2017年6月16日 (金)

書評『人生は残酷である-実存主義(エリート)の終焉と自然哲学への憧憬』

戦後教育は、知識人といわれる、己のことしか考えず社会を傍観者として批判するだけの人々が信奉する近代思想を浸透させた。そして現在、マルクスもサルトルも近代思想も知らない人々が大勢を占めるようになった。
そのため、それらの人々は、顕在意識上は近代思想など自分には無関係と思っている。しかし、その本質の、教えられた内容を疑うことも無く信じて、それと異なる意見は傍観者として批判するだけで、自らその本質を見極めていこうとしない習性は、戦後の近代思想教育の産物であることに無自覚である。
それは、
>「戦争反対、差別反対」を声高に叫ぶ<善意の人たち>という暴力的カルトイデオロギー集団。
と同じ思考法である。
そこを超えて本当の充足を得るためには、
>人は崇高で深遠な思いと同時に、地に足を着けた現実という生き様を矛盾することなくやりこなしていかなくてはならない。それはなかなか骨の折れることではあるが、「やる」という選択しか人類には与えられていないと私は思う。
のように、みんなが幸せな社会になるように、現実を直視し、たとえそれが今まで教えられたこととは異なっていても謙虚に受け止め、事実を追求し続けていくことが必要になる。
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(リンク)
著者が一貫して言わんとすることは、エリートと言われる人たち即ち学者や評論家あるいは一流企業人や官僚たちが、ただそれだけでエリートとして通用している事への懐疑、政治家の器と視野の狭さに対する批判である。
彼らからは、世界は心豊かな社会へとはなりえないことを指摘している。
後半では日本人のこれからの未来との関りについて深く鋭い視点に目を醒まされる!
特に戦後思想界をリードしてきたサルトル実存主義の日本知識人への絶大な影響とあまりに酷い後遺症、そして、マスメディアに支配され続ける無思考な国民への警鐘が鳴らされている。
さらに戦後日本の知識人を衝き動かし、いまもエリートに浸透するマルクス思想。
そして、「自由に生きよ! 」「行動せよ! 」と呼びかけたサルトルに日本の全知識人が影響された事実を否定することはできない。戦後日本人は、進歩的に映ったこの思想に支配され、今もマスメディアや教育の現場を支配し続ける。しかし、それは無思考のままに未成熟な外来思想に追随した愚行に過ぎなかったのではないか。
したり顔で、単なるイデオロギー的偏見や感情論を垂れ流すテレビのコメンテーターたち。
ヒステリックにトランプ大統領に反対する知識層と一般大衆。実は全てが情報操作でしかない。
「戦争反対、差別反対」を声高に叫ぶ<善意の人たち>という暴力的カルトイデオロギー集団。
誰もが自分の頭で考え、自分の言葉で意見を発していると思っているが、その全てがカルトイデオロギーと無思考の産物でしかないと著者は説く。
そして、著者は読者に問いかける―。
「人が考えるということ」「思索すること」とはどういうことなのだろうか。
そして「自分の人生を生きる」とは。
さらには、「自分」が「存在する」ということの本質は何だろうか、と問い直す。
《中略》
人は崇高で深遠な思いと同時に、地に足を着けた現実という生き様を矛盾することなくやりこなしていかなくてはならない。それはなかなか骨の折れることではあるが、「やる」という選択しか人類には与えられていないと私は思う。



