2018年4月26日 (木)

努力の努は、奴隷のド

以下リンク努力の努は、奴隷のド/
人生について考えるより
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努力。何かと求められるものですよね。日本人は今でも「努力」とか「頑張る」いう言葉が大好きなようです。
遊びに夢中になっている時、それは「努力して遊んでいる」とは言いませんよね。何故でしょうか?。遊んでいるだけで、お金を稼いでいるわけでは無いからでしょうか?。
私の会社にはプログラムが趣味のような人がいて、それはもう嬉しそうにプログラムを作成します。いろいろな技術書も熱心に読まれていますが、「すごい努力家ですね」と言うと、「そうでもないよ」と言われてしまいます。本人は努力しているつもりはないと言うのです。
こうして考えてみると、私達は「努力」という言葉の中に、自分自身でも気が付かないうちに「歯を食いしばって行うもの、我慢する事、忍耐」というイメージを持っているのかもしれません。
「啼かなくていいホトトギス:小林 正観:中経文庫」で、小林さんが「努力」の「努(つとめる)」という字について解説をされているのを読んで、私達がなぜ「努力に我慢」というイメージを持つのかが少しだけ理解出来ました。
(中略)
奴の右側は「股」ではなくて「又」ですねw。
又と言う字は「手」を表す漢字で、「奴」とは「女+手」という意味を持っています。
現代の日本に生活していると信じられませんが、女性が男性と同じように権利を認められ、社会で活躍する事が許されるようになったのは、ごく最近の事です。
女性の権利を認め、女性を開放する思想の事を「フェミニズム」と言いますが、フェミニズムは1789年のフランス革命をきっかけに19世紀以降に盛り上がってきた考え方で、6000年以上ある人類史から見れば「100ほど前=ごく最近」と言えるのです。
(参考:wiki「フェミニズム」記事 様)
つまり漢字が成立したような昔には、女性には男性と同じような権利は認められておらず、働き手(それも下働きと言われる雑用係)として使われる存在でした。
いろいろな労働を行う存在が女性であったため、転じて奴という字が出来上がったそうです。
「努」は奴に力を加えています。つまり「いろいろな仕事を、目一杯やらせる」という意味を持った字になっているんですね。
努力は、その上にさらに力という字を添えていますから、それはもう「歯を食いしばってでもやらせるもの」という意味になるわけです。
小林さんは、そんな努力を続けていると心に沸き立つ感情があるといいます。
それが「怒」。奴+心と書きますよね。
無理やりやらされるから、文句の1つも言いたくなる。腹が立つ。それが「怒」というわけです。
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匿名希望

2018年4月13日 (金)

