2017年4月18日 (火)

努力しない人がグチを言う

リンクより
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クリスティーヌ・ルウィッキー氏の心に響く言葉より…
グチは自分でも気がつかないうちに生じる反射的な行動であり、グチを言っているだけであれば、新しいことをするエネルギーも必要ありませんし、新しいことに注意を向ける必要もありません。
それに対して、グチをやめようとすると、自分の置かれた状況を客観視しないといけないので、頭を使う必要が出てきます。
だからこそ、最初のうちは大変なのです。
「グチを言わない」というのは努力の産物です。
不運は不運として受け入れた後で、あきらめることなく自分に何ができるかを考え、それを実行に移す。
これは単にグチを言うのに比べると、ずっと労力を要求される知的な活動です。
しかも、周囲の人を巻き込むためには、言葉で自分の考えていることをはっきりと表現することが必要となります。
心理学の研究によれば、楽天主義者に比べると、悲観論者はボキャブラリーがずっと貧弱だそうです。
また、これは若者の場合ですが、語彙が貧しければ貧しいほど、暴力を振るう傾向にあるということも証明されています。
つまり、言葉で表現できないからこそ、相手に暴力を振るってしまうのです。
『いつもの「グチ」がなくなる本』グロスメディア・パブリッシング
《打つ手は無限》( 滝口長太郎)
すばらしい名画よりも
とてもすてきな宝石よりも
もっともっと大切なものを 私は持っている
どんな時でも どんな苦しい場合でも 愚痴は言わない
参ったと泣き言を言わない
何か方法はないだろうか
何か方法はあるはずだ
周囲を見回してみよう
いろんな角度から眺めてみよう
人の知恵も借りてみよう
必ず何とかなるものである
なぜなら打つ手は常に 無限であるからだ
( 滝口長太郎)
グチを言わない人は、それをなんとかしようと、ありとあらゆる努力をする。
何か打開策はないかと打つ手を探す。
「努力しない人がグチを言う」
どんなに苦しくとも、グチを言わない人でありたい。
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原てふ子

2017年4月 5日 (水)

「首から上」と「首から下」

「首から上」には
五感の内の視覚(目)、聴覚(耳)、嗅覚(鼻)、味覚(舌)の四つが集中しています。
文明は「首から上」、特に視覚(目)と聴覚(耳)と味覚(舌)を刺激します。
国家も人種も民族も政治も経済も法律も
警察も軍隊も兵器も戦争も戦闘も紛争も
組織も科学技術も学問も哲学も人権も
教育もメディアも広告も機械も建築物も
テレビもパソコンもスマホも携帯も自動車も鉄道も
コンピューターもインターネットも
スポーツも性産業も娯楽もアニメも漫画もゲームも
「首から上」、特に視覚(目)と聴覚(耳)と味覚(舌)を刺激します。
裏を返せば「首から上」しか支配出来ません。
「首から下」を支配するのはほぼ不可能です。
今の時代、「首から上」が完全に暴走しています。
その一方で「首から下」が置き去りにされています。
欧米文明は「首から上」の発想で「首から上」だけをひたすら刺激します。
東洋思想は「首から下」の発想で「首から上」を極力刺激しません。
欧米文明の暴走を止めることが出来るのは東洋思想だけです。
「首から上」の暴走を止めることが出来るのは
置き去りにされた「首から下」に意識を集中させることだけです。



千田祐介

2017年3月 1日 (水)

