2017年7月22日 (土)

その問題は、実は自分自身がもたらしたのだ。

>20355 観念パラダイムの逆転3 現実とは、人々の意識である
同類圧力は、人々の共認が形成する圧力である。従って、『現実』とは人々の意識に他ならなくなる。
しかも、主体=対象である以上、人々の意識とは、自分の意識に他ならない。
つまり、自分自身の意識が、『現実』=同類圧力を形成していることになる。もっと簡単に云えば、現実とは自分自身に他ならない。
こうなると、もはや現実を否定することは出来なくなる。実際、現実=同類圧力を形成したのは人々=他人であって、自分だけは別である=自分は無関係であるとは、誰も云えまい。
だとすれば、もはや現実を否定することは出来ない。
   ===
何事も、上手くいっていない時、何らかの具体事象をあげつらい、或いは具体名をあげて他者否定する事は多いだろう。
しかし、上記記事に深く同化すると、その問題は、実は自分自身がもたらしたのだ、と認識したほうが正しいだろう。それが同じ組織で、自分自身が組織的な共認形成に参加してるのだとしたら、尚更。
では、どうするか?
事実の追求と共認が全てではないか。
その問題の原因を全員で共認。⇒課題と役割を再固定できるか。にかかっているのではないか。そこに一切の否定は不要。
状況と課題と役割をみなで共認し、実現可能性が見えれば、その挽回過程は、みなの充足課題に転換できるのではないだろうか。



 
佐藤賢志

2017年7月15日 (土)

人類が一つの終局に向かっている今、我々は陰の支配者の操り人形であることを止め、洗脳を払拭し、押しつけられた物欲から抜け出さなければならない。  1/2

太陽系 リンク より
太陽系形成に関しても初めに物語があり、それに見合ったモデル(仮説)が作られ、それに見合った証拠が集められたのだと思われる。微妙な問題だが、謎を解くためにはモデルを作って検証する必要があり、それ自体は正当な手順と言える。しかし問題は一つのモデルを作り上げると、何がなんでもそれを完成させねばならないという執着のようなものが生まれ、それに向かって都合のいい証拠やデータだけを探し、不都合な証拠やデータは顧みようとしない傾向が生まれることだ。特に最初にそのモデルが有名になってしまうと、こうしたことが起こりやすい。ダーウィンが唱えた、ヒトがサルから進化したというモデルなどはこの典型だろう。そうした仮説を学校というところでは堂々と定説であるかのように教えているので、多くの人は幼い段階で洗脳され、余計な疑問を持たずに仮説を受け入れるようになる。
さて一般の人たちはたかが太陽系形成の話で洗脳などと大袈裟な、と思うかもしれない。しかしこれは進化論と同じように、我々はどこから来たのかという重大な問題と密接に結びついているので、決して大げさな話ではない。特に西洋人にとっては、1600年にジョルダーノ・ブルーノが地動説を唱えたために火刑にされた例もあるように、地球という存在の地位・由来は彼らには重要なものなのだ。それは特にキリスト教と深く関わる問題だからであり、神が人間のために宇宙を作り地球を作ったかのような記述が聖書にあるからだ。すなわちバチカンおよびプロテスタントの教会は、民衆の支配のためにはどうしても地球を宇宙の中心にしておかなければならなかったからだ。
実はこの状況は現在も変わっていない。マスメディアの表に決して出てこない陰の支配者たちは、さまざまなメディアおよび宗教を利用して人類の奴隷化を謀るため、人間中心そして地球中心の考えを植え付けて人類を一元化し、統制支配を容易なものにしようと目論んできたと思われる。このような発言は異様に聞こえるかも知れないが、ここ数千年の歴史を素直に見れば必然的に導かれる見解だと思う。もちろん決定的な証拠があるわけではないが、様々な深刻な問題を抱えつつ、先の見えない混迷する現状を目の当たりにすれば、その原因が突然現代になって現れたものではなく、長い歴史の中で作為的に作られてきたものであることに気付くと思う。
現代の地球汚染、地球破壊、資源の枯渇、水の枯渇、食糧不足、種の絶滅などを見れば、人間中心、ひいては地球中心の考えがいかに多くの弊害をもたらしてきたかが分かる。多くの人は気付かないかも知れないが、欧米の歴史を振り返って見ると、彼らは一度も自然と共生するという発想を持たなかったのが分かる。先にも言ったように、彼らにとっては自然は征服すべきものであり、支配すべきものに過ぎないからだ。しつこいようだが、これは西洋医学とも発想を同じくしているのであって、彼らにとって病気は征服すべきもの、肉体は支配すべきものなのであり、東洋医学の食餌療法および生薬によるバランスの回復、そして肉体の自然治癒力による病気の克服といった発想とは根本的に異なっている。
彼らは地球は神から無条件に与えられた贈りものと考えており、従ってそれを無制限に使うことに躊躇はない。神は愛すべき最高の生命体として人間を創造したのであり、したがって人間は地球とそこに生きるすべての生き物に君臨して当然なのだ。たとえ地球が太陽の周りをまわっていようと、彼らは地球中心の考えを捨てることはできない。それはバチカンが地動説を公式に認めたのが、何と1992年であることを見ればお分かりいただけると思う。しかもそれは一応公式という形ではあったが、ガリレオの異端裁判が誤りであったことを認めた際の補則という形で発表されたに過ぎない。