現代人が喪失した「本能と直感取り戻す」には? 代々木忠語る。

○AV監督の代々木忠が「本能と直感を育てるには」について、分りやすい説を述べています。
リンク からの引用です。
>>先日、高校教師をしている40歳の男性から手紙をいただいた。その手紙によれば、風俗の女性を抱いたことはあるけれど、いわゆる素人女性とは生まれてこのかた恋愛もセックスもしたことがないという。
・手紙を読ませてもらって、この人は本能が未成熟なのだと思った。もっとも、本能が未成熟なのは彼だけに限った話ではなく、いまや多くの日本人が彼と似たり寄ったりのような気もする。
・人間が食うや食わずの頃は、衣食住を確保するために全精力を傾ける。これは「生活の文化」の時代であり、本能の領域がそのほとんどを占める。わが国の歴史をふり返れば、直近では第二次世界大戦後がそれにあたるだろう。
・とりあえず衣食住が満たされれば、次には「感性の文化」が花開く。たとえば空腹を満たすためには美味い不味いなどと言ってはいられないが、余裕が出てくればグルメだ美食だということになり、寒さを防げればとりあえずなんでも着たのに対して、デザインが流行がという話になる。もちろんこれらの感性は、芸術をも育んでゆくわけだが。
・次に来るのが「知性の文化」の時代である。いまの日本がこれで、思考オクターヴ系が主導権を握っている。戦後、物質的豊かさを追求してきた、そのツケというか、歪みがあちこちに現れたとき、人は心の豊かさにいったん目を向けようとはしたものの、名ばかりの「ゆとり教育」は失敗に終わり、格差社会の警鐘とともに、少子化もあいまって、教育熱は以前にもまして顕著であるように僕には映る。
・さて、冒頭に紹介した素人童貞である高校の先生も、手紙を読ませてもらったかぎりでは、思考オクターヴ系であると拝察する。思考型人間は情報を集めて分析するのが得意だ。より正しい結論を導き出そうとするがあまり、情報量は多ければ多いほどいいと思い込んでいる向きもある。
・でも、そのぶん本能が未成熟だから、とりわけ感情オクターヴと本能オクターヴが主導権を握るべき恋愛やセックスでは、自信がなく、でもそれを情報で埋めようとして、さらに迷い道へと入ってゆく。
・今回は、本能と直観を育てる方法のひとつを紹介しよう。
 季節も暖かくなってきたので、あなたが山に行くとする。それも自分ひとりだけで。持って行くものは、1リットルの水、塩、そしてテントか寝袋。ちなみに塩は山ヒル対策用である。どのみち、野宿を覚悟してほしい。
 街のネオンが見える所ではなく、まわりに人工物のない山がいい。なぜなら、武器も食べ物も灯りも持たず、自然の中に身を置くことが今回の目的であり、それがすべてだから。できれば月の出ない夜がいい。
 目的地には、遅くとも日没前には到着したい。必要な人はテントを張り、そうでない人は寝袋を敷く場所を確保して、訪れる夜を待つ。暗闇があたりを支配し、その闇が深くなるにつれて、自然は徐々に音を消してゆく。
 何も見えない中で、物音ひとつに聴覚を研ぎ澄ませ、見えない闇を凝視する。匂いにもきっと敏感になる。言われなくても、自分の五感をフルに働かせることになるのだ。
 ちなみに、ある人に言わせれば、里山はかえって危険なのだそうだ。里山とは人里近くにあり、人間の住む場所とその対極にある自然との境界線でもある。つまり山に棲む動物たちが里山に下りてくるのは、だいたいエサがないときで、彼らは戦闘態勢でやってくる。だから充分気をつけてほしい。
 万一なにかのトラブルに巻き込まれたとしても、僕に文句は言わないでいただきたい。自己責任のもと、あなたがたったひとりで、リスクと向き合うのである。何が起きるか、わからない。だれにも頼れない。頼れるのは自分だけ。究極の恐怖。
 この恐怖に対するあなたへの報酬は「野性」である。あなたの中に眠っている野性が、必ずや目を覚ますに違いない。野性は本能オクターヴの成熟を加速させ、感情オクターヴの直観を働かせはじめる。直観とは言い換えれば「洞察力」である。それまで見えなかった物事の真理が実感をともなって見えてくる。きっとあなたの、その後の人生は変わる。
☆そういえば、戦争が終わっても何十年もジャングルで生活した小野田元少尉が、日本に戻って福島の山中で子どもたち相手に開いていた「小野田自然塾」を息子と体験したことがあります。全く同じことを実践していました。




荘家為蔵

2018年4月11日 (水)

嫉妬や焦りを「気にしない」仏教の考え方

リンクより
将来への不安や他人に対する劣等感にさいなまれてしまう、気分はどんどん落ち込んでしまいます。そんなマイナスの感情をプラスに変える方法はないのでしょうか。ベストセラー『気にしない練習』の著者で、元結不動密蔵院住職の名取芳彦さんに聞きました――。
▼不安
結婚や出産のこと、老後のこと、自分のキャリアのこと……、将来のことを考えただけで不安になってしまいます。
過去は「過ぎ去った」と書き、未来は「まだ来ない」と書く。だからこそ変化を楽しむ心を持ち、臨機応変に人生を楽しむべし。ただ、後悔しないために、「これをやろう」「これはやめよう」と思ったら、ちゃんと覚悟すること。
 