【「怒り→否定視」と「視野狭窄」の関係と突破方針】

どのような人材であれ、「怒り→否定視」の感情が噴出した状態においては、思考が「視野狭窄」(=周りが見えない)状態に陥る。
*怒り:自分の思いとおりにならない時に湧き上がってくる攻撃的感情
何故、「怒り→否定視」が「視野狭窄」に繋がるのか。
ストレスを受けると「怒りのホルモン」とも呼ばれるノルアドレナリンが分泌される。この状態が「怒り」感情を生み出している。
・白血球の顆粒球(主に好中球)がノルアドレナリン受容体を有しており、この受容体に怒りに伴う分泌されたノルアドレナリンと結びつくことによって顆粒球が活性化する。
・顆粒球が増加する状態とは
交感神経が優位になって体が活発に動く時は、体に傷がつきやすくなり、細菌などの侵入も増えます。その為に、顆粒球(細菌等に対して攻撃を仕掛ける)の割合を増やして体を守っている。
これらから考えると「怒り」は、対象に対して攻撃(態勢を整える)する、同時に、闘争で傷つき細菌などの侵入に備えた状態といえそうです。
生物が攻撃(態勢を整える)する場合で、即、頭に思い浮かぶのは、外敵闘争場面です。この局面においては、対象に対して「肯定視」する生物などいません。徹底的に「否定対象」と捉えており、周りを気にしていると殺される(食われる)ため、「対象を打ち負かす」の一点に収束。これが生物の本能に刻印されている。
加えて哺乳類は、性本態本能(縄張り闘争本能)が付加され、人類はさらに共認の鬼っ子である自我(幻想の加速装置)が相乗収束し、「怒り」が生起したときに、「怒り」から派生した「否定視」が生起したときに、より強力に「対象を打ち負かす」の一点に収束する。
これが、「怒り→否定視」が「視野狭窄」に繋がる構造だと考えられます。
*全体が見えない。とにもかくにも自分の都合の良い細部尾話や全く関係の無い話しを持ち出し相手をやっつけようとする。
*補足
・否定視の対象は他者
・否定の対象は自分=他者に対する否定視を自分に振り向けた状態が不可能視。よって、不可能視も「視野狭窄」に繋がると考えられる。
・「おかしいや出来ない」等の否定視も不可能視も決断した状態。決断保留や可能性発思考のように次の思考が繋がる状態ではない。「否定視、不可能視」=決断なのでそこで思考はストップ(思考停止)=考えるのをやめる状況に陥るのだから、成果がでるはずもない。
○どう突破する?
・よって、延々と反省(否定視・不可能視主体の自分観念を使うため)などしないほうが良い。無能の自覚をさえすれば、反省など止めて「どうする?」=可能性発思考に入った方が良い。ただし、原因分析は必要。
・当然、本能に刻印されているため「怒り→否定視」から人類も逃れることは出来ない。しかし、「視野狭窄」状態を脱するためには、「怒り→否定視」をいかに短時間に終息されるかがポイントとなります。「怒り→否定視」を短時間に終息させるためには、前頭前野を鍛えること、即ち、(潜在思念に繋がった)追求力を身につけることです。
・「怒り」感情の持続時間は、10分程度。よって、「怒り」が生起したときには、時間を空けるという方法もあります。ただし、「否定視」は観念=時間に制限がないので、否定的な思考を止める、というよりも、「自分自身が、みんな充足を実現させる為に、これを突破する為にどうする?」を考える、をお勧めします。
・怒り(否定視、不可能視)が生起したら「チャンス」と意識。即、「何故、怒っているのか? その根拠はみんな充足の実現に繋がるか」、「怒りで相手の思いを見えなくしている可能性あり、相手の根拠は?その根拠はみんな充足の実現に繋がっているのか?」等を意識するようにすれば、比較的短期間で突破できます。必要はあると思い



加藤俊治

2017年2月24日 (金)

