるからこそ、文化を問わず多くの人の納得を得られるのだろう。
 また、禅は経典を勉強するのではなく、坐禅を組んだり掃除をしたりするなど、身体で実践することを重視するため、言葉がわからなくても問題なく体験できるのである。こうした点が、キリスト教徒やイスラム教徒にも幅広く受け入れられている理由の一つだ。
 そもそも、文字で書かれたものは受け取り手の解釈にゆだねられてしまうため、言葉で仏教の本質を伝えるのは難しいと考えられている。よって、文字や言葉ではなく体験で悟りをめざすのだ。
◇理屈を超えたところにある「禅」の教え
 禅を体験した外国人の多くは、「なぜこんなことをするのか」と疑問を抱くという。なぜ掃除がそんなに大切なのか、なぜ食事の作法がこんなに細いのか。論理を重んじる西洋の人々にはなかなか理解されない。
 しかし、重要なのは「実践する習慣」を身につけることだ。そうすると、一見意味のないように見えることの背後にあるものが見えてくる。一方、西洋の文化では一つひとつの行動に因果関係、そしてゲインを求めるため、禅の教えがなじみにくいという面がある。そこで、実践重視の考え方に共感できるかが、外国人が禅の世界に入ってこられるかどうかの分かれ目となる。
 食事のルール一つとっても、禅が良しとする動作はすべて考え抜かれた究極形であり、無駄なものは何ひとつない。こうして、禅の教えを実践に移す中で、理屈を超えたところで即座に反応して適切に行動できるようになるのである。
         < 中略 >
◇リーダーシップをどうやって身につけるか
 リーダーシップとは、自ら意気込んで生まれるものではない。本当のリーダーが生まれるのは、周囲が「あいつがリーダーだ」と認めたときだ。リーダーとして認められる人の共通項は、「当たり前のことをきちんとできる」という点である。思い上がらずに、人としてやるべきことをやる。それによって、周囲からの信頼が生まれ、いつのまにかリーダーシップが醸成されていく。
 禅の修行では、禅問答というものがある。悟りに到達するために指導者から与えられる「公案(こうあん)」に、自分なりの考えを示すのだ。重視されるのは、論理にとらわれずに、自分自身の力で道を見出していくことである。これはリーダーシップに求められることと通じる。理屈ではなく、自分の信念に従って考え、それを実行に移す。こうした「筋を通す」という考え方が非常に大事になる。
         < 後略 >