仏教では「マイナスの感情」の説明は明快です。人間には自分の「都合」があり、都合通りにならないとマイナスの感情が生まれます。
都合とは自分の事情のこと。たとえば朝出かけるときに「うわー、寒い」と眉間にしわが寄るのは、「もっと暖かければいいのに」という都合があって、それがかなわなかったから。あるいは、自分より仕事ができる人がいると心がざわつくのは、「自分のほうが他人より仕事ができたほうがよい」という自分の都合があるせいです。
このマイナスの感情を仏教では「苦」といいますが、苦は自分の都合があるのに自分の都合通りにならないことが根源です。一方、「悟り」というのはいつでも心が穏やかな状態のこと。つまり苦がなければ、心は限りなく穏やかな「悟り」に近づくのです。
人間にとっての「苦」をなくすための方法
人間にとっての「苦」をなくすための方法は2つあります。1つは都合をかなえてしまうというやり方。たとえば車や電子レンジを発明するなど、便利なものを生み出して都合をかなえるのです。喉が渇いたときは、水を飲んで満たせば苦はなくなる。これは西洋的な考え方です。
もう1つは、仏教の考え方で、都合そのものを減らすことで苦をなくす。たとえば、「Aがいい」ではなくて「BでもCでもいい」といった具合です。「これがいい」ではなく「これでもいい」と考えられるようになれば、心は穏やかになりますよ。
未来を考えるときの3つのコツ
さて、では未来への不安はどうすればいいでしょうか。ある先輩の僧侶が、外国人から「人生で後悔するとしたら、やったことですか、やらなかったことですか」と聞かれたそうです。すると先輩は「どちらでもありません。後悔の本質とは、やったときにしても、やらなかったときにしても、心からこれをやろうと思ったかです」と答えたそうです。つまり自分自身が覚悟を持って決めたのかどうかが、未来を考えるうえで大切なのです。
未来を考えるときのコツは、3つあります。まず1つ目は、仏語でいう「観自在」。なるべく自在な考え方をすることです。たとえば、坊さんたちは紙1枚の中に雲を見ます。どういうことかというと、ただの紙だけれど、そこに雲や雨があると想像する。紙の原料がどこかの大木なら、その木を育てた太陽や雨があり、そこを巣にしていた鳥がいたかもしれない、とか。そういうことに思いを巡らし、自由な考え方をするということです。
2つ目は変化を楽しむこと。季節の変化を楽しむように、自分が年を重ねる変化を楽しむことができるならば、同じ状態を保とうと思わなくてよい。
3つ目は臨機応変であること。その場に応じて適切な行動を取れると人生は楽になります。この3つを意識するとよいでしょう。
▼劣等感
雑誌などで頭もよくて地位も高い女性の話を読むと、「私なんて全然ダメ」と劣等感を抱いてくよくよしてしまいます。
中国に「鵠(こく)を刻して鶩(あひる)に類す」ということわざがあります。白鳥を作るつもりで木を刻めばアヒル程度のものは刻める。つまり立派な人の行いをまねして努力すれば、その人にはなれないが、それに近づくことは確実にできるという意味です。
真言宗での成仏の仕方には、仏様のまねをするという方法があります。「身口意(しんくい)」といって、仏ならどうするか、どう言うか、どう考えるか、この3つをまねしろというのです。目標にする人がいたら、まずはこの3つをまねしてみるのも一案です。
失敗の連続で自己嫌悪に陥っているのであれば、そこから避難するのもひとつの手。何事も頑張ってしまう女性ほど、こうやらねば、こうあるべきとがんじがらめになっている。そんな人は、もっと周りに助けを求めるとよいですね。
▼嫉妬
仕事のできる会社の同僚の評判が気になって仕方がありません。嫉妬している自分にもイライラします。
すべては比べることから始まっている。人と比べてしまうと、一生懸命やっていることにも自己肯定感が持てなくなってしまう。向上心を持つためなら比べる相手は必要だけれど、自分を卑下しないことが大切です。
そもそも学校の成績や仕事の成果など、私たちは幼い頃からずっと比較されて生きています。
ところが仏教では、比べても意味がないという考え方をします。大正生まれの詩人・金子みすゞさんではないですが、「みんなちがってみんないい」、私は私なのです。一方で「こんなふうになりたい」とか、「その人に近づきたい」と思うなど、向上心を持つためには、人と比べることがある程度有効である場合もあります。
ただし、比べることにより、自分がやっていることの大切さがわからなくなったり、一生懸命やっていることに対して自己肯定感が持てなくなったりすると、嫉妬につながってしまいます。
嫉妬の気持ちが生まれたら、机の上や引き出しの整理をするのがおすすめです。いろいろ散在しているものをキレイに整理すると、心の中も整理されていきます。
特に引き出しの中。アイテムごとに分類できる仕切りをつくって、鉛筆は鉛筆、クリップはクリップ、と並べていくと、それぞれほかの文房具と比べても意味がないことに気づきます。「私はクリップなのに鉛筆に嫉妬してるわ」と思えるようになりますよ。




森浩平

2018年4月 6日 (金)

「深く考える力」の本質

“古い観念に思考が妨げられて、自由自在に思考できない”“もっとすっきりできそうなのに、モヤモヤが残る”いう思いは、多くの人が感じていると思います。
このような思考の壁は、とことん事実を追求した天才だけが突破できるとも言えますが、むしろ我々多くの凡人は入口部分で躓いているだけ、という疑いが濃厚です。
過去るいネットでも「3分間、観念停止」(315890)、「『1日10分』で脳が生まれ変わる』」(204692)といった認識が提示されていますが、以下同様に思考の壁突破に向けた認識を、田坂広志(田坂塾)の「深く考える力」から引用紹介させていただきます。
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我々の多くは、緻密に論理を積み上げていくことが
「考える力」であると思っていますが、
実は、それは、「考える」という行為としては、
ごく初歩的な段階にすぎません。
 