 
本田真吾

無知の知を知る方法

村上春樹は新刊で40万人の南京大虐殺があったと書き、それを非難されると「歴史を修正しようとする者たちとは戦っていかねばならない」と反論した。
村上春樹は南京大虐殺についてどの位研究したのだろうか、少しでも研究・調査すれば“あった”と言うには躊躇するような多くの矛盾が出てくるはずである。
彼の南京大虐殺の知識というのは我々一般人と同じで、ただ聞きかじった知識であろう。その聞きかじった知識で全世界に向かって南京では40万人が虐殺されたと喧伝したのだ、なんという無責任な奴であろうか。七十に近い男が言論には責任が伴うということが未だ分かっていない。
誰か村上春樹に対して言ってやればいいのだ「貴方は本当に南京大虐殺を信じて書いたのか?もし嘘だった場合、大変なことになるぞ、どう責任を取るつもりなのだ、命を賭けても40万人大虐殺はあったと言えるのか」と。
若いころ村上春樹の本を読もうとしたが「ノルウェイの森」というタイトルを見て、薄っぺらで欺瞞的なものを感じて村上春樹を読むことをやめたが、あの時の直感は正しかったようだ。
私たち人間は無意識的に“自分の考えていることは正しい”と信じ込む癖がある。それを改めようとしたのが、ソクラテスや孔子、釈迦が言及している“無知の知”であろう。それは、つまり知識人たちはなんでも分かっていると考えているが、本当は何も分かっていない、また神の知恵に比べて我々人間の知恵など取るに足らないものだから、我々は常に謙虚であるべきだというものであろう。
我々はソクラテスたちの時代から何も進歩していない、何千年たっても人類は“無知の知”を自分たちのものにできていない。現在においても我々は“自分の考えた事は正しい”と考え安易にネットなどに書き込んでいる。
私たちがもう少し謙虚で自分たちは無知であると知る為にはどうすれば良いのか。 自分の意見・考えに対して“本当はどの位自信を持っているのか”がピタリと分かる方法がある。
それは自分の全財産の内どのくらいなら賭けられるだろうかと考えることである。
例えば財産が一千万円あるとして、その内いくら位なら実際賭けられるだろうかと考える。数万円なら賭けられる、それでは数十万はどうだ、数百万では・・・と考えていけば、いくら位までなら賭けられるという金額が出てくる。その出てきた金額が自分の考えに対する自信の程度を示している。自分の考えが絶対に正しいと考えていれば全財産どころか命だって賭けられるであろう。しかし数十万円しか賭けられないと思うならば、それはほとんど信じていないということになる。信じてもいない事をいかにも正しいかのように発言するのは詐欺師である。
責任感をあまり感じないネット上で発言するにしても、責任が伴う事柄ならば、せめて全財産の半分ぐらいは賭けられるという自信ができて初めて発言すべきであろう。このように“実際いくら位なら賭けられるだろうか”と自問自答をしてみれば、多くの場合は“私はまだ本当には信じていないのだ、無責任に発言すべきでない”と自分の無知を理解し謙虚になることができる。
皆さんも「自分の意見は正しい」と思った時には“自分は全財産の内どの位本気で賭けられるだろうか”と自問自答してみてください、そうすれば本心ではどのくらい自分の考えに自信を持っているのかがピタリと分かりますから。



蘆花

2017年6月15日 (木)