 
加藤俊治

人類が一つの終局に向かっている今、我々は陰の支配者の操り人形であることを止め、洗脳を払拭し、押しつけられた物欲から抜け出さなければならない。  2/2

太陽系 リンク より
さて太陽系生成論は壮大な物語であり、スーパー・コンピュータを使って惑星形成のシミュレーションなども行なわれており、一般の人たちが反論を試みるのが非常に難しいように仕組まれている。しかしいくら複雑な計算を用い、難しい理論を展開しても変なものは変なのであり、現代科学が解けないものはあくまでも解けないのであって、我々はそれを冷静な目で見定める必要がある。
最初に言ったように太陽系生成論にはいくつもの問題があり、教科書に書かれているような確定した学説ではない。その事実を知っている主流に属さない学者や在野の人たちは、それぞれに異論を唱えている。
-略-
以上述べてきたように太陽系生成に関する学説はあやふやで確定したものではない。にもかかわらず学校では、たった一つの仮説を現代科学が到達した崇高な真理であるがごとく教えている。もし本当に科学的な態度で教科書を作るつもりなら、すべての学説を併記すべきだが、そうしたことはしていない。これは科学(理科)に限ったことではなく、歴史、社会、国語など、いくつもの科目に共通したことだ。なぜこうした教育手段を用いているのか。なぜこうした単一の考えを押し付けているのか。それは支配者にとっての統制管理をより容易にならしめるためだ。我々一般庶民は従順に一つの説を信じ、従順に経済活動を行ない、従順に政府の定めた税金を納め、従順に物質世界の中で物欲に奔走していれば、それが陰の支配者にとって好都合だからだ。
我々日本人がかつて持っていた霊的精神や、物質界を超えた世界観などは、こうした陰の支配者の目論見どおりに色褪せ無価値なものとなっている。我々はさまざまな便利な物に囲まれ、好きなものを食べてはいるが、しかしどれだけ幸福を感じているだろうか。いくら物があっても、植えつけられた物欲のためにさらに欲しいと思い、いくら金があっても満足することなくもっとほしいと思い、この豊かな社会で死ぬまで不満のまま過ごすことになってしまっている。
人類が一つの終局に向かっている今、我々は陰の支配者の操り人形であることを止め、洗脳を払拭し、押しつけられた物欲から抜け出さなければならない。そして自然との共生を目指し、精神的・霊的自己を取り戻しながら、喜びを分かち合う世界の構築に向けて踏み出さなければならないと思う。



 
加藤俊治

2017年7月 5日 (水)