これからの日本人に求められるのは対立する度胸を持つこと

リンクより引用。
***
日本の「アパホテル」の客室に南京大虐殺を否定する本が置かれているとして、中国で騒ぎになったのだが、アパホテルはこのような見解を堂々と出している。
「異なる立場の方から批判されたことを以って、本書籍を客室から撤去することは考えておりません。日本には言論の自由が保証されており、一方的な圧力によって主張を撤回するようなことは許されてはならないと考えます」
この書籍『本当の日本の歴史 理論近現代史』は元谷 外志雄(もとや・としお)というアパグループの代表が書いたものであり、「あくまで事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたもの」であるという。
しかし、歴史プロパガンダを仕掛けている中国はこうした書籍があることを絶対に認めない。
この一企業の動きに、中国では外務省が「日本国内の一部勢力は歴史を正視しようとしない。正しい歴史観を国民に教育し、実際の行動でアジアの隣国の信頼を得るよう促す」とわざわざ批判している。
今までの日本人であれば、すぐに腰砕けになって折れただろう。しかし、アパグループは折れるつもりはないようだ。やっと中国・韓国・北朝鮮の横暴に折れない日本人が立ち上がって来ていることを私たちは知る。
日本人よ、時代は変わって来ている。
~中略~
■今まで日本人は、協調性を意識しすぎた
世界に目を転じると、宗教問題、歴史問題、領土問題、人種問題で、絶対に妥協できない対立が激しくぶつかり合っていて、血で血を洗うような事態が起きている。
これらのすべての問題は民族のアイデンティティに直結しているので、話し合いも成立しないし、譲り合いも成立しない。譲れば民族としての存続が不可能になるので、絶対に譲れないのである。
折しも情報化時代に入っているので、こうした衝突は言論の場にも持ち込まれるわけで、だからこそ歴史プロパガンダが猛威を振るうようになっている。
欧米とロシアのプロパガンダ合戦、欧米とイスラム国家のプロパガンダ合戦、グローバリストとナショナリストのプロパガンダ合戦、アメリカ国内でのリベラルと保守のプロパガンダ合戦は日々、深刻なものになっている。
東アジアでも、中国・韓国・北朝鮮が日本に対して執拗かつ粘着的な捏造歴史プロパガンダ戦争を仕掛けており、日本人に対する誹謗中傷、批判、攻撃が恒常的に行われるようになっているのだ。
もう現代社会は「きれいごと」を言っているだけでは渡っていけない世の中になった。これから日本人も凄まじい言論対立に巻き込まれていく。
だからこそ、私たちは日本人としての主張を「押し通す」必要が生まれてきている。今までの理解・平和・協調から脱して、いよいよ闘争本能に目覚めなければならないのである。
歴史問題は、何も言わないと相手の都合の良い主張が世界の歴史になる。領土問題は妥協していると次々と土地を奪われていくことになる。
重要なところで妥協してしまうと、日本人の尊厳も領土もすべて奪われる。だから、民族の存続をかけて、きれいごとから去らなければならなくなっている。
今まで日本人は、協調性を意識しすぎた。
批判することを恐れ、主張することを恐れ、復讐することを恐れ、バッシングされることを恐れ、修復不可能になることを恐れてきた。
■今求められているのは、まさに「対立できること」
だから、逆に日本人が今後、立ち上がるためには、この恐れをすべて捨てて、脱皮しなければならないということになる。以下の5つを決意するということだ。
(1)相手を激しく批判することを恐れない。
(2)主張を押し通すことを恐れない。
(3)相手に報復・復讐するのを恐れない。
(4)批判やバッシングを恐れない。
(5)修復不可能な敵対・対立を恐れない。
日本人は何事も徹底する癖がある。戦後から今までの日本は、あまりにも優しくなること、諸外国に配慮すること、対立を避けることに徹底しすぎた。
普通の民族は何事にもほどほどで止まるのだが、日本人は「平和優先」と決めたら徹底的なまでに平和優先になっていき、あまりにそれが行き過ぎた。
そして、良かれと思って徹底した「平和至上主義」で、今や日本の主権そのものが脅かされるところにまで到達した。
そういった状況はいよいよ終わりにして、日本人全員が意識を変えなければならない日が来ている。
日本人は誰かに批判されたり、罵られたりする状況に慣れておらず、そういった対立を非常に恐れているが、今求められているのは、まさに「対立できること」なのである。
対立できるというのは、相手を激しく批判するのも辞さず、徹底的に主張を押し通すことを恐れないということだ。批判やバッシングをエスカレートさせて、修復不可能な敵対関係となることも受け入れるのだ。
きれい事を捨てて現実主義になるというのは、そのような状況になっても一歩も引かないということだ。
今後も、歴史をめぐる対立は、これまで以上に激化していく。闘争モードに入らなければ国がなくなるのだから、日本人もどこかで転換する。
こうしたことに気付き、敢えて言論の誹謗中傷や攻撃や批判の中に飛び込んでいき、そこで戦う日本人がいよいよ登場してきている。
もう、友好やら配慮やら自虐やらは時代遅れだ。あなたは対立する度胸を持ち合わせているだろうか?
それにしても、アパグループは素晴らしい。今後は積極的にアパホテルを使っていこうと思う。中国人が来ないのであれば、なおさら静かに落ち着けることになるだろう。
 



別所彦次郎

2017年2月21日 (火)