瀬部倫一郎

【禅語】身心~イライラを治すなら、心ではなく体に意識を向けたほうがいい~

注目を集め始めている【禅語】。禅の大きな考え方は内面を変えるためには身(行動)が先にあるというもののようだ。
人間下手に考えて動けなくよりも行動した方が成果につながるということを示しているのだと思う。
以下こちらから引用リンク
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「禅」という言葉の語源は、インドのサンスクリット語の「ジャーナ」。
意味は、「心を整える」。
けれども心を整えようとするとき、心を整えようとは考えないのが、禅における心の整え方。
「……? 何をわけのわからないことを言っているんだ?」
きっと、意味不明の論理に聞こえることと思う。
整えるのか、整えないのか、どっちなんだと。
しかし、ここは大切なところなので今一度よくよく考えてみたい。
心を整えようと意識して、本当に心を整えることができるものかということを。
何か頭にくる出来事があったとして、どうしてもイライラが治まらないとする。
そのイライラを消そうと思い「消えろ消えろ」と念じたところで、本当にそのイライラを消すことができるだろうか。
意識と感情のコントロールに長けていて、意識でもって感情を消すことができる人はそれでいいのだが、そんな達人的技能を習得している人ばかりではない。
イライラを消そうと思ってイライラに気を向けることで、返ってイライラが募るという悪循環に陥ってしまう人も少なからずいることと思う。
ではどうやって人はイライラを消しているのだろうか。
超有名な手法の1つに「気分転換」がある。
読書でも映画でも食事でも散歩でも運動でも何でもいいのだが、何か別のことをして気を紛らわせて、イライラを意識しないようにするというか、忘れてしまう方法。
この「気分転換」という方法は、おそらく誰もが一度は経験したことのある、もっともポピュラーなイライラ対処法の1つだろう。
じつは、禅においてもこの「気分転換」の方法論と似たようなことを言うのである。
イライラを消そうとイライラに執着すれば、余計にイライラを意識する結果を招いてしまう。
だから禅においてイライラを消すとは、イライラを忘れることに他ならないのだと。
相手にしないというか、問題にしないというか、イライラとやり取りを交わすことをやめる。
そうしてイライラを忘れていこう、すなわちイライラと対峙しないで生活しようというのが、禅の発想の根本なのである。
〇身を整え、呼吸を整え、心が整う
で、冒頭の「心を整える」の話に戻るのだが、心を整えるとはつまりがイライラの心をニュートラルな状態に戻すことをいう。
しかし禅では、イライラを治す際に、イライラを治そうとは考えないのであった。
ではどうやってイライラを治すのか。
禅僧は昔から、心を整えるためにまず身を整えることからはじめた。
そして身を整えたあと、次に呼吸を整える。
心という目に見えない、掴み所のないものと違って、身と呼吸は自分の意識ではっきりと整えることができるからである。
そうして身と呼吸を整えた姿が、いわゆる坐禅の姿というわけだ。
さて、身と呼吸の2つが整ったのだから、ついに問題の心を整える番なのだと思いたいのだが、そうでないのが禅の面白いところ。
身と呼吸さえ整えば、心は自ずと整うということで、心を整えようと意識を向けることは禅ではしないのである。
冒頭で「心を整えようとするとき、心を整えようとは考えないのが、禅における心の整え方」と書いた意味は、このこと。
心は意識でもって整えるのではなく、身と呼吸に沿うように、自然と整っていくものだと考えたわけである。
この禅の考え方は珍しいものではなく、日常でも意識することなく同じようなことを考えていたりする。
たとえば小さな子どもは、食事の時間になってもお腹が空いていないということをたまに言う。
そんな時、「ご飯を食べる気になろうね」などと言ってみたところで、天邪鬼の如き子どものお腹は空かない。
ご飯を食べたい気持ちにさせるには、直接心にはたらきかけるのではなく、体にはたらきかけたほうが断然効果的。
手っ取り早いのは、外を走ること。
食事の前に家の周囲を駆け回っていれば、疲れてお腹が減ってくる。
気持ちもご飯を食べたいというものへと自ずと変化してくる。
つまりこれも、心を整えようとする際に、心を整えようとは考えない禅と同じ考え方なのである。
禅の考え方はいろいろと応用が効くのだ。
身と心は密接に関係し合っている。
けれども現代は心の時代。
身と心の関係は、まず心があって、その次に身がくる。
「心身科学」なんて言葉を見ると心の優位性が見て取れる。
心が1番。身が2番。
禅とは逆。
ちょっとした違いに思えるかもしれないが、このちょっとした順番の違いが、禅と科学の違いと言えるかもしれない。