アメリカでは未だに進化論を信じない人が4割もいる。キリスト教=「倒錯観念」の最たるものの怖さ。

■アメリカでは未だに進化論を信じない人が4割いる。キリスト教(=「倒錯観念」の最たるもの)の怖さ。
現実とは遊離した(非現実の)思念から出発した宗教や、これも現実には存在しない「自由・博愛」を標榜する近代観念は、非現実を現実と思い込むことから「倒錯観念」と呼ばれます。
一旦慣習化・肉体化された倒錯観念の影響力の強さの一例として、アメリカでは、世界は神が創造したと信じる「創造論」者が未だに半数近くいるという記事(「日経ビジネス アメリカの今を読む」  リンク)を紹介します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
多くの日本人にとって、「エッいまだに?」と驚いてしまうことが米国で続いている。米市民の10人中4人が、人間が神によって創造された(創造論)といまだに信じているのだ。
 いや、ようやく10人中6人が「進化論」を信じるようになったと言い換えた方がいいかもしれない。米ピュー・リサーチ・センターが2015年11月に明らかにした調査で、ほぼ6割が進化論派になった。
しかし例えばルイジアナ州のボビー・ジンダル知事は創造論を擁護している。テキサス州のテッド・クル―ズ上院議員も「進化論は共産主義者が作ったウソだ。進化論については言及したくない」と述べている。
ジェブ・ブッシュ元フロリダ州知事やフロリダ州のマルコ・ルビオ上院議員も慎重な態度を取っており、学校では両論を教えるべきとの立場だ。
 彼らはいずれも共和党の大統領候補に名乗りを挙げている。創造論を信じている有権者の票を失わないための策であり、創造論を否定していない人が相当数いる証拠でもある。
・最近進化論者が増えた理由で最も大きい理由は、若い世代を中心に米市民が宗教と距離を置くようになっていることだ。米ピュー・リサーチ・センターが2014年に行った世論調査では、約5600万人の市民が無神論者か無宗教に属していた。2007年の同調査では約1900万人だったので、この間にほぼ3倍に増えたことになる。
 創造論への懐疑が時代とともに深まったもう一つの理由に、裁判での争いがある。過去100年の米国史をみると、学校で進化論を教えることを禁じる法律(バトラー法など)が存在した。
 その中でリベラルな考えを持つ教師は、進化論と創造論のテーマをわざと避けたりしたという。筆者が米国取材で出会った30代の男性は、小学校時代に先生がこの問題に触れなかったと語った。
 時代が下るにしたがい、進化論を教えることを禁じる法律は廃止に追い込まれていく。最近では05年にキッツミラー対ドーバー裁判があり、進化論側が勝利を収めている。
 それでも共和党大統領候補のほとんどは、進化論教育を積極的に口にすることはない。それほど強く、キリスト教の教義が米国社会に流布している表れでもある。



荘家為蔵

2017年6月16日 (金)

書評『人生は残酷である-実存主義(エリート)の終焉と自然哲学への憧憬』

戦後教育は、知識人といわれる、己のことしか考えず社会を傍観者として批判するだけの人々が信奉する近代思想を浸透させた。そして現在、マルクスもサルトルも近代思想も知らない人々が大勢を占めるようになった。
そのため、それらの人々は、顕在意識上は近代思想など自分には無関係と思っている。しかし、その本質の、教えられた内容を疑うことも無く信じて、それと異なる意見は傍観者として批判するだけで、自らその本質を見極めていこうとしない習性は、戦後の近代思想教育の産物であることに無自覚である。
それは、
>「戦争反対、差別反対」を声高に叫ぶ<善意の人たち>という暴力的カルトイデオロギー集団。
と同じ思考法である。
そこを超えて本当の充足を得るためには、
>人は崇高で深遠な思いと同時に、地に足を着けた現実という生き様を矛盾することなくやりこなしていかなくてはならない。それはなかなか骨の折れることではあるが、「やる」という選択しか人類には与えられていないと私は思う。
のように、みんなが幸せな社会になるように、現実を直視し、たとえそれが今まで教えられたこととは異なっていても謙虚に受け止め、事実を追求し続けていくことが必要になる。
//////////////////////////////////////////////////////////////
(リンク)
著者が一貫して言わんとすることは、エリートと言われる人たち即ち学者や評論家あるいは一流企業人や官僚たちが、ただそれだけでエリートとして通用している事への懐疑、政治家の器と視野の狭さに対する批判である。
彼らからは、世界は心豊かな社会へとはなりえないことを指摘している。
後半では日本人のこれからの未来との関りについて深く鋭い視点に目を醒まされる!
特に戦後思想界をリードしてきたサルトル実存主義の日本知識人への絶大な影響とあまりに酷い後遺症、そして、マスメディアに支配され続ける無思考な国民への警鐘が鳴らされている。
さらに戦後日本の知識人を衝き動かし、いまもエリートに浸透するマルクス思想。
そして、「自由に生きよ! 」「行動せよ! 」と呼びかけたサルトルに日本の全知識人が影響された事実を否定することはできない。戦後日本人は、進歩的に映ったこの思想に支配され、今もマスメディアや教育の現場を支配し続ける。しかし、それは無思考のままに未成熟な外来思想に追随した愚行に過ぎなかったのではないか。
したり顔で、単なるイデオロギー的偏見や感情論を垂れ流すテレビのコメンテーターたち。
ヒステリックにトランプ大統領に反対する知識層と一般大衆。実は全てが情報操作でしかない。
「戦争反対、差別反対」を声高に叫ぶ<善意の人たち>という暴力的カルトイデオロギー集団。
誰もが自分の頭で考え、自分の言葉で意見を発していると思っているが、その全てがカルトイデオロギーと無思考の産物でしかないと著者は説く。
そして、著者は読者に問いかける―。
「人が考えるということ」「思索すること」とはどういうことなのだろうか。
そして「自分の人生を生きる」とは。
さらには、「自分」が「存在する」ということの本質は何だろうか、と問い直す。
《中略》
人は崇高で深遠な思いと同時に、地に足を着けた現実という生き様を矛盾することなくやりこなしていかなくてはならない。それはなかなか骨の折れることではあるが、「やる」という選択しか人類には与えられていないと私は思う。