「無興味無関心」の知恵

あらゆる物事に対応する
最善の手の一つは
「無興味無関心」の振りです。
どんな物事も
「無興味無関心」の人たちにとっては
どうでも良いものです。
「そんなの知らない!」
「そんなの見聞きしたくない!」
「うるさい!」
「で?」
「だからどうしたの?」
って言われたら
暴力、暴言、戦争、犯罪以外に
彼らに主張を通すことは出来ません。
あの悪名高き電通も
自社の広告を
多くの消費者に
見聞きしてもらわなければ、
彼らの言動、努力は無に帰ります。
教育者も
児童、生徒、学生に
授業を聞いてもらわなければ
彼らの言動、努力は無に帰ります。
私のこの記事も
読者に見てもらわないと無意味です。
優しさは損です。
好きの反対は無興味無関心です。



千田祐介

2017年2月18日 (土)

いつも愚痴ばかり=全て他人のせいにしているという真理

以下、(リンク)より紹介させて頂きます。
うまくいかない現実に直面した時、知らず知らずのうちに「口を開けば愚痴」状態に陥ってはいないか?
実現に真っ直ぐに、勿体無い行いは今すぐ改めていきたいものです。
* * *
いつも愚痴ばかり言う人は、付き合うと非常に疲れますし、体調もおかしくなってきますよね。
実は、愚痴ばかり言う人は、ネガティブな考え方ばかりしており、また、全ての物事が自分に原因があるとは考えず、全てを人のせいにする人です。
この社会での日常生活では、いつも良いことばかりではありません。
悪いことも当然起きて来ます。
でも、
「良いことも悪いことも、自分自身が創り出したものである」
これが真理です。
この世界には、鏡の法則が流れておりますので、いつも心の中で想い、イメージすることが実現します。
また、自分が他者に対しておこなったことだけが、必ず後で、自分自身に返ってきます。
したがいまして、自分に起きる出来事や自分の周囲の環境は、全て自分自身の責任であり、自分で創り出したものです。
この真理を知っていれば、他人のせいにすることなど、決してできません。
したがいまして、他人のせいにして、愚痴ばかり言う人は、この真理を知らないし、理解していない人ということができるのです。
また、自分のせいだと理解できない人は、何か悪いことが起きると、全て他人のせいにします。
そして、相手に対して直接に文句を言えない状況であれば、その悶々とした不満を誰かに愚痴として、ぶちまけるのです。
確かに、心の中に溜まった悶々とした不満のエネルギーは、誰かに話すことで、言葉のエネルギーに変換されて発散することができます。
ですが、愚痴を聞かされる方は、たまったものではありません。
なぜなら、マイナスの言葉には毒があり、その毒を浴びせ続けられると、気持ちも暗くなるし、体調も悪くなるし、運勢も落ちてしまうからです。
したがいまして、愚痴ばかり言ってくる人には、
「愚痴など聞きたくない!」
「元はと言えば、アンタのせいでしょ!」
「愚痴を言って、何か解決するの?」
「いい加減に愚痴ばかり言うのは止めて!もう、うんざり!」
「愚痴ばかり聞かせるなら絶交よ!」
などと、言ってやりましょう。
愚痴ばかり言っている人には、その愚痴が、自分だけじゃなく、周囲の人にも迷惑をかけているということを知らしめる必要があります。
(引用おわり)



匿名希望

2017年2月16日 (木)