玉田 聡

曹洞宗における禅とは? ・・・ 自我・観念思考を止め、只々「座禅」。そこから得られるもの。

《以下引用》リンク
■坐禅を進める、それが大乗仏教
坐禅を進める、それが大乗仏教やな。坐れば仏だ!坐ろう!みたいな。無理にでなく、気持ちよく。─なんで坐禅? 坐禅がな、それが理屈じゃなくて実体やからな。理屈で説くのは、本物にならん。ちゃんと実体を人に伝えないと、大乗仏教にならん。大乗は、自分以外の人も済度する。自分の幸福だけは願わん。自分のことはさておいても、人を救う。こうなると、もう坐禅しかない。本物でもって人を救わんとな。
悟りより、その実体を勧める。悟りとか観念で伝えるしかないものはとりあえず横に置く。そして、坐禅という本来の自己の実体そのものを伝えていく。坐禅の王道や。・・・禅とは宇宙なり!やな。マジにそうや。宇宙やな。この一瞬一瞬が、禅の真実。宇宙や。それを知るには、坐って、妄想を離れ、坐禅になる。
■手に入れるべきは、只管打坐
事実坐れているかどうか。坐れないということは、坐禅できないってことや。見性しても、坐禅やめる人いるやろ。坐れない人や。坐れるかどうか、これは意外に深いよ。道元さんが言いたかった、只管打坐、それが仏の姿ということが深いのや。只管打坐出来ない人は、仏の姿になれない人や。だから深い。手に入れるべきは、只管打坐や。
実を言うと、悟りなんて手に入っとる。只管打坐は簡単には手に入らん。なぜかと言うと、坐ることは大変なことやからな。私なんか、いまだに苦労しとるやろ?見性よりも難しい。死んでもなお只管打坐やで。只管打坐は修行しないと出来ん。悟ったくらいでは完成せん。その違いは大きい。打坐出来る出来ない、これが全てと言ってもいい。ある意味で、打坐出来るなら、見性なんて気にしなくてもいい。
■手に入れるべきは、只管打坐(2)
只管打坐というコンセプトにとらわれてほしくないけど、要するに坐るという事ね。ここは坐禅としては最重要。というか、これが核心やないかな。普通に、坐る、坐禅。しかも、毎日定期的に。それだけの話。公案なんて、まさに死ぬまで坐らせるための手段だよ。坐る事、これが一番。
私は、確かに見性に興味はあったし、おもしろそうやから頑張ったけど、でも、結果的には坐禅を継続することの方がためになることが分かった。見性は頑張ったけど、たまたまや。坐禅を継続するために見性したみたいなもんや。結局、目的は坐禅継続。坐り続けていることの方が、見性よりよっぽど大事や。
ブッダも、それに古代ギリシャでも、古代中国でも、瞑想、黙想、静坐、これらが重要視されていて、その中身についてとやかくは言われてないのに、その実行は語り継がれてる。みんな効果に目を奪われてるけど、実は、道元さんの言うように、座ることそのものが生活に重要なんやで。何でかと言うと、それこそが本来の自己の姿やから。それが私にはわかって来た。
■面壁のすすめ
面壁だと、「現象の世界」が静まっているので、「観念の自我」が浮き彫りになってくる。その浮き彫りになっている状況が重要で、自我による苦しみ、自我の問題、自我に振り回されている現実が、身にしみてわかる。その状況に身を置いていると、苦しいけど、そのうちにその観念の自我は崩壊していく。
頭の中のものは観念の自我であると見抜くこと。そして影響を受けないようになること。これが「ただ坐る」ということ。この時点で既に自我は幽霊みたいに実体のない存在になってる。そして、そういう目で世の中を過ごしていくと、・・・幽霊がたくさんウヨウヨしているので、衆生無辺誓願度、みんなを助けたくなる。幽霊として生きるな、宇宙本体として生きるんだよ、と。宇宙本体は生死がない。永遠の今しかない。そういうものが、本当の自分なんだと。
悟っても幽霊は消えないし、時空もある。坐禅しててもそれは相変わらず出てくる。それでいいんや。特に自我とか言わないでも、時空でも、なんでも、観念的なものは全て自我の片鱗や。それに執着すれば、強固な自我になる。要注意や。
■サンガ、只管打坐、無我
只管打坐はあまりにも深い。無我の身体表現とでも言おうか。サンガは只管に打坐する人々の集まり。只管打坐ですべて言い尽くしているし、逆に、無我でも足りないところを言い尽くしている。
言語や思考とは全く何のかかわりもないことが、只管打坐。黙って坐れ、何も聞かないで言わないで坐れ、何の理由も求めないで坐れ、だな。この何か理由を欲しがったりするのが自我だから、こういうのを頭から無視する。何にもなくして坐る。ここにとてつもない真理がある。ここにこそワンネスがある。
■悟りの最初のステップ
空っぽの体にまるで雲のように浮かんでは消える思考や観念。坐禅中に、この観念や思考をじっくり眺めていると、目まぐるしく動いているのが見える。この思考の雲の中に入ってしまえば、まるでその雲が自分自身であるかのような錯覚を覚える。でも実は、自分とは空、姿のないもの。
坐禅をしていれば、自然に空に戻る。その雲から離れていく。離れ切ったときに身心脱落する。見性する。本来の自己が空であることを悟る、これが悟りの最初のステップだな。なんだかんだ言って、基本的には「この雲の中に自己が埋没している事実」をしっかり知る事が大事や。それには、只管打坐の継続や。意識をヘソの下に置いて、只管打坐。雲は頭の中におるから。
《引用以上》




洞口海人

2018年9月25日 (火)

否定脳を否定することから生まれる光

先の投稿の続編となりますが…
斉藤一人さんのところには、あらゆる方面からの相談が舞い込んでくるようで。
中でも商売人からの相談が多く、「客足が遠のいて…」と、否定脳発でのグチが多いらしいのです。
そこで斉藤さん、「あのね、あなたの子どもが、1+1=2のところを、いくら教えても、試験でも3と答えたとするよね。そしたら頭ひっぱたくでしょ?でもね、あなたのしていることは、これと同じなんだよ。客がこない。なのに、日々、同じ事を繰り返している。笑顔もみせない。それはね、1+1=3と答えてることと同じ。2にするためには、改良しないとだめ。どうして客がこないのか。マズイから。飽きたから。だったら、そこを改良しないと。これって、当たり前のことなんだよ。当たり前のことができてないってことなんだよ」と。
もうひとつ。
夫がリストラされかけて、心配ばかりしている奥さんがいたらしく、斉藤さんは、「心配してもはじまらない。旦那に感謝のことばをいってごらん。今まで、その会社で仕事して、家を守れて、子どもを育ててこれた。旦那が、一所懸命働いてくれたからだろ?だったら、会社や旦那に感謝しな。それを伝えな」
そして奥方は、感謝の気持ちをご主人に伝えます。夫は夫で、リストラ面談にて、心から会社に感謝している旨を伝え、それでもリストラとなってしまいました。
ところがある日、夫が勤めていた会社を吸収した会社から連絡が入ります。出かけてゆくと、リストラ面談の場にこっそり立ち会っていた合併先の社員が、夫にこう告げます。
「あの面談での、あなたのことばに感動しました。あのような状況で会社に感謝をのべることができたあなたに、我が社の社員育成をお願いしたい」と。
しかも、提示された給与は前職の2倍でありました。
リストラが心配で仕方なかった奥方とご主人。「リストラされたらどうしよう…」と、否定脳発で杞憂し続けていたら、このような奇跡は起こらなかったかも知れません。
過去に現在に感謝し、自己を肯定し続けること。否定は何も生み出さず、むしろ悪影響にしかならないことの、確固たる事例をみました。