 
本田真吾

無知の知を知る方法

村上春樹は新刊で40万人の南京大虐殺があったと書き、それを非難されると「歴史を修正しようとする者たちとは戦っていかねばならない」と反論した。
村上春樹は南京大虐殺についてどの位研究したのだろうか、少しでも研究・調査すれば“あった”と言うには躊躇するような多くの矛盾が出てくるはずである。
彼の南京大虐殺の知識というのは我々一般人と同じで、ただ聞きかじった知識であろう。その聞きかじった知識で全世界に向かって南京では40万人が虐殺されたと喧伝したのだ、なんという無責任な奴であろうか。七十に近い男が言論には責任が伴うということが未だ分かっていない。
誰か村上春樹に対して言ってやればいいのだ「貴方は本当に南京大虐殺を信じて書いたのか?もし嘘だった場合、大変なことになるぞ、どう責任を取るつもりなのだ、命を賭けても40万人大虐殺はあったと言えるのか」と。
若いころ村上春樹の本を読もうとしたが「ノルウェイの森」というタイトルを見て、薄っぺらで欺瞞的なものを感じて村上春樹を読むことをやめたが、あの時の直感は正しかったようだ。
私たち人間は無意識的に“自分の考えていることは正しい”と信じ込む癖がある。それを改めようとしたのが、ソクラテスや孔子、釈迦が言及している“無知の知”であろう。それは、つまり知識人たちはなんでも分かっていると考えているが、本当は何も分かっていない、また神の知恵に比べて我々人間の知恵など取るに足らないものだから、我々は常に謙虚であるべきだというものであろう。
我々はソクラテスたちの時代から何も進歩していない、何千年たっても人類は“無知の知”を自分たちのものにできていない。現在においても我々は“自分の考えた事は正しい”と考え安易にネットなどに書き込んでいる。
私たちがもう少し謙虚で自分たちは無知であると知る為にはどうすれば良いのか。 自分の意見・考えに対して“本当はどの位自信を持っているのか”がピタリと分かる方法がある。
それは自分の全財産の内どのくらいなら賭けられるだろうかと考えることである。
例えば財産が一千万円あるとして、その内いくら位なら実際賭けられるだろうかと考える。数万円なら賭けられる、それでは数十万はどうだ、数百万では・・・と考えていけば、いくら位までなら賭けられるという金額が出てくる。その出てきた金額が自分の考えに対する自信の程度を示している。自分の考えが絶対に正しいと考えていれば全財産どころか命だって賭けられるであろう。しかし数十万円しか賭けられないと思うならば、それはほとんど信じていないということになる。信じてもいない事をいかにも正しいかのように発言するのは詐欺師である。
責任感をあまり感じないネット上で発言するにしても、責任が伴う事柄ならば、せめて全財産の半分ぐらいは賭けられるという自信ができて初めて発言すべきであろう。このように“実際いくら位なら賭けられるだろうか”と自問自答をしてみれば、多くの場合は“私はまだ本当には信じていないのだ、無責任に発言すべきでない”と自分の無知を理解し謙虚になることができる。
皆さんも「自分の意見は正しい」と思った時には“自分は全財産の内どの位本気で賭けられるだろうか”と自問自答してみてください、そうすれば本心ではどのくらい自分の考えに自信を持っているのかがピタリと分かりますから。