既成概念・思想からの解放が生きる意味を与えてくれる

「本能と情動の刺激と解放が生きる意味を与えてくれる(リンク)」より引用します。
我々は理性という鎧を守って世の中を生きている。
しかし、この鎧がただの重荷になってはいないだろうか?もしくは理性という鎧があまりに重すぎて、武器を持つことができていない状態になっていないか?
あまりに理性で自己防衛をしてしまうと、一番大切な情動の炎が尻すぼみになってしまう。
我々は子供の頃、もっと輝いていてはずだ。感情が豊かで、見ること知ること体験することすべてが感動に満ち溢れていたはずだ。
しかし今はどうだ? 
理性的過ぎるという毒に全身を蝕まれていないか? 
何か事を成そうとした時、理性で状況判断しすぎて夢を捨てていないか、諦めていないか? 
生きている実感をも損なわせてはいないか?
そしておっそろしいことに、我々が生きているこの社会では理性の大切さを説きながら、本能と情動を輝かせて生きていこうとする人を排除しようとしている。
そうでありながら、出世したり成功をおさめるのは、理性ではなく本能と情動を躍動させた人だけという矛盾した現実がある。
人間の最も大切な本能と情動を尻すぼみにさせる現代の人間社会だ。
ということは、ただ平凡に生きている人は、ただ理性をふんだんに使い、生命力を削って老い衰えていくということになる。
でも、瞑想や気功でもいい、とにかく理性じゃない、もっと別の深いところに人間の最も大事なものが隠されている、そう感づいた人が私達だ。
我々は理性じゃないもっと根っこのもっと大きなもっと可能性のある分野を探求しようとするいわゆる脳と精神の冒険者だ。
悪けれど、ただ平凡に生きている人は絶対に興味を持たない分野を我々は追求し続けている。
だが! 瞑想を例に取るならば、そんな素晴らしい分野である瞑想にさえ、我々は理性を使って、瞑想状態を深めようとし、ある真理に到達しようとしている体たらくだ。
理性の限界に気づいている人間でも、理性世界とは別の次元にある瞑想世界において理性に頼ってしまうおっそろしい現実! 
こんなことでは一生追求しても本能と情動を刺激し、脳力を覚醒させることには至れない。そして瞑想によって、生きる意味と真理を見出すことなんて不可能だ。
~・中略・~
理性ですべてを解決しようとしていた時の私からみたら信じられない変わり様だ(従来の瞑想法では私は理性で何とかしようとしていた。当時は気づかなかったが、くだらない知恵を使っていたようだ)
本能・情動が再生された私が理性の力が衰えたかというとそうでもない。肝心な時に自分を律せられるようになった。かといって理性に飼われている惨めな状態でもない。
自分というものが、理性の枷から大きく外れて自由になった。
本当に楽になれた。
なぜ自由になれたのか、それには理由がある。
覚醒瞑想ほど深い覚醒トランス状態に入れると、自動的に、あるいはこちらの観念で、自由への障害となっている抑圧や壁を破壊できるようになるのだ。
そこが最強の瞑想法のすごい効果を与えてくれる。
情動を大きく揺さぶり、理性の枷を外して、自分を存分に人生という舞台で発揮しよう!



村田頼哉

常識の変域の両端は知らぬ間に極端になっていく

子どもたちのほとんどが義務教育で学び、義務教育でない高校へは90%以上が進学し、さらに大学へ50%以上が進学しますが、親子の常識から言えば、大学を出るというのが主要道です。問題はこの主要道が災害時には真っ先に通行止めとなり、戦時には爆撃対象となり、恐慌時には連鎖倒産の自殺道にもなってしまうことです。
おそらく社会資本の最適化が明治以降の日本の足腰をだんだんと弱め、想定される最悪が常に更新されてしまうことに一因があり、逆に、望みうる最高が低くなってきていることがもう一つの原因なのではないかと感じます。
変域、最悪側の更新は、例えば抗生物質が行き渡れば新種のウィルスが出現する、入試競争が過熱すればさらに難易度は高くなる、忙しくなれば何かが手薄になるなどがありますし、望みうる最高の低下には、有名大を出ても大きな夢が実現しない、大金を得てももっと上がいて相対順位は変わらない、情報が増えても選択ばかりで何かしらの遺伝情報が空っぽになることなどいろいろあります。
これまでにも、変域が広がるのに比例して、中間の価値が延べられて薄くなり、代わりに、命の重さ、愛は地球を救う、個性の時代など両極端の正当化のために、いろいろと言われてきました。漠然とした善意が地球という惑星を救済してくれる、逆に社会の最小単位である個人の命を大切にすれば社会問題や外交問題が解決できる、
何か何千年も前から同じようなことを言ってきて何も解決していませんし、鮮明さの希薄なスローガンだけを強調することによってやることは何でも良くなっていたり何もしなかったりという時代が長過ぎるような。
無限大の漠然から限界の個まで変域を広げたら、例えば法律が何万もでき、法則が何万もでき、相反する常識が交錯し、面倒だから思考停止したり、即自完結したり、いろいろなポジションが収束不全になっているはずなのに、広げきった固定観念が収束の代わりに強制しているという感じです。
義務教育から大学までの直線を延伸して子どもを序列化するという常識から見ての非常識、教育をできる限り複線化して、いろいろな群れの合議としての社会のことをとても楽しく想像しています。



佐藤英幸

2017年2月 6日 (月)

鎖国はすばらしく、カーストは不幸ではない?