最も高度な「考える力」とは、
そうした論理思考を超え、突如、新たな考えが閃く直観力のこと。
それが「深く考える力」の本質です。
そして、「賢明なもう一人の自分」は、まさに、その直観力を持っています。
また、例えば、データベースを超えた「膨大な記憶力」。
我々の心の奥深くには、実は、
人生で触れたすべての情報が記憶されています。
しかし、我々の通常の思考では、
それらの情報のごくわずかしか取り出すことができません。
 
しかし、「賢明なもう一人の自分」は、それらの情報の中から、
必要なものを、瞬時に取り出すことができます。
実際、表面意識でのブレーンストーミングでは
どれほど考えても思い浮かばなかった記憶が、
「賢明なもう一人の自分」が動きだすと、突如、
心の深層から浮かび上がってくることは、しばしばあります。
このように、我々誰の中にもいる「賢明なもう一人の自分」は、
こうした素晴らしい能力を持っているのですが、
では、なぜ、そうした能力が、我々の日常の思考において発揮されないのか。
その理由は、「自己限定」です。
すなわち、我々の多くは、
自分の中に、そうした力があると信じていないのです。
いや、むしろ、我々の多くは、「自分は直観力が無い」「自分は記憶力が悪い」という
無意識の自己限定をしてしまっており、この自己限定が、我々の力の発揮を妨げ、
ときに、無残なほど委縮させてしまっているのです。
しかし、もし、我々が、
この無意識の自己限定を取り払うことができるならば、
その瞬間に、我々の中から「賢明なもう一人の自分」が現れ、
直観力や記憶力を始めとする、素晴らしい叡智を発揮してくれます。
 
それが、「深く考える力」の本質です。
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(リンク)




 
竹村誠一

2018年4月 5日 (木)

人の悪口を言うと、自分自身が傷つく理由

潜在意識を守る 悪口を言わないリンクから引用させていただきます。
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人の悪口を言うと、自分自身が傷つく理由。【脳科学】リンク
脳は主語が理解できない
私たちが日頃何気なく使っている言葉が、脳と体に大きく影響しています。
例えば、脳は主語を理解できないという性質を持っています。 
主語が理解できないので、自分が発した言葉全てを自分のこととしてとらえてしまいます。
(中略)
大脳新皮質(理性・知性の脳)を「新しい脳」、それ以外を「古い脳」と呼びます。
人間特有の高度な精神活動を担当する「新しい脳」のほうは主語を認識できているのですが、感情を司る「古い脳」のほうは認識できず、新しい脳から送られてくる情報をすべて鵜呑みにしてしまう性質があります。
だから、人の悪口を言うと、脳の中では自分が悪口を言われた時と同じ状態になる
つまり、相手の悪口を言うと、自分自身に悪口を言っていると判断し、自分も傷つき気分が悪くなります。
人をけなしてばかりいる人は、なぜか自己嫌悪に陥っていくのはそのためです。
そして、より、人に対して攻撃的になります。(自分が自分を無意識に攻撃している状態となるわけですから逃げようがありませんね)
(中略)
人の悪口ばっかり言ってる人に明る人を見たことがない。
そういう人は、鬱屈していて、どこか影があり、不幸そうに見える。
(中略)
もうネット上にあふれるヘイト文字は読まない。
書いてる本人は自分を傷つけてるのが分かってない。
そんなものばかり見てたらヘイトな感じが潜在意識にどんどん蓄積していって
心がギスギスする。
(中略)
さっきの続きでタイガーウッズさんの話が載ってました。
スポーツの試合で、どうしても勝ちたくて【あ~相手がミスればいいのに】【相手のシュートが入るな ! 】などと思うことが、ありますね! それは、知らないまま自分で自分に呪いをかけていることになっているのです。
反対に、相手を褒めれば、自分が褒められたのと同じ状態に。
反対に相手を褒めてあげると、自分が褒められたと思い、気分が良くなり自尊意識が高まります。
タイガーウッズは、ココ一番の大勝負の瞬間、対戦相手が上手くいきますように!と祈るそうです。
(中略)
悪口の反対。褒めまくろうと思います。
------------------------------(引用終わり)-----





上前二郎

2018年2月28日 (水)