蘆花

2017年6月15日 (木)

宗教の悲惨な歴史

比叡山延暦寺を焼き討ちは、日本での虐殺の事例としてよく出て来るが、一方で政教分離を守る戦いとも取れる。他国での宗教の悲惨な歴史を見ると、頷ける。
>信長の最も大きな功績は、政治的な力をもった仏教を壊滅し、宗教が政治に口だしすることを防いだことかもしれない。これにより、江戸時代は政教分離が守られ、明治以降、日本人は宗教に捕らわれないフレキシブルな考えをもって海外の技術を導入し、短期間に国力を蓄えた。
雑記帳より転載です
リンク
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宗教の悲惨な歴史
Distressing history of religion
イデオロギー:政治や社会のあるべき姿についての理念の体系
それ自体は、一見、正しく崇高な理念であっても、現実を無視し、人間の本性を無視した理念は、正義どころか悪になります。恐ろしいのは、悪と知りつつ行う行為には歯止めがありますが、正義と信じて行う行為には歯止めが無いことです。
一途に思い込んだ正義ほどやっかいなものはなく、イデオロギーに魅了され帰依した人間は、その失敗を認めず、どんなことになろうと、『善意から出た行動が、悪い結果に結びつく筈がない』と考えます。そして、そのイデオロギーを標榜する国家や組織が犯した悪や失敗を認めようとしないのです。
人類が20世紀に学んだのは、政治にイデオローギを持ち込んだ社会主義は、『平等な社会を造る』という崇高な目標を掲げてスタートしたにもかかわらず、共産党員という支配階級と非支配階級に別れたとたんに極めて不平等な社会になったということです。
さて、イデオロギーの最たるのものが、宗教です。
『神の国をつくる』という、その人や集団にとっては正しく崇高な理念であっても、その神を信じない人にとっては悪魔の理念であって、極めて危険な思想です。
歴史が教えるのは、究極のイデオロギーである宗教が政治に関与した場合には常に悲惨な結果をもたらしてきたということです。逆に宗教と政治を分離し、宗教に捕らわれない政治を行った国は永らえ、発展しているという事実です。。
------------------------------------------------------------------
■現在のドイツを中心に戦われた、30年戦争。単なる覇権を争うだけなら、プロテスタントとクリスチャンの間の宗教戦争という側面があったために、『神の名において異端者を完全に抹殺』した結果、多くの都市が完全に消滅し、ドイツの人口は1/3に減ってしまった。
■ローマ帝国末期。衰えたとはいえ、ローマ帝国にはまだ軍隊があり抵抗が可能な時に、キリスト教の司教たちは信者にむけ、『北方蛮族によって破壊され殺されているのは地上の国であって、われわれキリスト教徒にとっての安住の地は死んだ後に行く神の国以外には無い』と説いていた。紀元455年にヴァンダル族が僅か1万の軍で攻めてきた時、ローマ法王レオは、キリスト教会と関連施設は略奪の対象外との条件をつけて略奪や殺戮を認め、20万人以上のローマ市民は抵抗しなかった。この後、西ローマ帝国は紀元476年に滅びる。
ローマはローマ法のもとで、その地方や民族にあった広範囲な自治権を認め、寛容の精神で統治していた。ユダヤにおいても、ユダヤ教の特殊性を認め、ローマへの兵役負担などの義務を免除し、神官による広範囲な自治は認めが、統治に関しては神権政治は認めなかった。しかし、ユダヤ教はイスラム原理主義と同じく、神権政治こそが究極の目標であったため、何度も反乱を起こし、70年のマサダの砦で終わるエルサレム陥落の戦争を経て、131年には、救世主(メシア)を名乗った指導者のもとで大規模な反乱が起こった。
五賢帝のひとりであったハドリアヌスはこれを鎮圧。ユダヤ民族がパレスティナに住むのを禁じた。これ以降、1948年のイスラエル建国まで、ユダヤ民族は国をもたない流浪の民となる。
■ヴェネティア共和国。中世のキリスト教全盛の時代にあって、サン・マルコ教会を人々の心の拠り所にしていたにも関わらず、宗教と政治を完全に分離し、政治に一切口だしさせなかった。
ローマ法王が唯一、自分の思い通りにならない国と嘆いたが、巧みな外交戦略によってヴェネティア共和国は1000年の長きにわたって繁栄し、地中海を支配した。
■日本の戦国時代、浄土真宗の一向宗が爆発的に広がり、信者からのお布施によって、本願寺は日本各地に大きな支配力と資金力をもつ存在となった。各地で一向宗による一揆が起こり、加賀では一向宗の国ができて、仏教による神権政治が始まった。これに対抗したのが織田信長。比叡山延暦寺を焼き討ちしたのを手始めに、伊勢や越前の一向一揆を攻め、日本史上例のない、女子供を含む門徒全員の大量殺戮を行った。総本山である大阪の石山本願寺も長期にわたる籠城戦ののち攻め滅ぼした。
信長は戦国時代を終わらせる道を拓き、楽市楽座などの革新的な政治を行ったが、信長の最も大きな功績は、政治的な力をもった仏教を壊滅し、宗教が政治に口だしすることを防いだことかもしれない。これにより、江戸時代は政教分離が守られ、明治以降、日本人は宗教に捕らわれないフレキシブルな考えをもって海外の技術を導入し、短期間に国力を蓄えた。
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(転載おわり)