宗教の悲惨な歴史

比叡山延暦寺を焼き討ちは、日本での虐殺の事例としてよく出て来るが、一方で政教分離を守る戦いとも取れる。他国での宗教の悲惨な歴史を見ると、頷ける。
>信長の最も大きな功績は、政治的な力をもった仏教を壊滅し、宗教が政治に口だしすることを防いだことかもしれない。これにより、江戸時代は政教分離が守られ、明治以降、日本人は宗教に捕らわれないフレキシブルな考えをもって海外の技術を導入し、短期間に国力を蓄えた。
雑記帳より転載です
リンク
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宗教の悲惨な歴史
Distressing history of religion
イデオロギー:政治や社会のあるべき姿についての理念の体系
それ自体は、一見、正しく崇高な理念であっても、現実を無視し、人間の本性を無視した理念は、正義どころか悪になります。恐ろしいのは、悪と知りつつ行う行為には歯止めがありますが、正義と信じて行う行為には歯止めが無いことです。
一途に思い込んだ正義ほどやっかいなものはなく、イデオロギーに魅了され帰依した人間は、その失敗を認めず、どんなことになろうと、『善意から出た行動が、悪い結果に結びつく筈がない』と考えます。そして、そのイデオロギーを標榜する国家や組織が犯した悪や失敗を認めようとしないのです。
人類が20世紀に学んだのは、政治にイデオローギを持ち込んだ社会主義は、『平等な社会を造る』という崇高な目標を掲げてスタートしたにもかかわらず、共産党員という支配階級と非支配階級に別れたとたんに極めて不平等な社会になったということです。
さて、イデオロギーの最たるのものが、宗教です。
『神の国をつくる』という、その人や集団にとっては正しく崇高な理念であっても、その神を信じない人にとっては悪魔の理念であって、極めて危険な思想です。
歴史が教えるのは、究極のイデオロギーである宗教が政治に関与した場合には常に悲惨な結果をもたらしてきたということです。逆に宗教と政治を分離し、宗教に捕らわれない政治を行った国は永らえ、発展しているという事実です。。
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■現在のドイツを中心に戦われた、30年戦争。単なる覇権を争うだけなら、プロテスタントとクリスチャンの間の宗教戦争という側面があったために、『神の名において異端者を完全に抹殺』した結果、多くの都市が完全に消滅し、ドイツの人口は1/3に減ってしまった。
■ローマ帝国末期。衰えたとはいえ、ローマ帝国にはまだ軍隊があり抵抗が可能な時に、キリスト教の司教たちは信者にむけ、『北方蛮族によって破壊され殺されているのは地上の国であって、われわれキリスト教徒にとっての安住の地は死んだ後に行く神の国以外には無い』と説いていた。紀元455年にヴァンダル族が僅か1万の軍で攻めてきた時、ローマ法王レオは、キリスト教会と関連施設は略奪の対象外との条件をつけて略奪や殺戮を認め、20万人以上のローマ市民は抵抗しなかった。この後、西ローマ帝国は紀元476年に滅びる。
ローマはローマ法のもとで、その地方や民族にあった広範囲な自治権を認め、寛容の精神で統治していた。ユダヤにおいても、ユダヤ教の特殊性を認め、ローマへの兵役負担などの義務を免除し、神官による広範囲な自治は認めが、統治に関しては神権政治は認めなかった。しかし、ユダヤ教はイスラム原理主義と同じく、神権政治こそが究極の目標であったため、何度も反乱を起こし、70年のマサダの砦で終わるエルサレム陥落の戦争を経て、131年には、救世主(メシア)を名乗った指導者のもとで大規模な反乱が起こった。
五賢帝のひとりであったハドリアヌスはこれを鎮圧。ユダヤ民族がパレスティナに住むのを禁じた。これ以降、1948年のイスラエル建国まで、ユダヤ民族は国をもたない流浪の民となる。
■ヴェネティア共和国。中世のキリスト教全盛の時代にあって、サン・マルコ教会を人々の心の拠り所にしていたにも関わらず、宗教と政治を完全に分離し、政治に一切口だしさせなかった。
ローマ法王が唯一、自分の思い通りにならない国と嘆いたが、巧みな外交戦略によってヴェネティア共和国は1000年の長きにわたって繁栄し、地中海を支配した。
■日本の戦国時代、浄土真宗の一向宗が爆発的に広がり、信者からのお布施によって、本願寺は日本各地に大きな支配力と資金力をもつ存在となった。各地で一向宗による一揆が起こり、加賀では一向宗の国ができて、仏教による神権政治が始まった。これに対抗したのが織田信長。比叡山延暦寺を焼き討ちしたのを手始めに、伊勢や越前の一向一揆を攻め、日本史上例のない、女子供を含む門徒全員の大量殺戮を行った。総本山である大阪の石山本願寺も長期にわたる籠城戦ののち攻め滅ぼした。
信長は戦国時代を終わらせる道を拓き、楽市楽座などの革新的な政治を行ったが、信長の最も大きな功績は、政治的な力をもった仏教を壊滅し、宗教が政治に口だしすることを防いだことかもしれない。これにより、江戸時代は政教分離が守られ、明治以降、日本人は宗教に捕らわれないフレキシブルな考えをもって海外の技術を導入し、短期間に国力を蓄えた。
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(転載おわり)





孫市

2017年5月27日 (土)