厄介なのは「わからない」ではなく、「わかりたくない」なんだよね。

リンクより引用
***
コンサルタントをしていた時、記憶に焼き付いた先輩からの一言がある。
『厄介なのは「わからない」ではなく、「わかりたくない」なんだよね。』
これは、聞いたときにはそうでもないと思ったが、時が経てば経つほど、含蓄のある言葉だったとわかった。
人は、自分の経験や知識の中にないことを聞いた時、二通りの反応を示す。
一つは「わからない」。
そしてもう一つは「わかりたくない」である。
ちょっとした言葉の違いくらいかと思いきや、この2つの差は天と地ほど大きい。
人は「わかりたくない」時がある。
例えば、こんな話がある。
目の前にボタンがあると想像して欲しい。あなたはその管理者から「好きなときにボタンを押してください」と言われる。
あなたはしばらくした後「そろそろボタンを押すか」と思い、ボタンを押す。
この「ボタンを押す」という行為。じつはあなたの意思でボタンを押したのではない……
と聞かされたら、どう思うだろうか?
普通の人は「は?何いってんの?」と思うだろう。
実は上の主張、科学的な根拠がある。
脳科学者の池谷裕二氏は著書の中で「自由意志は潜在意識の奴隷」と述べ、上のような状態の時
「意識より先に体が動いている」ということを脳波の測定実験によって確かめている。
簡単に言えば、
「腕を動かそう」と思う ⇒ 「腕が動いてボタンを押す」
ではなく、
「腕が動いてボタンを押す」⇒ 「腕を動かそう」と思う
が正しいのだ。
この事実はもちろん、直感に反する。
「いやいや、俺が動かそうと思ったから、腕が動いたんだろう!」という人は多いと思うが(私もその一人だ)、実際には逆なのだ。
意識は動くことよりも遅れて脳の中に現れ、あたかも「自分が動かしたように思える」のが実際なのだ。
そして、肝心なのはここからだ。
この話に対する反応は、概ね2通りに分かれる。
まず「わからない人」の反応は、概ね以下の通りだ。
「へえ、よくわからないけど不思議だね」
「どういう実験をしたの?」
「それは脳科学では普通の考え方なの?」
この場合、知識が不足して自分では理解ができない、あるいは足りない知識を補おうとする様子が見て取れる。
しかし、「わかりたくない人」は以下の反応を示す。
「そんなわけない。」
「信じられない。」
「嘘だ。」
つまり、自分の既成概念を優先し、事実を受け止めることができない。これが「わかりたくない人」だ。
他にもある。
ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンは統計データから「ビジョナリー・カンパニーの業績は特に良いわけではない。」との見解を示した。
『ビジョナリー・カンパニー』で調査対象になった卓越した企業とぱっとしない企業との収益性と株式リターンの格差は、大まかに言って調査期間後には縮小し、ほとんどゼロに近づいている。
トム・ピーターズとロバート・ウォーターマンのベストセラー『エクセレント・カンパニー』で取り上げられた企業の平均収益も、短期間のうちに大幅減を記録している。(中略)
あなたはたぶん、これらの結果に原因を見つけようとしただろう。たとえば、成功した企業は自己満足に陥ったからだとか、冴えなかった企業は汚名返上に頑張ったのだとか、だがそれは間違っている。
当初の差はかなりの部分が運によるのであって、運は輝かしい成功にもそれ以外の平凡な業績にも作用していたのだから、この格差は必ず縮小することになる。この統計的事実には、既に私たちは遭遇している――そう、平均への回帰である。
この話を読んだ時、かなり意外に感じたことは確かだ。
そして、この話への反応も大きく2つに分かれた。
何人かの経営者は
「その見解と異なる統計データがある」
「どのようにその結論を導いたのか」
「データのとり方を知りたい」
と疑問に対して議論をしていた。
しかし「直感に反することはわかりたくない」という人も多い。
「私の経験では」
「知り合いの経営者はこう言っている」
「そんなわけあるか」
という反応を示し、それ以上理解をしようとしなかった人も数多くいた。
大切な事実を「わかりたくない」となるとマズい。
これらは、飲み会のネタ程度で済めばいいのだが、仕事の成果に係る話だと厄介だ。
例えば、以前営業の支援をしていた時、どうしても自分自身の営業の下手さを認められない人がいた。
「あなたの成約率は◯◯」
とデータを示しても、
「データの見方がわからん(理解したくない)」
「データが間違っている」
「そんな話は聞きたくない」
と、話し合いそのものを拒否してしまう。
これは、仕事上は極めて厄介な事象で、先輩が『厄介なのは「わからない」ではなく、「わかりたくない」なんだよね。』
と言っていた理由がよく分かる。
そういう人にはむしろ、事実を突きつけても何も変わらないので、
褒めて、なだめて、機嫌を取って、行動を変えてもらうしかない。
世の中には、客観的事実に基づいて、自分の考えを変えることのできる人と、
客観的事実よりも自分の見えているもののほうが大事な人の2種類が存在している。
その事実を認識しているかどうかで、仕事の出来は大きく変わるにもかかわらず、である。




別所彦次郎

2018年2月26日 (月)