孫市

2017年5月27日 (土)

権利、自由、責任について

権利という言葉は誤訳であるとよく言われる。権利は英語の「right」の訳であるが、権利という字には「正しい」の意味が含まれていない、だから誤訳だという。しかし権のもともとの語源は「棒ばかり」である。棒ばかりは物の重さを正しく計るものであるから、正しいの意味は含まれている。弁護士のバッチにも公正・平等の意味で「天秤ばかり」が描かれている。
ですから権利の意味を教えるとき“権の語源は棒ばかりであり、正しいという意味がある。それゆえ正しいことの利益の要求が権利である”と教えれば、今のように何でもかんでも権利だ、権利だと言わなくなるのではないだろうか。「権利とは正しいことなら要求できる」と国民に広く認識させればそれで充分であろう。できれば福沢諭吉が示したように権利は“権理”という文字にするのがベストであろう。
権利の意味は正しいということであり、その権利の行使を「自由」という。私たちがよく使う自由の意味は勝手気ままという意味が殆どであろう。ではなぜ勝手気ままにできるのか、それは世間において正しいと認識されているからである。公園を散歩するのは自由だ、しかし私有地を勝手に散歩はできない。正しくないことは自由勝手にはできないのである。ゆえに正しいことを行使するのが自由である。自由とは正しい言動ならば自由勝手にどうぞと言う事である。
そして自由とは常に、この世を良くするために使われるべき言葉であり、悪くするために使う言葉ではない。“報道しない自由がある”などと悪用してはならないのだ。
基本的に権利には義務が、自由には責任が伴うと言われている。例えば車を運転したいと権利を要求すれば、自動車教習所に行って運転技術や道路法規を習得する義務を果たさねばならない。義務を果たせば権利(運転免許証)が貰える。しかし権利だけではまだ責任は生じない。次に車を買って車を運転するとなれば、これは権利の行使であるから自由になる。自由には責任が伴うから責任を取るために保険に入らねばならなくなる。自由だけでなく行動・発言には常に責任が伴うのだ。このことを最近の日本人はすっかり忘れている。すべての言動には責任が伴うのである。
昔の日本には権利や自由という言葉はなかった。しかし何の不自由もなく社会は回っていた。なぜなら間違ったことをやれば腹を切って責任を取るという文化が日本社会にはあったからである。権利や自由や人権などの言葉が西洋から輸入され責任が片隅に追いやられ日本社会は本当に軽薄になってしまった。「何かあれば責任を取る」という文化が薄らいで、権利だ、自由だ、人権だと叫んでいる欧米国家以上の「無責任国家」になった。
権利や自由の前にあるのは責任である。
少し茶化していえば、聖書には“初めに言葉ありき”とある。やおら神が何か言おうとしたので「神様、ちょっと待ってくださいよ、何か言うのはいいけれど、言葉の前には責任ありきですよ。発言するなら、ちゃんと責任をもって発言してくださいよ」ということなのである。
私たち日本人が“言動には常に責任が伴うのだ”と責任感さえしっかりと認識するようになれば、権利や自由や人権を叫ぶ無責任国家とおさらばし、もう少しまともな国家になれるのだが。責任感の復権こそが日本の復権のカギである。