権利、自由、責任について

権利という言葉は誤訳であるとよく言われる。権利は英語の「right」の訳であるが、権利という字には「正しい」の意味が含まれていない、だから誤訳だという。しかし権のもともとの語源は「棒ばかり」である。棒ばかりは物の重さを正しく計るものであるから、正しいの意味は含まれている。弁護士のバッチにも公正・平等の意味で「天秤ばかり」が描かれている。
ですから権利の意味を教えるとき“権の語源は棒ばかりであり、正しいという意味がある。それゆえ正しいことの利益の要求が権利である”と教えれば、今のように何でもかんでも権利だ、権利だと言わなくなるのではないだろうか。「権利とは正しいことなら要求できる」と国民に広く認識させればそれで充分であろう。できれば福沢諭吉が示したように権利は“権理”という文字にするのがベストであろう。
権利の意味は正しいということであり、その権利の行使を「自由」という。私たちがよく使う自由の意味は勝手気ままという意味が殆どであろう。ではなぜ勝手気ままにできるのか、それは世間において正しいと認識されているからである。公園を散歩するのは自由だ、しかし私有地を勝手に散歩はできない。正しくないことは自由勝手にはできないのである。ゆえに正しいことを行使するのが自由である。自由とは正しい言動ならば自由勝手にどうぞと言う事である。
そして自由とは常に、この世を良くするために使われるべき言葉であり、悪くするために使う言葉ではない。“報道しない自由がある”などと悪用してはならないのだ。
基本的に権利には義務が、自由には責任が伴うと言われている。例えば車を運転したいと権利を要求すれば、自動車教習所に行って運転技術や道路法規を習得する義務を果たさねばならない。義務を果たせば権利(運転免許証)が貰える。しかし権利だけではまだ責任は生じない。次に車を買って車を運転するとなれば、これは権利の行使であるから自由になる。自由には責任が伴うから責任を取るために保険に入らねばならなくなる。自由だけでなく行動・発言には常に責任が伴うのだ。このことを最近の日本人はすっかり忘れている。すべての言動には責任が伴うのである。
昔の日本には権利や自由という言葉はなかった。しかし何の不自由もなく社会は回っていた。なぜなら間違ったことをやれば腹を切って責任を取るという文化が日本社会にはあったからである。権利や自由や人権などの言葉が西洋から輸入され責任が片隅に追いやられ日本社会は本当に軽薄になってしまった。「何かあれば責任を取る」という文化が薄らいで、権利だ、自由だ、人権だと叫んでいる欧米国家以上の「無責任国家」になった。
権利や自由の前にあるのは責任である。
少し茶化していえば、聖書には“初めに言葉ありき”とある。やおら神が何か言おうとしたので「神様、ちょっと待ってくださいよ、何か言うのはいいけれど、言葉の前には責任ありきですよ。発言するなら、ちゃんと責任をもって発言してくださいよ」ということなのである。
私たち日本人が“言動には常に責任が伴うのだ”と責任感さえしっかりと認識するようになれば、権利や自由や人権を叫ぶ無責任国家とおさらばし、もう少しまともな国家になれるのだが。責任感の復権こそが日本の復権のカギである。



蘆花

2017年5月24日 (水)

「七つの大罪」と「無財の七施」

4/11の朝日新聞に、素敵な記事があったのでご紹介します。
筆者である徳永進さんは野の花診療所というホスピスの院長をなさる方です。
___________
 人間には「七つの大罪」があるらしい。カトリックの教えである。
「暴食」「色欲」「強欲」「憤怒」「怠惰」「傲慢」「嫉妬」の七つ。心当たりある、他人事じゃないわ、と思う。誰もが人生、これらの罪を避けきることは至難、と思う。
「人の死に立ち会う、よくそんなハードな仕事続けておられますね」と声をかけられることがある。「人を助けたいんです」、みたいなことはここまで年を重ねると、気恥ずかしくて言えない。「ええ、罪滅ぼしで」となら言いやすい。
「戦場に行かなかった罪」「地震や津波で家族を失わなかった罪」「自分が死ななかった罪」「今年も無事に桜を見た罪」。
えっ、それって罪かあと言われそうな罪の、罪滅ぼし。
 仏教は、罪や悪の反対側にある善、施しが人間にはあるとして、「無財の七施」を教える。「眼施(げんせ)」「和顔施(わがんせ・優しい顔をする)」「愛語施(あいごせ・愛情ある言葉を使う)」「身施(しんせ・体で奉仕)」「心施(しんせ・心配り)」「牀座施(しょうざせ・座布団を出したり、席を譲ったりする)」「房舎施(ぼうしゃせ・宿を用
意する)」の七つ。身分も知識もお金もない者でも、これらの行為を他人にしてあげることができるという。
 最初の眼施は、優しい目で人を見るということで、容易そうで奥深い行為、とも思える。ホスピスケアに限らず、ケアそのものの原点は「眼施」、だろう。
 死の臨床の原点ともいえることを青木新門さんは「納棺夫日記」(文春文庫)に書いている。「末期患者には激励は酷で、善意は悲しい。説法も言葉もいらない。きれいな青空のような瞳をした人が側にいるだけでいい(要旨)」。
 日に日に老眼が進む中で、そんな瞳について憧れながら、考えている。
___________
罪を償い清め、無かったことにする前者、施すことで相手を喜ばせ現実を変えていく後者。
ホスピスの現場でなくとも、日常の中でも納得する話だと思いました。