資本論の源流もタルムード

「メシア思想」と「タルムード」がマルクス主義の源流()とのことだが、「資本論」の源流もタルムードのようだ。
以下、リンクより
■資本論の源流もタルムード
「共産党宣言」「経済学批判」と予言的虚構仮設を書いてきたマルクスではあったが、本来学者志望のマルクスがこれに満足するはずもなかったことはむしろ当然というべきであろう。
大英博物館へ通う生活を始めたマルクスについて、極貧状態の中で『資本論』の執筆を続けたという神話が従来一般的であった。最近では、マルクスが女中に子供を宿し、エンゲルスがそれを認知していたという事実が明るみに出てきた。これなど「神話」を信じ込んでいた人には信じられないことだろう。何故、極貧状態の中で生活しているものが女中など雇えるのか、という疑問が先ず出るであろう。
だが、マルクスの実像はユダヤの組織から巨額の資金を得ていたのである。マルクスがロンドン時代に住んだソーホーにある住居は現代流にいえば都心の高級マンションともいうべきものである。ソーホー地区は19世紀時代は現在のそれとちがって高級住宅地であった。マルクスは、このような恵まれた環境の中でゆうゆうと民族の至上目的のため虚構仮設の創作にかかっていたのであった。
ここでマルクスが創作した『資本論』は日本では「経済学体系」の中へ組み込まれているようである。マルクス主義という怪物もこの『資本論』がなかったら、怪物たる威力を発揮することはなかったかもしれない。「共産党宣言」や「経済学批判」では、学問体系としてまじめに考えるわけにはいかないであろう。
しかるにこの『資本論』が一見学問風の装いを身につけているため、マルクス主義というものがこれほど大きな影響を世界史に与えることになったといえよう。
しかし、この『資本論』は個々の部分に学究的態度の反映が見出されることを否定はしないが、悲しいかな、全体を流れる思想はマルクス主義全体の場合と同じく、メシア思想とタルムードの思想に他ならない。総論反対、各論賛成とでもいおうか。やはりこれも、予言者といわなければならないようである。
日本では『資本論』の研究レベルは他国と比べてケタ外れに高いといわれる。『資本論』研究ということになれば、この「予言者」の発想の源流、構築作業の過程、目的などの解明に焦点を当てなければならないと思うのだが、何故か「経済学」に対する訓話学的態度しか日本では見られない。
マルクスが一連の予言者のけじめとして、また多少とも自己の学者としての欲求を満たさんがために余生を打ち込んだのがこの『資本論』であるが、マルクス主義と同じく「始めに結論ありき」という類いである。結論がアプリオリに出されてしまっている。アプリオリに出された結論とは「革命」である。したがって、これも帰納的手法では迷宮入りするしかないのであって、演繹的に分解する必要がある。
〈中略〉
■「搾取」の意味と語源
マルクス主義構築の原点となったのがタルムードの思想にあるといったが、『資本論』においても同じである。
再三繰り返し引用して恐縮であるが、「非ユダヤ人の財産は一時彼らに預けてあるものである」──結論は今いったように「革命」であるが、原点はやはりここから始まる。
『資本論』の中でも有名なかの剰余価値の法則というのがこれである。マルクスはこれを「搾取」と呼んでいると一般にはいわれているようだが、マルクスの頭にはこの「搾取」の方が先にあったのである。前述のタルムードの思想をよく考えてみると「本来自分達に属する筈の財産が理不尽にも現在は他人の手にある」。この考えが「搾取」という言葉の原像である。
Ausbeutung というドイツ語がある。普通これは日本で「搾取」といわれている言葉である。このAusbeutung という言葉は、中世においてユダヤ人に投げつけられた言葉であった。中世においてはユダヤ人に許された唯一の正業は高利貸しであった。高利貸しという特殊な職業からして、その商法はそれも特殊なものにならざるを得なかった。その特殊なユダヤ人の商法を非ユダヤ人は Ausbeutung といったのである。
強烈な民族主義者であるマルクスがこの不名誉な言葉をいつかは非ユダヤ人に投げ返してやりたいと秘かに思っていたとしても、なんら不思議はないであろう。
マルクスの考えでは、本来自分達に属するものを故なく奪われているのであるからそれを取り返すのは当り前である。しかるに高利貸しの如き微々たる収奪でもさっそく「搾取」という言葉を投げられている。これは割に合わない、と考えるのは自然であろう。
引用終わり




匿名希望

2018年2月25日 (日)