蘆花

2017年5月24日 (水)

「七つの大罪」と「無財の七施」

4/11の朝日新聞に、素敵な記事があったのでご紹介します。
筆者である徳永進さんは野の花診療所というホスピスの院長をなさる方です。
___________
 人間には「七つの大罪」があるらしい。カトリックの教えである。
「暴食」「色欲」「強欲」「憤怒」「怠惰」「傲慢」「嫉妬」の七つ。心当たりある、他人事じゃないわ、と思う。誰もが人生、これらの罪を避けきることは至難、と思う。
「人の死に立ち会う、よくそんなハードな仕事続けておられますね」と声をかけられることがある。「人を助けたいんです」、みたいなことはここまで年を重ねると、気恥ずかしくて言えない。「ええ、罪滅ぼしで」となら言いやすい。
「戦場に行かなかった罪」「地震や津波で家族を失わなかった罪」「自分が死ななかった罪」「今年も無事に桜を見た罪」。
えっ、それって罪かあと言われそうな罪の、罪滅ぼし。
 仏教は、罪や悪の反対側にある善、施しが人間にはあるとして、「無財の七施」を教える。「眼施(げんせ)」「和顔施(わがんせ・優しい顔をする)」「愛語施(あいごせ・愛情ある言葉を使う)」「身施(しんせ・体で奉仕)」「心施(しんせ・心配り)」「牀座施(しょうざせ・座布団を出したり、席を譲ったりする)」「房舎施(ぼうしゃせ・宿を用
意する)」の七つ。身分も知識もお金もない者でも、これらの行為を他人にしてあげることができるという。
 最初の眼施は、優しい目で人を見るということで、容易そうで奥深い行為、とも思える。ホスピスケアに限らず、ケアそのものの原点は「眼施」、だろう。
 死の臨床の原点ともいえることを青木新門さんは「納棺夫日記」(文春文庫)に書いている。「末期患者には激励は酷で、善意は悲しい。説法も言葉もいらない。きれいな青空のような瞳をした人が側にいるだけでいい(要旨)」。
 日に日に老眼が進む中で、そんな瞳について憧れながら、考えている。
___________
罪を償い清め、無かったことにする前者、施すことで相手を喜ばせ現実を変えていく後者。
ホスピスの現場でなくとも、日常の中でも納得する話だと思いました。



 
黄色い太陽

2017年5月21日 (日)

古典論理が人類を破滅に追い込むa

古典論理は同一律・矛盾律・排中律の三つから構成されている。
同一律(Principle of identity)
「AはAである。」「A=A」
「AはBである。」「A=B」
矛盾律(Principle of contradiction)
「AはAである。」「A=A」と
「AはAではない。」「A≠A」が
同時に成立することはない。
「AはBである。」「A=B」と
「AはBではない。」「A≠B」が
同時に成立することはない。
「命題とその否定命題が同時成立することはない。」
排中律(Principle of excluded middle)
「AはAである。」「A=A」か
「AはAではない。」「A≠A」の
どちらかだけが成立する。
「AはBである。」「A=B」か
「AはBではない。」「A≠B」の
どちらかだけが成立する。
「命題かその否定命題かのどちらかである。」
古典論理は
個人、家庭、組織、国家の同一性を担保している。
個人、家庭、組織、国家が
古典論理を振り回すことによって
個人同士、家庭同士、組織同士、国家同士の対立が発生している。
この対立が人類を破滅に追い込む。
戦争、紛争、経済戦争は
古典論理が引き起こしている。
この人類の破滅を解決する為には
古典論理には存在しない「容中律」の論理の力が必要である。
容中律(Principle of included middle)
「AはAである。」「A=A」と
「AはAではない。」「A≠A」の
両方が成立する。
「AはBである。」「A=B」と
「AはBではない。」「A≠B」の
両方が成立する。
「命題とその否定命題が同時成立する。」
排中律と容中律は完全に矛盾する。



千田祐介

«現実を作るのは心の癖

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