鎖国はすばらしかった
 鎖国はよくなかったと教科書には書かれているかも知れません。しかし鎖国したことによって他国とは異なるひとつの文明を熟成することが出来たのですから、鎖国はすばらしかったと私は思っています。この高度に熟成された文明に代表される、日本独自の文化文明があったからこそ、われわれは「日本人とは何か」を知ることができ、また民族や祖国への深い自信や誇りを持つことが出来るのです。
世界有数の軍事力を有していても世界一の経済繁栄を何百年続けても、深い自信や誇りには決してつながりません。
カーストは不幸ではない
 1800年代初めに、フランスのデュポワという神父は三十年ほどインドで暮らしました。
彼が書いた「カーストの民」(東洋文庫)がおもしろいです。
革命直後の、自由、平等を絶叫していたフランスから厳しいカースト制度の中に入って暮らした上で、「フランスよりもインドの方が、はるかに人々が穏やかで道徳的にもすばらしい。カーストはヒンドゥーの最高傑作」という趣旨のことを言っているんです。
たとえばインドの蛇使いのカーストに生まれた人達は、おじいちゃんも、お父さんも自分もその息子も、みんな生まれてから死ぬまで蛇使いとして一生懸命やっていこうとする中で幸せに生きている。蛇使い以外のものになりたいと思うことすらないわけです。
引用終わり~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 上記二つの内容は、藤原正彦氏の「名著講義」から引用させていただきました。
これまでの価値観から見ると上記のカーストの例などはやや突飛な話ととられるかもしれません。しかしそれは一方で、読む側に何らかの思い込みがあるから、あるいは良く考えずに与えられたものをそのまま、考えもせずに受け入れているからではないかということに気付かせてくれる事例と思えました。
氏は以下のように続けています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 自由平等イコール幸福、封建社会イコール不幸、というのは欧米の撒き散らした神話で、よく考えればそれほど単純ではありません。戦前の全てを否定するGHQや日教組による教育の呪縛から解放され、改めて自分の頭で考え直さねばなりません。



高橋克己

セクスに至る人間関係づくりは心の触れ合いからの信頼関係づくりから

学問に王道なし~とは、本当に納得する言葉である。比の追求など、類での実現追求各講座では、毎回そのことにあらためて気づかされる。そして、毎回感じることは、これは男女共に当てはまることだが、セクスに王道なし!という事で、特に切実感を持つ男性諸兄にお伝えしたいと思うのだ。
人と人との触れ合い方を工夫する以外にセクスへの道は無いのだと。キリストを裏切り、キリスト教を諸悪の根源化したりアウグゥトウスのように,肉欲に支配されて振り回されるしかない気の毒な肉体の持ち主じゃあるまいし、我々は美しい自然にはぐくまれた人間的肉体を授かった縄文男女である。止むに止まれぬ内的必然性~命の渇望は~先ず肯定しよう!女子の生理の如く男子のドキッ!も自分でお祝いしよう!
その時から、大人の人間として問われてくるのは、他者との触れ合い方だ。関係のつくり方と言っても良いかもしれない。そして、それは取りも直さず自分に対する対応の仕方であり、自分との触れ合い方であると言えるだろう。自分自身をどう考え、どう受け入れていく👍🏿😀か?そこには、両親と自分がどのような触れ合い方をし、どんな親子関係、人間関係を築いてきたかが反映してくる。たとえ最悪の関係であっても、その日から、誰もが自立していかねばならない。どんな親であっても、ある時期自分を愛し、心の支えとして生き、奮闘してきた未熟ではあるが、普通の両親であったのだ。
ーお人好しの、明治この方ずーっとイルミナティ達に騙されっぱなしの日本人ー。今やシラけまくりの関係の人もいるかもしれないが。その未熟だった親との関係、触れ合いはそのまま、自分との関係であり、自分との触れ合い方だ。それは、他者との触れ合い方に反映する。親への対応とは真逆になったり自己否定したり。とりわけ一番大事な相手との出会いの場面で、最悪の形で現れる。
だから私達は先ず、能力に関係なく自らの存在,全ての存在を肯定せねばならぬ。未熟な親を肯定し、感謝せねばならぬ。許せぬあやつも許し、全ての存在を肯定し、現状を受け入れ、己れの存在を大宇宙に感謝せねばならぬ。無限の時空に有限の存在として在ることの奇跡
淀川鰡清

«架空観念は実現しないどころか、理想と逆の結果を生む

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