宗教を知らずして世界の歴史と今はわからない! 学校では詳しく教えてくれない宗教について学ぼう

以下リンクより抜粋
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「キリスト教」や「仏教」という言葉を知らない人はいないだろう。最近では「イスラム国」の影響もあり、「イスラム教」の知名度も格段に(しかも、悪い方向で)高まっている。
 けれど、「どこまで知っているか」と問われてしまうと、その三つの宗教の違いを的確に説明できる人もそれほど多くはないと思う。特に、キリスト教もイスラム教も、元は同じ「ユダヤ教」から派生したものだとさえ、知らない方もいるだろう。
 これはひとえに、学校で宗教について詳しく教えてくれないことに原因がある。日本人は「無宗教」で、オウム真理教やイスラム国のネガティブなイメージがあり、なんとなく「宗教に深入りするのはタブー」といったような風潮がある。だが、ワールドワイドな現代社会を正しく理解するために、宗教の知識は必須教養だ。
『図解世界5大宗教全史』(中村圭志/ディスカヴァー・トゥエンティワン)は、「宗教について知りたい」という多くの声に応えて、「世界の諸宗教の歴史、教え、教典の内容、習慣などを、マクロに、相互に比較しつつ、展望すること」かつ「細かなことは切り捨てるが、重要箇所についてはクローズアップしてディテールに踏み込むこと」そして「この二点をチャートやイラストのアナログ情報に生かすこと」に注意して書かれた「初心者からある程度知識を持つ人に向けて、詳細で分かりやすい宗教ガイドブック」だ。
 見開きの右半分は文章での説明。左半分はイラスト付きのフローチャートになっているため、文章の内容をしっかりと理解できる仕組みになっている。例えば、「仏教」「キリスト教」「イスラム教」の三つも、ポイントを比較した図解があるため、文章で読んでいた内容を頭の中ですっきりまとめることができる。
≪三大宗教のポイント≫
○開祖は?
仏教―釈迦(ブッダ)
キリスト教―イエス
イスラム教―ムハンマド
○めざすものは?
仏教―ブッダの道に従い、煩悩からの解脱をめざす。
キリスト教―キリストの信仰により、罪からの解放をめざす。
イスラム教―唯一神(アッラー)に従い、平等、平和に暮らす。
○教典は?
仏教―仏典
キリスト教―新約聖書
イスラム教―コーラン(聖書も尊重)
○修行や儀礼や生活規範は?
仏教―出家者は多くの戒に服し、瞑想行などに励む。在家者は五戒を守る。
キリスト教―聖餐式(ミサ)にあずかり、聖書と教会の教えに従って身を律する。
イスラム教―「六信」、「五行」、イスラム法に従う。
○施設は?
仏教―寺
キリスト教―教会
イスラム教―モスク
○専門家は?
仏教―僧侶(本来は修行者だが、人々の相談役でもある)
キリスト教―司祭(カトリックなど)、牧師(プロテスタント)
イスラム教―ウラマー(イスラム諸学の学者)
上記は、本当に簡単にまとめたもので、その詳細は文章で堪能することができる。
 最後に、宗教において今最も注目されている「イスラム教」について少しだけ触れたい。「イスラム主義」というのは「イスラムの理念に基づく国家の創成を目指す思想・運動のこと」で、「イスラム主義」が必ずしも「悪い」集団を表すわけではない。このイスラム主義の中で、テロなどの過激な方法をとる一部の者たちが「イスラム過激派」となっている。
日本では「政教分離」(政治と宗教は別)という立場をとっているが、イスラム教は「宗教は個人の内面だけの問題と考えていないので」、どうしても、政治と深く関わってきてしまうらしい。そこから宗教に関する紛争や暴動が起こってしまうのだ。
<後略>


匿名希望

2018年2月24日 (土)

「メシア思想」と「タルムード」がマルクス主義の源流

以下引用サイト
リンク
********************************************
前略
■「メシア思想」と「タルムード」がマルクス主義の源流
さて、ここにはユダヤ的思考の最も大切な2つの要素が含まれている。
1つは、メシア思想の基本パターンである。選民たるユダヤ民族が、異教徒との葛藤に勝利を収め、至福千年王国を建設するという終末論である。これが唯物史観の原型である。選民とはプロレタリアートであり、異教徒がブルジョアジーである。
これこそユダヤ的思考法の二元論の原型である。これに宗教的倫理観が加味されるので、善悪二元論と呼ばれるわけである。ロシアから亡命した哲学者ベルジャーエフはすでに、マルクス主義は出発点において黙示録的性格を有すると分析していたのであった。
また、日本では鈴木成高氏がその著書『歴史的国家の理念』において、「唯物史観はその最後の帰結においてプロレタリア独裁を想定し、歴史の弁証法的発展を止揚することによって、一種のエスカトロギー終末論に陥っているといわなければならないのである。発展的力学の論理はそこにおいて停止し、階級対立の消滅、国家の解消とともに歴史もまた終止する。それは、ユダヤ的終末観とその外形において極めて酷似するものがあることを思わせる。
すなわち、プロレタリアートは神の選民に該当し、ブルジョアは異邦人に該当する。歴史はエホバの代わりに、同じく人間意志と能力を超越した、経済的必然によって支配されるのである」と述べ、かなり克明に本質を突いている。日本では恐らく唯一人の仮設論者であろう。
 