 
黄色い太陽

2017年5月21日 (日)

古典論理が人類を破滅に追い込むa

古典論理は同一律・矛盾律・排中律の三つから構成されている。
同一律(Principle of identity)
「AはAである。」「A=A」
「AはBである。」「A=B」
矛盾律(Principle of contradiction)
「AはAである。」「A=A」と
「AはAではない。」「A≠A」が
同時に成立することはない。
「AはBである。」「A=B」と
「AはBではない。」「A≠B」が
同時に成立することはない。
「命題とその否定命題が同時成立することはない。」
排中律(Principle of excluded middle)
「AはAである。」「A=A」か
「AはAではない。」「A≠A」の
どちらかだけが成立する。
「AはBである。」「A=B」か
「AはBではない。」「A≠B」の
どちらかだけが成立する。
「命題かその否定命題かのどちらかである。」
古典論理は
個人、家庭、組織、国家の同一性を担保している。
個人、家庭、組織、国家が
古典論理を振り回すことによって
個人同士、家庭同士、組織同士、国家同士の対立が発生している。
この対立が人類を破滅に追い込む。
戦争、紛争、経済戦争は
古典論理が引き起こしている。
この人類の破滅を解決する為には
古典論理には存在しない「容中律」の論理の力が必要である。
容中律(Principle of included middle)
「AはAである。」「A=A」と
「AはAではない。」「A≠A」の
両方が成立する。
「AはBである。」「A=B」と
「AはBではない。」「A≠B」の
両方が成立する。
「命題とその否定命題が同時成立する。」
排中律と容中律は完全に矛盾する。



千田祐介

2017年5月 8日 (月)

現実を作るのは心の癖

宇宙の法則は単純 使わないともったいないリンクから引用させていただきます。
---------------------------------------
現実を作るのは心の癖。
現実をどっち側から見るか。
例えば、いつも否定的な方向から見る人。
どんなに素晴らしい出来事、環境でも、すぐ欠点に目が行ってしまう人。
例えばワタスがインドに行く。ワタスは素晴らしい国に思えた。
でも、欠点に目を向ける人ならインドは発展途上です。
あれもないこれもない。人によっては文句ばかりの国になってしまうでしょう。
それはその人が欠点が大好きだということです。
欠点ばかり見てるとそういう世界を引き寄せる。
現実は後、心の癖が先。
(中略)
ワタスは宇宙の法則は非常に単純だと思っています。
大きな家に住みたい。お金が欲しい。 楽な仕事がしたい。
そういうことばっかり言ってると願望が見事にかなう。
ますます大きな家に住みたくお金が欲しい状態になる。
あれもないこれもない。あれもこれも欲しい。
そう暮らしてると、見事に願望がかなって何も手に入らない状態になる。
だから、たった今をどっち側から見るか。
何にもない状態から脱出したいのなら、なんもないよ~と言ってる時間を減らして何もかもあると思う時間を増やせばいい。
欠点ばかりの人と別れたいならその人の欠点を許して、その部分を見るのをやめるだけで良い。
超単純です。
ワタスは何にもいりません。 毎日満たされてます。ありがとうございます。 毎日、感謝してる時間を増やす。
そうすると益々満たされる世界に行く。
ワタスは最近はそのパワーがどんどん増してる気がするのでした。
だから最近は宇宙の法則を使わないとかなりもったいない。
こんな単純な仕組みを利用しないと損だ。
---------------------------(引用終わり)-----