小野陽子

2018年9月21日 (金)

男性医師の数と女性医師の数合わせが必要な背景?

東京医大、女性受験者の点数を操作し男性優位にしていたことが女性差別として問題視されている。
医大側の言い分と世間の常識に大きな差異が見て取れる。医者の勤務環境、病院経営問題、医大の定員数など複雑な要素があるのは理解されている。
そうであるなら、単純に女性差別で終わらせるのは問題だ。こんな時こそネットの出番ではないだろうか?
色々な視点から見た意見を交わらせ、世論を熟成出来ないか考えたい。
株式日記と経済展望(リンク)より引用
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東京医大の女性差別問題は、テレビのワイドショー的にはけしからん問題ですが、差別をしなければそれで解決のつく問題ではないようだ。医療現場は非常にきつい仕事であり、なんとかしなければならない問題ですが、「女性も働きやすい環境にすればよい」というのは無責任だ。
「女性も働きやすい環境にすればよい」と言えば、大正解のように見えるが、それには金も人もかかるようになって、別の問題が起きてくる。女性が男性並みに働ければ問題はないが、それが出来ないから問題が起きてくる。儲かっている会社なら人をたくさん雇って交代制にすればいいが、儲からなくなれば首を切らなければならなくなる。しかし日本ではそれができない。
人権問題としては男女は平等に扱わなければならないが、男女の体力差の問題は現実問題としてあるのであり、女性が強くなったといっても法律上強くなっただけで、体力的に女性が勝るようになったわけではない。私もサラリーマンを長いことやってきたが、サラリーマンも体力を使う仕事であり、連日の残業などで体を壊してしまった。
男のサラリーマンでも、体を壊すほど酷使されて仕事をしなければならないのは間違っていると思うのですが、できれば女性でも勤められるような勤務で、定時に毎日帰れたほうが仕事の能率も上がるだろう。しかし仕事は毎日定量あるわけではなく、殺人的に忙しい時も、全く仕事がないときもある。
特に医師の場合は、急病の患者は昼夜の別はないし、命がかかっている場合もあるから誰かが対応しなければならない。医師の立場に立って予約制で9時5時の間しか受け付けないというわけにもいかない。医師に診療してもらうには2週間待ってもらうといった体制にしなければならないとなったら、患者側は納得できるのだろうか。
女性医師も夜間診療や僻地の診療や、外科や産婦人科や小児科など担当してもらえればいいのですが、女性医師では体力的に無理なようだ。まさにブラック企業並みの酷使に耐えなければなりませんが、「人手を増やして、シフト制にすればいいじゃん?」というわけには行かない。社会保障費には限界があるからだ。
医療の世界ばかりでなく、無理で過酷な職業をこなせるのは若い男性しかいないし、女性に24時間働けと言えない。そのような事情から東京医大でも男性に加点したり女性を減点したりしていたのだろう。確かにこれは公平ではないが、女性医師が多くなれば、医療に偏りが出てしまう。
ワイドショーなどでは女性差別はけしからんで済ませているが、具体的な問題を指摘しても、答えは出てこない。女性は事務などの仕事は出来るがIT化が進んで仕事は減ってきている。その反面ではサービス業の24時間化が進んで深夜勤務の仕事が多くなった。
私もビル管理の仕事をしていた時があったが、誰もいない夜間にビルにひとりで仕事をするのは、男性でないと難しいだろう。現代では仕事が多様化してきて、女性でないとできないような仕事もあるが、タイピストや女子工員等は死語になってしまってOLも死語になりつつある。
高学歴女性が増えてきたのに、それを活かせる仕事は減ってきている。今足りないのは宅配の運転手やプログラマーや建設労働者などですが、女性はどれもやりたがらない。機械化が進んで必ずしも体力仕事ではなくなった仕事でも女性はやりたがらない。
欧米などでは女性の社会進出が目立ちますが、日本ではなかなか進まないのは何が原因なのだろうか。女性が働きやすいような環境整備が必要なのでしょうが、会社に託児所を設置させるのがいいのではないかと思う。
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橋本正雄

«できないではなくどうできるようにするか基本に立ち返る事

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