■ユダヤ・キリスト教とマルクス主義史観の基本構造
上の図を見れば、ユダヤ・キリスト教(いわゆるヘブライズム)とマルクス主義の歴史観が、その基本構想において、いかに同じものであるかが、お分かり頂けよう。マルクス主義とヘブライズムがいかに同じ土壌に立ち、同じ延長線上にあるかは賢明な有識者がしばしば指摘しているところである。
 
さて、もう一つの要素たるものは、ユダヤの民法ともいわれるタルムードの思想である。これはユダヤ人たるもの、生まれてから死ぬまで信念としているものである。タルムードは5、6世紀ごろ完成された実に膨大な法であるが、また日本では戦後いろいろのユダヤ人、日本人によって紹介されているようであるが、不思議なことに、何故かこの最も肝心なところが紹介されていないようである。
肝心なところというのは、「シュルハンアルクノショッツェンハミツバッド第348条」である。すなわち「非ユダヤ人の所有する財産は本来ユダヤ人に属するものなれど一時彼らに預けてあるだけである。故に何らの遠慮もなくこれら財産をユダヤ人の手に収むるも可なり」とするものである。
これの意味するところは大別して2つある。1つは、「一時預けてあるものであるから、何時なん時でも代償を払わずに取り返して然るべきものである」ということであり、もう1つはユダヤ人の財産は故なく非ユダヤ人に奪われたものである」ということになる。
前者がレヴィーのマルクスヘの手紙の骨子となっているものである。つまり、私有財産の奪取という思想はここから来ているのである。さらにもう1つの後者の解釈はマルクスの大作「資本論」の根本思想をなしているものなのである。つまり、「ユダヤ人の財産は故なく非ユダヤ人に奪われたものである」からかの有名な剰余価値説が生まれているわけであり、「搾取」とマルクスが強調するものである。
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西本圭

2018年1月19日 (金)

『宗教は文化ではない』

リンク
「宗教は文化では無い」という見解が必要になってきています。
宗教は「人間が生きてその系譜に感謝を捧げること」が基本であったはず。
ハダム・シャリーム:神殿の丘、そこに分断されている「壁」。
ユダヤ・イスラム・カソリックという三つの宗教は、
聖地の主権、礼拝権がこれら宗教の利害や経済関係となり、
宗教対立が民族対立を生んでいます。
宗教は宗教哲学として、私には仏教が生活の中にありました。
そして、米国で私自身が仕事をするとなったときには、
原始キリスト教・旧約・新約から、カソリックとプロテスタントを学習。
いわゆるキリスト教と仏教とは比較検討の知識化、
そこから改めて新興宗教もみてきました。
そして、ユダヤ教、イスラム教は宗教哲学でないので、
私には生活との一体感は全く不明でした。
正直、イスラム圏は分かりません。
イスラム教での教義からのテロは、いわば、危機管理=リスクデザインとしても日本では不可能が結論です。
おそらく、私の予想では、欧州もイスラム教に支配されるでしょう。
G7、G8にしてもこれらはキリスト教支配下であり、
日本の仏教思想のまともな宗教論理は外れています。
私は宗教は、世界観の文化では無いと思っています。
キリスト教の分断は英語が分断されて、イスラム教内での分断は、
より大きな力になって欧州はやがてこの宗教に支配されるかも知れません。
それこそ、歴史は戦争の系譜でしかなく、その裏側には宗教、
特にキリスト教が根付いていたことは否めません。
そのキリスト教の歴史も簡潔にまとめてしまえば、
差別と信仰感を支配してきた系譜になるだけです。
よって、宗教での倫理性などは無神論とせざるをえなかった哲学が存在。
結局は、「生きる」ことと「死んで逝くこと」を宗教支配で差別闘争、
これをもっても宗教は文化とは言えないと判断すべきでしょう。
今、世界は宗教分離は信仰差別が闘争となってしまったと言えるでしょう。
私は改めて仏教も根柢で見直して、民族思想の文化=美と義と善を、
デザイン思想に取り込み直すべきと考えています。
宗教の「壁」はデザインにとってもアポリアだと考えざるをえません。




大川剛史

«「他人を変えようとする限り平和は来ない」ネイティブアメリカン

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