上前二郎

2017年5月 1日 (月)

【あの人は頭が良いから出来る。私は頭が悪いから出来ない。】

「あの人は頭が良いから出来る。私は頭が悪いから出来ない。」、「それは、あなたの部署だから出来るが、私の部署では出来ない」と、繰り返す人が大人にも子供にもいます、
どう考えても間尺に合わない。
「私は頭が悪いから出来ない。」を呪文のように唱える人は少なく無い。もちろん根拠は無い。「私は頭が悪いのだから、出来なくても仕方ないじゃないですか。」と開き直っているだけ。もしくは、「頭の悪い私に、そんな難しい仕事を押し付けるあなたが悪い」と責任転嫁に使っている人も・・・。
このような人材は、一旦、横に置いといて、「頭が良い、悪い」=「出来る、出来ない」は何で決まるのかを考えてみました。
一般的に
・「様々な問題に対して答えを出せる人」を「頭が良い人」=「出来る人」
・「全く共認できない内容を主張」し、「ほとんどの問題にたいして、分からない、出来ない」と言う人を「頭の悪い人」=「出来ない人」と捉えている人が多いように思います。
どこに違いがあるのかと考えると
「頭の良い人」は、様々な問題を捉えていることから考えて、対象領域が広いと考えら「大所高所」から物事を捉えているのに対して、「頭の悪い人」は対象領域が狭いと考えら「枝葉末節」だけを捉えていると思われます。
共認動物である人類の対象領域で考えると、「みんな」と「自分だけ」の違いになると思います
もう少し踏み込むと「自分だけ」を考える人は自分以外のことは捨象しているのだから、自分にとって関係の無いことは全く考えることが出来なくなり「わからない、出来ない」のオンパレードとなり、かつ、「潜在思念の共認部分が生起しない」ため共認できないことばかりになり、結果、みんなから「頭が悪い」と言われるようになると考えられます。
さらに記憶蓄積という観点から捉えると
頭の良い、悪い人材に拘わらず、共に蓄積されているものは潜在思念(本能+共認)で約35億年の蓄積がある。それに対して、生まれてから獲得した観念(知識・情報等)は高々が数十年年程度の差。
・頭の良い人=(数十年+35億年)/(35億円)≒1.0
・頭の悪い人=35億年/35億年=1.0
数値的には差が無いといってよいレベル。
「頭が良い、悪い」の決定要素は対象が「自分のため」か「みんなのため」か、の違いのみとなる。
だとすると「私は頭が悪いから出来ない」=「私は自分のことしか考えていない人」になりますね((^_^)ニコニコ)
しかし、「出来ない」と繰り返す人に対して、周りの人がアドバイス(根拠も提示)をしている筈なのだが、中々、改善されない。
「なぜか?」この疑問に対する答えがるいネットにありました。
・・・・・・・・・・
【すぐに「できない、できない」と言う人は謙虚なのではなく、自信がないわけでもない。むしろ高慢なのである。】リンク より(抜粋)
この世の中には、何かを指摘されると、すぐ「自分にはそれはできない」と答える人がいます。
一見すると、その人は自信がなくて、本当に能力がないと思ってそう言っているように見えます。ですから、周りの人たちもこの人には何を言っても無駄だと思って諦めるようになります。
しかし、何事もすぐ「できない」と言う人は、本当に自信がないのではなく、本当に能力がないわけでもなく、ただ単に高慢なだけ、という場合が大半です。
なぜなら、指摘されたことを心から受け入れて、自分は間違っていると認め、その間違いを治そうと思うなら、その人の口から出てくる言葉は「できない」ではなく、「やってみます」となるはずです。
しかし、「やってみます」と言わずに、すぐに「できない」と答えるのは、その指摘を心から受け入れていない、あるいは受け入れたくないと思っている証であり、どうして受け入れないのか、受け入れたくないのかといえば、その人が高慢だからです。
ですから、もし自分が少しでも人から指摘されて「できない」と思ったり、「できない」と口に出して言ったりすることが多いようでしたら、一旦、立ち止まって冷静に考えてみてください。もしや自分は高慢になってはいないだろうか、と。
-略-
実現の時代。謙虚な人ほど、何にでもチャレンジしようと動き出している。
この期に及んで「出来ない理由」ばかりを考え、すぐに「無理」と言うような者ほど、現実捨象の他人事思考。
-略-
・・・・・・・・・・


 
加藤俊治

2017年4月18日 (火)

努力しない人がグチを言う

リンクより
///////////////////////////////
クリスティーヌ・ルウィッキー氏の心に響く言葉より…
グチは自分でも気がつかないうちに生じる反射的な行動であり、グチを言っているだけであれば、新しいことをするエネルギーも必要ありませんし、新しいことに注意を向ける必要もありません。
それに対して、グチをやめようとすると、自分の置かれた状況を客観視しないといけないので、頭を使う必要が出てきます。
だからこそ、最初のうちは大変なのです。
「グチを言わない」というのは努力の産物です。
不運は不運として受け入れた後で、あきらめることなく自分に何ができるかを考え、それを実行に移す。
これは単にグチを言うのに比べると、ずっと労力を要求される知的な活動です。
しかも、周囲の人を巻き込むためには、言葉で自分の考えていることをはっきりと表現することが必要となります。
心理学の研究によれば、楽天主義者に比べると、悲観論者はボキャブラリーがずっと貧弱だそうです。
また、これは若者の場合ですが、語彙が貧しければ貧しいほど、暴力を振るう傾向にあるということも証明されています。
つまり、言葉で表現できないからこそ、相手に暴力を振るってしまうのです。
『いつもの「グチ」がなくなる本』グロスメディア・パブリッシング
《打つ手は無限》( 滝口長太郎)
すばらしい名画よりも
とてもすてきな宝石よりも
もっともっと大切なものを 私は持っている
どんな時でも どんな苦しい場合でも 愚痴は言わない
参ったと泣き言を言わない
何か方法はないだろうか
何か方法はあるはずだ
周囲を見回してみよう
いろんな角度から眺めてみよう
人の知恵も借りてみよう
必ず何とかなるものである
なぜなら打つ手は常に 無限であるからだ
( 滝口長太郎)
グチを言わない人は、それをなんとかしようと、ありとあらゆる努力をする。
何か打開策はないかと打つ手を探す。
「努力しない人がグチを言う」
どんなに苦しくとも、グチを言わない人でありたい。
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原てふ子

2017年4月 5日 (水)

「首から上」と「首から下」

「首から上」には
五感の内の視覚(目)、聴覚(耳)、嗅覚(鼻)、味覚(舌)の四つが集中しています。
文明は「首から上」、特に視覚(目)と聴覚(耳)と味覚(舌)を刺激します。
国家も人種も民族も政治も経済も法律も
警察も軍隊も兵器も戦争も戦闘も紛争も
組織も科学技術も学問も哲学も人権も
教育もメディアも広告も機械も建築物も
テレビもパソコンもスマホも携帯も自動車も鉄道も
コンピューターもインターネットも
スポーツも性産業も娯楽もアニメも漫画もゲームも
「首から上」、特に視覚(目)と聴覚(耳)と味覚(舌)を刺激します。
裏を返せば「首から上」しか支配出来ません。
「首から下」を支配するのはほぼ不可能です。
今の時代、「首から上」が完全に暴走しています。
その一方で「首から下」が置き去りにされています。
欧米文明は「首から上」の発想で「首から上」だけをひたすら刺激します。
東洋思想は「首から下」の発想で「首から上」を極力刺激しません。
欧米文明の暴走を止めることが出来るのは東洋思想だけです。
「首から上」の暴走を止めることが出来るのは
置き去りにされた「首から下」に意識を集中させることだけです。



千田祐介

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